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2015/8/28  15:22

邪馬台国を行く B  


其の死するや 棺有れども槨無く 土を封じて塚を作る
始めて死するや 停喪すること十余日なり 以下略

これは、魏志倭人伝に記載されている倭国の死者の埋葬の様子である。
棺有れども槨無く とは、死人を棺には入れるが、中国の墓室の様に囲いのある部屋は作らない、と言う事。

土を封じて 云々は、その棺を直接土の中に埋めて土を盛り、塚を作るという事なのである。
そして、死人の出た家では十日余りの間、喪に服すと書かれている。

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 ( 魏志倭人伝 紹熙本原文 右編左寄りに葬送の記事が見える )

近年の古代遺跡の発掘による考古学の成果には、目覚ましいものがある。

特に注目される様になった、奈良県は桜井市の巻向遺跡の発掘では、ホケノ山に代表される出現期古墳の築造年代が、卑弥呼の年代である3世紀初頭から中頃までに遡るのではないかと、考えられるようになった。

このホケノ山古墳は、埋葬施設の中から庄内式3期の土器が発見され、その築造年代を3世紀中頃とする説が有力となっている。

また、ホケノ山古墳だけでなく、巻向大塚古墳や勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳等のこれら巻向遺跡の中に存在する古式古墳は、出土した土器の鑑定からすべて3世紀の築造とされているのだ。

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 ( ホケノ山古墳の航空写真 国土地理院HPより出典 )

ホケノ山古墳の発掘調査によって、邪馬台国畿内説を唱える研究者や考古学者は、俄然色めきたったのである。
巻向遺跡は、邪馬台国の痕跡であると・・・。

しかし、これらの事は間違いのない事なのだろうか?

元産能大学教授の安本美典氏は、こう警告している。

「 邪馬台国畿内説を唱える学者や研究者が、巻向一帯の古式古墳の築造年代を、より古くに持って行こうとするのは、いかがなものか。
庄内式、あるいは布留式土器が出土したからと言って、それが必ずしも古墳の年代を決める事に対しては、もっと慎重になるべきである。 」

「 土器も鏡と同じく、価値のある大切にされていた土器は、親から子へと代々伝えられて行ったとしてもおかしくはない。
庄内式土器の年代については、考古学者の間で一致した見解が得られている訳ではないのだ。 」

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 ( ホケノ山古墳 左手に追葬の跡がある )

もう一つ、ホケノ山古墳の埋葬施設は、石囲い木槨と呼ばれる木材で作られた囲いの回りに、川原石を積み上げて石囲いとした二重構造になっている。
その中に、木棺が納められていたのである。

今一度、倭人伝の記述を思い出して頂きたい。

倭人伝には、棺有れども槨無く 土を封じて塚を作る とある。

もし、ホケノ山古墳を邪馬台国のものだ! とするならば、これをどう説明するのであろうか。

続く・・

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2015/8/24  16:08

邪馬台国を行く A  


魏志倭人伝より 「 男子は大小と無く 皆 鯨面文身す(中略) 文身は また以て 大魚水禽をはらう也 」 とある。

鯨面とは、顔の入れ墨、文身とは、体の入れ墨を指して、区別する。
文身して、大魚水禽をはらう・・ とは、サメ(大魚)から身を守る という意味なのだ。

縄文の遺跡から発掘された土偶の中には、顔や体に色々な模様を刻んだものがあるが、これは鯨面・文身(入れ墨)と考えてもよいと思う。

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 ( 盛岡 繋萪内遺跡 出土 )

再び倭人伝より 「 諸国の文身 各々異なる 或は 左右 大小 尊卑 差有り 」
これは、3世紀の邪馬台国周辺の国々に於いて、文身(入れ墨)は同じ種族を表わす一つの目印だったと思われる。

諸国によって文身が異なるという事は、例えば戦いが始まった時に、敵味方の区別をする為に重要だったのであろう。

従って、大小 尊卑云々 つまり大人や子供、賢人や卑しい人等によって、程度の差はあれ文身していたと、魏の使者は見聞しているのである。
即ち、縄文から弥生期の原日本人は、男女と言わず相当に入れ墨を施していたと考えても、おかしくはない。

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 ( 函館 著保内野遺跡 出土 )

ところが、奇妙な事に3世紀以降7世紀の後半には、鯨面・文身の風俗は身分の低い者以外、ほとんど見られなくなってしまっている。
3世紀から7世紀後半の約400年の間に、入れ墨と言う習俗がほぼ断絶という状態になってしまったのだ。

ここに一つの謎がある。

もし、邪馬台国がそのまま大和王権となったならば、王権の中に文身の習俗が、そのまま伝えられていてもおかしくはない。
しかし、そうはなっていないのである。

記紀に登場する神武天皇以下の皇統には、文身の記録は存在していない。
入れ墨と言えば、久米部であり、安曇族であり、蝦夷であり、これら一部の部族のみに伝承されているのである。

これらの事は、何を意味するのであろうか?

筆者には、ある時期を境に、この原日本人とも言うべき倭人の文身(入れ墨)という習俗が、廃絶に向かったと考えられるのだ。

つまり新しい文化を持った、しかも文身と言う習俗を保持しない種族が支配階級になり、倭人を支配していったのだと思う。

それは極端な事を言うならば、異民族の侵入であり、倭人の征服ではないのだろうか・・・。

続く・・

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2015/8/19  12:19

邪馬台国を行く @  


奈良県は桜井市巻向にある”箸墓古墳”が、謎の邪馬台国の女王”卑弥呼”の墓ではないか と言われて久しい。
現在のところ、宮内庁書陵部に記載されている資料では、被葬者は崇神天皇の叔母に当たる”倭迹迹日百襲姫命”という事になっている。

最初にこの箸墓が、邪馬台国の女王”卑弥呼”の墳墓である と言う論文を発表したのは、邪馬台国研究の笠井新也であった。
笠井新也は、卑弥呼も百襲姫もその人物像が巫女としての特徴や事跡を備えているとして、卑弥呼=百襲姫=箸墓 という関連説を説いた。

しかしその説も、信偽の漠然とした記紀の神話を土台にした為に、致命的な欠点を持つ事になってしまったのである。
現在のところ、卑弥呼と百襲姫は同一人物であるという決定的な繋がりは全く無く、卑弥呼=箸墓という考古学上の証拠も無い・・ とすれば、いかに優れた研究でも、笠井新也の説は成り立たない事になる。

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 ( 箸墓古墳 )

倭人伝に、「卑弥呼 以に死す 大いに冢を作る 径百余歩あり」と有るのは、箸墓の事だろうか。
箸墓の実測図を見ると、後円部は5段に築成された事がはっきりと分かるのだが、後方部には築段の造作は見られない。

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 ( 箸墓古墳 朝日新聞記事より出典 )

このことから、箸墓は元々円墳であって、後方部は後世の改築である と言う説を唱える人もあるが、真偽の程は分からない。
何分にも天皇家の陵墓であり、詳しい実体調査が出来ないのだ。

現在、この大きな箸墓古墳について言える事は、3世紀末から4世紀初めにかけて、この墳墓のある桜井市・箸中一帯を支配した豪族で、この土地と深い繋がりを持つ人物である と言う事だけである。

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 ( 箸墓の航空写真 国土地理院HPより出典 )

それが箸中一族の首長なのか、卑弥呼の邪馬台国なのかは、この古墳の中から墓誌と呼ばれる物でも発見されない限り、不可能であろう。

陵墓と言うだけで、頑なに学術調査を拒否し続けている宮内庁の柔軟な対応を、これからは望みたい所である。

続く・・

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2015/8/18  11:39

再開 の お知らせ  

都合により、しばらくの間休止していましたが、再開しました。

よろしくです。  m ( u _ u ) m

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