日本語(やまとことば)の「おほやけ」。
漢語の「公(コン)」。
英語の「public」。
『公』と表記され、『おおやけ』と読まれて使われている言葉の背後には、これら少なくとも3つの原義がある。やまとことばの「おほやけ」には、小を包含する大なるものとの意味があり、現代における公共とは必ずしも意味を共有しない。漢語の「公(コン)」は、即ち天であり、儒教的倫理観を前提とした善悪の価値観を根底に有する。英語の「public」は、人々という全体集合の中で、下から上へ意味空間が広がり、包摂概念を否定(「private」でない世界が「public」)する観念である。
何が言いたいかといえば、日本・日本人の『公』意識は間違っていないか、間違っている傾向が強くないか、ということである。
『公』を『私』と一線を画した「向こう」にあるものとして捉えていないだろうか。『私』とは全く別の存在として認識していないだろうか。さらに言えば、『公』を『私』と対立的な存在として捉えていないだろうか。私はこれを「対立的二元観」と呼んでいる。
もちろん、全ての人が完全に「対立的二元観」に拠っているとは思わない。しかし、私自身を含め、多くの人に、「対立的二元観」が多かれ少なかれ存在していることに大きな異論はないだろう。「対立的二元観」からは、都合よく、勝手に、感情のみにもとづいた、思いつきの「他者批判」が発生する。批判は悪いことではないが、問題はその批判が「私は関係ありません」という前提のもとに、「他者」に対して向けられることである。
改めて考えてみたい。民主主義下にある日本という国において、主権者はだれか。選挙権をもとに、国権の最高機関の構成を決定するのは誰か。軍事組織の最高指揮官が「文民」に限定されている理由は何か。我々は、批判を、ある意味では「自分自身」に向かってもなすべきなのである。
だからといって、社会保険庁がいい加減なことをやっているのは私が(あなたが)悪い、などと飛躍したことを言いたいのではない。それはそれ。だが、例えば災害で発生した被害について、行政の怠慢と政府の無策をひたすらに追及する前に、私自身がどうすべきなのか、『公』を構成する私に何ができたのかを考えたい。そして、その上で、『私』では対処しきれない部分について政府・行政という『公』の一部がどうすべきであったかを批判したい。
例えばで災害の話しを用いたが、現在大きくクローズアップされている国家的課題の根底に『公』と『私』の関係性という問題が横たわっている。社会保障、財政、教育、高齢化、少子化…。すべて問題は我々自身の問題である。
誰かが何かをやってくれた時代もあった。そんな時代は確かに心地よかっただろう。しかし、そんな時代は終わった。二度とやってこない。我々は「誰かが何かをやってくれる」のではなく、「私になにができるか」に発想を改めなければならない。強者の論理になりかねないことは重々承知している。しかし、それでも、もう昔のような余裕はないのである。
厳しい時代を、それでもできるだけ温和に、優雅に、暖かく活きるために、今、根本的な発想の転換と、それを踏まえた具体的な行動が必要であると考え、私は一歩ずつ実践していくつもりである。