つい最近、「防災」という言葉に漂う他者依存と行政偏重のイメージを振り払うために、あえて「災害対策」という言葉を使うようにしている、と書いた。その直後に「防災」をタイトルとして使うことに若干の抵抗があるものの、今回はそこを流す。
中越地震から半年が経過しているが、様々な場で「防災」が語られていることはすごくいいことなんだろうと思う。ただ地方・国を問わず各地の議会と、多くのマスメディアで語られる「防災」は、相変わらずのハード偏重。曰く、避難所となる小学校の耐震性、行政防災無線のレベル向上、物資搬入ルートの観点からの道路整備…。
ハードは非常に重要。いざという時に、「市役所が崩壊しました」では、阪神淡路のような大規模火災への対応はままならないだろうし、「避難所つぶれました」では、どこで当面の避難生活を送っていいか分からない。だが、ハードのみで完結しないということが、この10年強の経験から得られた最も大きな教訓の一つである。
世界で最も進んだ災害対策を持つのは日本と米国であるとされる。地震をはじめとした災害が多発すること、それに対応する経済力をはじめとした政治的ポテンシャルを持つこと、を考えれば、確かにその2か国が世界一であるのかもしれない。
しかし、両国が「進んでいる」ことの中身は異なり、日本はハード、米国はソフトであるとされる。米国のハードが日本のレベルに至らないのかは定かでないが、ソフトの面において日本のレベルが米国のレベル以下であることは間違いない。
その最たる例が、ローカルなコミュニティ単位での「防災」力であろう。少なくとも、サンフランシスコでは、ノースリッジ地震以降、発災直後の救出活動に始まる一連の災害対応は、基本的に現場主導であるとの前提に基づいて、様々なボランタリーな団体が住民の手で運営されるようになり、行政がそのサポートにまわる態勢が整えられていっている。
現場主導であることは国が違えど変わらないわけだが、では日本ではその現場主導において誰が、どういうヒトが主導するのか?アメリカと同じようにボランティアがというわけにはいかないだろう。ただ、本当に自主防災組織だけでOKか?
今の日本で「防災」力を語るなら、この点をこそ語らなければならない。もちろんハードの整備向上は不可欠である。ただ、ハード面だけからでは、財政的にも技術的にも、これで良しという地点に永久に至らない。より不足しているソフト面をいかに底上げしていくかという、地道な取り組みが最も重要なポイントなのだ。