「アメリカではこう、ヨーロッパではこう、それに対して日本では…」という型にはまった議論がよくあるが私はキライ。アメリカにしてもヨーロッパにしても、それぞれに特有の文化や歴史などがあり、その連続性のなかから「今」が生まれたはず。参考にすべき点はもちろんあるはずだが、全てが日本において最良ではない。
そうは言っても、災害対策に関して、アメリカのそれを見ていくと、一日の長を感じざるを得ない。もっとも、本来は一日の長は日本にこそあるべきなのだが…。
日本における災害対策の現実は、行政主導である。いざ地震、水害となれば、全ての情報を役所に集約し、そこから指示・命令を発し、消防・警察など様々な手を駆使してなんとか対応しようとする。
必ずしも悪いとは言わない。行政の手で全てを解決できるのなら、それに越したことはないかもしれない。しかし、阪神・淡路大震災以降、行政の手だけでは全てに対応しきれないことを、多くの災害事例が教えてくれた。
これを受けて、現在も内閣府にて災害ボランティアの推進枠組が検討されているように、パブリックセクターに偏重しない方向性が少しずつ追及され始めている。しかし、その道はまだ始まったばかり。文章上に、「災害時は自助・共助」と語ったところで、それを担保する「実体」はまだ数少ない。
恐らく、苦し紛れに「自主防災組織を中心に」と様々な文書に書くのだろうが、全国平均60%超の組織率もハリボテであることをみんな知っている。災害ボランティアの組織も、数は増えつつあるものの、そこにある意識の高さに対応するほどの現実的活動能力を備えた組織は少ない。
これが日本の実態だとして、一方のアメリカはどうか。必ずしも災害に関してだけではないが、アメリカ社会における基本は、個人の自助努力。災害対策においてもそれは貫かれていて、「政府や自治体が災害時にできることは限られる、だから皆さん自身でなんとかしてください」という思想が根底にある。行政主導の日本型との違いは大きい。
冒頭に欧米礼賛は安易と書いたが、少なくとも災害対策の基本思想に関しては、完全にアメリカの勝ちだと思っている。政府や自治体が一時的に機能を失うことは、この10年間の経験が最も雄弁に語る現実なのだ。
一般的に、アメリカには日本ほど強い地縁コミュニティが無いため、いわゆる自主防災組織的な存在はない。その代わり、アメリカの根底を支える多くの人が携わるボランティア活動が、アメリカにおける災害対策の根幹をなす。
象徴的な例で言えば、かつて何度も地震やタイフーンに襲われているカリフォルニアにおいては、NERT(Neighbourhood Emergency Response Team)という住民組織設立が推奨されている。しかし、これは日本のように、行政が音頭をとって、域内全地域に同形態組織を作っていくものではない。行政は、その組織ノウハウ、技術面の訓練、情報伝達を行い、そうした内容を含む講習を受講したそれぞれの住民が核となって、組織化を促すしくみになっている。
これは、「好事例」として連邦単位でも取り上げられ、日本でも有名なFEMA(現DHS:Department of Homeland Security傘下)がCERTと呼称下上で、リーダー養成・訓練プログラムを全国展開した。
長くなるので、この辺でやめておくが、この点に関しては、日本はアメリカのあとを追いかけるべきだと考えている。もちろん、ボランティア組織以外に、地縁を構成原理とする自主防災組織(自治会)が現存するため、それとの調和、協力関係を深める意味では、アメリカ型をそのまま導入するわけにいかない。
都市化の度合いなど様々な点を考慮しつつ、既存の組織と新しい組織を融合させ、根底に「市民」主導の思想を敷き詰めていくべきである。その際、災害ボランティアの語意第一位は、全国各地の災害現場へ駆けつけるセミ・プロから、居住地域での災害に自発的・能動的に関与しようと行動する大半の人の集合、ということになる。
私は現在の日本における災害対策の問題の根底はコレだと思っている。即ち、行政主導の限界認識を踏まえつつ、本質論(災害時には自分で何とかする以外にない)の観点からまさにボランタリーな行動を引き出すべきであり、行政の施策はそのノウハウ提供、活動推進、訓練・情報提供を志向しなければならない。
それができている都道府県、市町村はあまりない。しかし、それが無かった場合、50年の範囲で90%以上の確立で発生するとされる第二次・関東大震災では、阪神・淡路を大きく超える実犠牲者、実損が発生することに間違いは無い。