「Yahoo!投票」というネット投票がある。トピックスページ右下で見かけた人は多いだろう。今日、なんとなしに見ると、そこには
「日本のテロ対策は、十分に対応できていると思いますか? 」とある。
見ている現在では、「対応できていない」が5割半ば、「どれだけ対応を考えても限界がある」が3割半ば。いずれにしてもネガティブな反応で大半を占める。長くIRAによるテロと対峙してきた英国社会で起きた事態の直後であれば、そういった反応になるのは当然で、誘導尋問に過ぎないかもしれない。
大都市圏に住む人以外にとって、身の回りでテロが発生するリアリティは少ないのかもしれない。しかし、テロは地下鉄や高層タワーでのみ起こせるものではない。人間に恐怖感を植え付けることができれば、いかなる手段もテロと化す。ようやくメディアでも注目されるようになってきた、B(バイオ)テロやC(chemical)テロは、目に見えないだけに、一層の恐怖感を巻き起こす。それぞれの性質にもよるが、人間の移動を媒介に拡散する傾向も強い。確率論からすれば、大都市圏に集中するが、無関心ではいられない。
「対応できていない」として、どう対応するのか。現実には、空、海、情報…、様々な取り組みはなされている。空港のセキュリティチェックで靴を脱がされたことに憤慨する言論が見られたことも記憶に新しい。しかし、空港の例で実感できるように、テロ対策は自由や利便性、効率性と背反する場合が多い。確かに、「どれだけ対応を考えても限界がある」のが現実だが、そのリスクを減らそうとすればするほど、実生活におけるストレスは否応なく高まる。
さて、これから日本はどうするのか。今までどおりの生活、カネをかけず、個人のプライバシーを維持、その上でテロ対策の充実…。残念ながらありえない。どこかに線を引いて、安全と自由の均衡点を定めなければならない。その均衡点とはどこに…。
途中を省略するが、日本人の新たな国家観の上にしか、その均衡点は存在しない。権力・暴力を持つ国家という存在を「危険なモノ」、自らと縁遠い「他者」と認識している限り、自由でありながらテロ対策を進めることは困難である。天然痘のワクチンを備蓄したり、空港で靴を脱ぐ程度のことはできても、根本的にテロを回避し、起こりうる事態に即応する態勢を整備することはできない。そこで、「対策」が必ず「自由」とぶつかるからだ。
テロ対策だけのことではない。自然災害も含めた災害対策としてみた場合、よりマクロな安全保障という観点から見た場合、さらには子育てから財政問題に至るあらゆる問題の根底に、この国家と国民という課題が横たわる。
自己を滅却してお国のために尽くした時代に戻してはならない。しかし一方で、国家という存在、国家における自己という認識を遠ざけてはならない。結局のところ、これはペーパー上の政策によって解決できる問題ではない。政治が政治家が、信念と使命感、そして良質なバランス感覚を持って発言・行動すべき対象なのだ。そして、それは、地方と国とを問わず、個人と権力の観点において共通する日本全体の課題である。
テロ対策を考えているときも、地震に対するコミュニティ防災を考えているときも、安全保障も財政問題も少子化も…、私の頭の根っこには常にこの課題があり、私が今後行動し続けていく目的もそこにある。