月次で1本、一定のテーマに基づいてレポートを提出することが政経塾にて課されている。4か月1タームで、人間観・歴史観・国家観・個人テーマ、が大くくりな課題である。
本当は3月初旬に出さなければならなかった国家観レポートだが、先日記載したように「はしか」を患ってしまったため、まだ提出できていない。さすがに1か月以上を経過し、なんとかここ数日で出そうと焦っている。
ただ、単なる読書感想文ではなく、国家観について5,000字のレポートを書くのはそんなに簡単ではない。国家観、国家とは何かである。多くの研究者なり政治家が一生を通じてたどり着けないこのテーマをそうそう簡単にこなせるわけもない。と言いつつも、提出しない限りずっと頭を占領し続けるため、ただ今戦闘中。
考えているのは、「公」と「国家」の関係性。しばしば「公」=「国家」という前提、暗黙の了解の下で議論がなされるが、まずこの点が間違いであることは指摘したい。国家が担う公はあくまでも部分に過ぎない。
加えて、国家が担う部分的な公の変化に関する考察を加えたい。根源的な存在目的であった物理的暴力の一元管理、要は国民の生命と財産を守るための軍事・安全保障機能という側面。原始共同体にて担保していた共助機能の外部化による福祉国家的側面。両者が国・地方それぞれにおいて、どう担保されていて、どう変化しようとしているのか。
「大きな転換期」などと、マスコミ的な軽い表現の根底には、実はこうした思想展開を含めた巨大な変動があると考えている。