「文化を読み替えることについて──8」
キリスト教のお坊さんたちはなんとかその国の万人の人々に意味としてキリスト教を教えようとがんばった。だからこそ最初に述べたように一番大事な祈りである主祷文も時代にあうようによりわかりやすいようにより真意を伝えられるように訳を改訂している。だけど仏教では意味の難しい言葉や訳しがたい言葉は無理して訳さずそのままの音を伝えるという音写ということをやった。やりかたとしてはカタカナとかなかったので、だいたい音のにている漢字をその言葉にあてはめた。そしてそれはものすごい時間がたった現在までもそのままやっている。そしていつしかそれは日本の文化に定着し、ごく普通の人々はこれが音写であるということなんかわからずそのままが自分たちの言葉であると思っている(たぶん)。
両者ともやり方はちがうけれど、結果的に他の国の文化を日本的に読みかえ、日本の文化として定着させたわけですね。
つまり外国の文化はそのままでは日本には定着しないということに他ならない。ある文化を日本に取り入れようとするならば=自分たちもやってみようとするならばものまねではなく自分たちの身体にあったものに読み替えなければそれはいつまでたっても自分たちのものにならないのではないか。
祖父が生きているころ、私は祖父に「お坊さんなんていっているのかわかんないね」と言ったところ祖父はこういったものです──「わからないところがありがたい」。
終わり