1970年代ソビエトのヒットソング
希望
Надежда
《吹雪の中、蒼く黄昏るモスクワ》
作詞 N.ダブラヌラーヴォフ
作曲 A.パフムートヴァ
名コンビによる1974年の作品。70年代のヒットソングですが、今でも根強い人気を持っています。
1970年代、旧ソ連はブレジネフ時代の末期で、社会的停滞期にあたり閉塞感が強まっていました。
ダブラヌラーヴォフの歌詞が当時の人々の心の琴線に響くものであったろうことが推察されます。
時代と状況は異なりますが、私たちもまた希望をうたっていきたいものです。
日本ではダブラヌラーヴォフはあまり知られていませんが、パフムートヴァは『心騒ぐ青春の歌』の作曲者としてよく知られています。
パフムートヴァとダブラヌラーヴォフは意気のあった協同者で数々のヒット曲を世に送り出しています。
アーンナ・ゲールマンやムスリーム・マゴマーエフの歌唱でヒットしました。
この曲は『ロシア民謡集』(飯塚書店、1976年)で飯塚広訳によって紹介されたことがあります。
ただし飯塚訳は原意を正しく伝えていたとはいえません。
光っているのは見知らぬ星
また僕らは家を離れている
僕らの間にはまた幾都市隔てた遠い道のり
飛行場の離陸灯…
ここは霧と雨
肌寒い夜明け
人生の未知の行く手に
待ち受けるのは複雑な出来事…
【繰り返し】
希望は人生のコンパス
成功は勇気に対する褒賞
歌は1つで十分、
故郷の家のことを歌っているだけの歌ならば
君は信じる、ここ、遠くからは
多くのことが目につかなくなると
雷雲は消え、
侮辱はばかばかしく取るに足りないものに見える
必要なのは待つことを学ぶことだけ
必要なのは冷静で忍耐強くあること
時おり人生から、電報のような束の間の
喜びを受け取るために
【繰り返し】
昔のように忘れることはできない
いつだったか、歌い終えなかったことのすべてを
疲れた、それでいて美しい眼差し
蒼く黄昏るモスクワの吹雪…
僕らの間にはまた幾都市隔てた遠い道のり
人生は、昔のように僕たちを離れ離れにする
空には見知らぬ星が輝いている
希望を記念するように
【繰り返し】
(中島章利訳)
《アーンナ・ヴィクトーリヤ・ゲールマン》

1936年2月14日ウズベキスタン、ウルゲンチの生まれ。1982年、ポーランドのワルシャワで没。
ポーランド、ソビエトのエストラーダ歌手、作曲家。60年代から80年代初頭のエストラーダのスター。さまざまな国の言語で歌った。
彼女の母イルマ(1909-2007)―結婚前はマルテンス―はヴェリコクニャージェスコエ村(スタヴローポリ地区コチュベーイェフ村の近郊)の出身。エカチェリーナ帝時代にロシアに定住したメノー教徒(16世紀オランダのプロテスタントの一派)の出身。ドイツ語教師として働く。
父オイゲン(エヴゲーニィ)・ ヘルマン(1910年生まれ)は(11.1909-30.01.2007),ポーランド出身のドイツ人会計官。1937年、スパイ活動の嫌疑で告発、弾圧され、1938年、NKVD(内務人民委員部)によってタシケントで銃殺。アーンナ、弟、母の3人はキルギスに追放されました。
父オイゲンの逮捕後、ヘルマン一家はさらに一つ大切なものを失いかけています。アーンナの弟フリードリヒが病気で死にかけます。この悲しみはいたいけない女性たちを、最終的に逃亡という考えに導きます。
一家は長期間に渡ってソ連国内を放浪することを余儀なくされます。ジャムブール(カザフ共和国)では一家はまだ大祖国戦争に直面していませんでした。ここでイルマ・マルテンスはポーランド軍将校ゲルマン・ブレネルと再婚。これが後に1946年、イルマが夫の祖国ポーランドに移住するのに役立つことになります。
ポーランドでアーンナはブロツラフスキ大学地質学部に入学。ここで学生たちの芸術的自主活動に参加したことが、のちにアーンナを歌手にする道へとつながります。1960年、学生劇場「カラムブール」でデビュー。イタリア政府の奨学金を得て、数ヶ月間の歌手活動を開始しながらローマへと旅立ちます。
1959年からエストラーダのプロに。アーンナ・ゲールマンはソポト・エストラーダ音楽国際フェスティバル(1964年第2位、1965年『踊るエウリディーチェたち』で第1位)、『青年友好』祭(1967年、グランプリ)、サン・レモ音楽祭(1967年)等に出演。また一方でパリのオランピア劇場でフランス人歌手ダリダと共演しています。
1967年8月27日、ゲールマンはイタリア公演中に事故に遭遇。何度か大手術を受け1971年まで舞台に戻れませんでした。この期間に自分の持ち歌をロシア語で録音し始めたのです。『うぐいす』、
『希望』(パフムートヴァ曲)、『愛のこだま』(エヴゲーニィ・プチーチキン曲)、『ママ…』(オスカル・フェリツマーン―『すずらん』の作曲者)等など。
ゲールマンは『ステンカ・ラージン』、『ハスブラート』、『燃えよ燃えよ、わが星』、『私をいたわって』などのロシアの民衆歌も歌いました。ゲールマンはワルシャワ大劇場でのソロ・コンサートに出演、聴衆を魅了しました。彼女の二つとない、誰の声とも混同しようのない輝かしい声はすぐに人々の記憶に刻まれました。
《ワルシャワにあるゲールマンの墓地》
病による早過ぎる死によってゲールマンの、不断に高まりつつあった創造活動は中断されました。1982年8月26日、癌のためゲールマンはワルシャワの軍病院で47年の生涯を終えました。
N..ダブラヌラーヴォフとA.パフムートヴァ
《アーンナ・ゲールマン》
1分11秒から18秒まで画面にゲールマンと作曲者パフムートヴァが映ります。左がパフムートヴァ。
《ムスリム・マゴマーエフ》
ピアノは作曲者パフムートヴァ本人。
聴衆が一緒にうたうなど、人々に愛されていた曲であることがよく分かります。

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