結局のところ、私は「おおやけ」を作りたいと思っている。作りたいというとちょっと語弊があるかも知れない。「おおやけ」が全くないわけではないからだ。厳密に表現すれば、「おおやけ」の姿を改めたいということになる。
前に触れたことがあったようにも思うが、「おおやけ」はヤマト言葉に原義があり、小さなものを包含する大きなもの、というような意味を持つ。ここには、そもそもは明確な上下関係が存在した。この概念構造をベースに、大和朝廷の成立とあいまって、日本という国家において天皇を頂点として上から下に上意下達されるシステムが出来上がった。ここに成立した「おおやけ」は即ち天皇であった。
明治維新を経て、曲がりなりにも議会制民主主義が導入されていった経過のなかで、天皇が体現していた「おおやけ」は「国家官僚」に変わった。上意下達の構造を有する「おおやけ」は、国家のシステムを変えたからといってそう簡単に変わるものではない。日本人の心に千年以上行き続けてきた精神性なのである。
私は、この精神性、「おおやけ」構造を改めたいと思っている。それは、天皇制打倒や官僚支配打破などといった軽々しいキャッチフレーズを意味するものではない。「おおやけ」を「わたくし」間に共有する領域であるとした上で、他者が作る「おおやけ」でなく「わたくしたち」が作る「おおやけ」の世界を実現したいのだ。
概念構造のみをシンプルに表現しようとすれば、要は「おおやけ」の「pubilic」化と言えるかもしれない。「public」を「おおやけ」と訳したのは福澤諭吉であったが、未だ「おおやけ」と「public」の乖離は大きい。国々の文化、歴史、習俗の違いゆえ、「おおやけ」と「public」は決してイコールにはならない。日本には日本なりの持っていき方があるだろう。
しかし、その本質部分、上意下達の他者が作るシステムか、自主自立(自律)の自ら作るシステムか、かは「pubulic」に普遍性があると信じる。今の日本、言葉の上では「pubulic」が流布しているかもしれない。しかし、その内実はどうか。
「官僚が牛耳っている」という要素があることは事実だろう。ただ、その根本は我々自身の「おおやけ」意識にあるのではないか。我々は、本当に「おおやけ」を自らのこととして捉えているだろうか。身の回りに多発する犯罪、子供を育てにくい現状、何度地震が起こっても減らない死亡率、700兆を超える国債残高、東アジアにおける地域紛争の火種…。誰かが何とかしてくれると思ってはいないか??
他人事で済まされてきた時代は終わった。身の回りのコミュニティ、日本という国、世界という全体…。それぞれにまたがる「おおやけ」は我々自身が作っていくものなのである。決して誰かはなんとかしてくれない。冷戦直後のあの頃、世界という「おおやけ」を他人事としてチャランポランな議論をしていた日本を見て抱いた私の怒りは、単なる安全保障問題への関心でなく、日本という国、社会、日本人自身への問題認識に至り、災害対策という領域のなかから、解決のひとつの糸口を探る活動に結びついている。
これからも他人事で済まされるかもしれない?そう、誰かに言われるがままに生かされて行きたいのなら…。