ヨコハマという街が、本当に彼女のような存在を受け入れていたのかは分からない。しかし、ヨコハマという街が彼女を追い出したわけではなかった、それが分かっただけでも、この映画を見てよかったと思えた。
メリーさん。
たとえヨコハマ市民でも、中区や西区の繁華街あたりを生活圏にしていなかった人は恐らく知らないのではないか。白塗りの顔に白いロングドレス。曲がってしまった背中でえっちらおっちらと運び歩く、全財産が入っていると思われる大きなカバン(時に紙袋)。その異様な姿の老婆はホームレス。要所要所に出没しては、何をするわけでもないのに人を驚かせ、また気味悪がらせる存在。彼女を「普通の人」として見ること、それは不可能なことだった。
この映画「
ヨコハマメリー」はそんなメリーさんの足跡を辿るドキュメンタリーだ。
メリーさんという人物の存在、そして戦後という混沌の時代、このいずれをも知らない人にとっては、何のことだか分からないだけの映画だと思う。「
パンパン」という言葉が何を指すのかイメージ出来ることが、この映画を理解できるか否かの境目と言えよう。
↓以下、多少ネタバレがあります。
これまで、メリーさんについて間違いないと断言できるような話は、ウワサの数のわりに極めて少なかった。メリーさんが、かつて「パンパン」と揶揄される街娼であったということこそ、真実らしい話として通用してはいたが、その他のまことしやかに言われる経歴や消息は、どれも都市伝説的な胡散臭さを放ち、結果、その存在は「実在すれども謎」という掴み所のないものとなっていた。
そしていつの間にか、ふと気付くとメリーさんの姿を見ることはなくなっていた。それから約10年、伊勢佐木町や馬車道あたりを歩く際に「そういえば、最近メリーさんを見ないな」と一瞬でも思ったことがある人は少なくないはずだ。
そんな頃を待っていたかのように出てきたのが、この「ヨコハマメリー」だ。
この映画は、解けなくなってしまったまま忘却しかけたメリーさんという小さな結び目を緩やかに解きほぐしてくれる。
本編に出てくるメリーさんの姿は、写真がカットインされるばかりで、その動く姿は実はほとんど登場しない。その代わりこの映画は、ヨコハマのディープタウンでシャンソンを歌うことを生業とする高齢で末期癌のゲイボーイ「元次郎」氏という人物をはじめ、映画全編を通じてメリーさんと親交のあった人物や、商店などで特段にメリーさんと接した人物が「メリーさんを語る」シーンに終始する。
そういう構成について、恐らくメリーさんを見世物的に捕らえていたと思われる観客からの「いったい誰が主人公なんだ?」と批判する声を上映終了後に実際に耳にしたのだが、その見方は的を射ていないと思う。
メリーさんという存在は、ヨコハマ戦後史の縦軸なのだ。
それぞれの話者が自分の知っているメリーさんを語ることで、実は話者自身がメリーさんという一本の歴史の軸に結び付けられていく。この映画はメリーさんという縦軸を引き抜くことで、時代と共に埋没して行くヨコハマの過去を結果的に引きずり出した、ということになるのではないのだろうか。
面白い・つまらないという感想はそれぞれだろう。しかし感想の良し悪しは別として、この映画を受け入れられない者が「ヨコハマを知っている」などと言ってはいけないような気がする。
本編の終盤、元次郎氏が病身を押して歌う邦訳「マイウェイ」に乗せて、メリーさんの最後の秘密が明かされる。その一連のシーンは、撮影後日談となる2004年・元次郎氏の、そして2005年・メリーさんの、立て続けの旅立ちを静かに暗示しているかのようだった。
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ヨコハマメリー公式サイト
順次、全国で公開される予定が記されている。
地元ヨコハマでは、映画の舞台の一角にある横浜ニューテアトルでの公開は5月半ばまで。その後は
MOVIX本牧に公開が引き継がれるようだ。

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