2009/4/22  11:08

真済僧正1150年遠忌祭  金子貴一同行シリーズ国内編

「真済僧正1150年遠忌祭」が無事終了致しました!関係者の方々に深く御礼申し上げます。

 遠忌祭のため全国から馳せ参じた方々は計14名。伝統的なちんぽんかんぽん祭に合わせ、厳かに行われました。参加者から以下の様なご感想を頂きました!

 「お疲れ様でした。大変に興味深い内容で、面白い一日でした。参加してよかったと思いました。事前ガイドブックも良かったです。ご参加の皆さんありがとうございました」。

 「いつもながらお世話になり有難うございました!私も参加させていただいてよかったです。皆さんの事前学習は毎回ホントに頭が下がります。いろいろ情報を有難うございます!ご秘物の観音様に間近にお目にかかれてとても嬉しかったです。感謝感謝」

 「真済僧正の法要に参加できて感謝しております。心残りは途中で退席したことでした。お陰様で真済僧正の像の確認とお墓と言われる場所も確認できました。心から感謝します。本当にありがとうございました」。

 真済僧正も、心から歓ばれているのではないかと思います。ご住職を初め、自治会長様、地元の方々、そして、何よりも全国から馳せ参じた参加者の方々、本当にありがとうございました!

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(以下は、事前に配布した資料です)
 
 中世の神仏習合の魂に触れる尊い企画です。奮ってご参加ください!

 縁あって、弘法大師第一の弟子として、24歳にして我国で第三番目の阿じゃ梨となり人々を驚愕させた真済僧正ゆかりの奇祭「ちんぽんかんぽん祭」に合わせて、僧正の1150年遠忌法要を行わせて頂くことに致しました。同僧正は、四国88ヶ所巡りを始めた人物ともされ、中世においては、数々の伝説にも登場する高僧でした。

 しかし、現在では、縁の寺院も少なく、1150年遠忌の本年、真済僧正が第二世住職を務めた京都の神護寺でさえ法要が行われないと聞くにおよび、1150年遠忌祭を「主催」させて頂くことに致しました。


「真済僧正1150年遠忌祭」を含む「ちんぽんかんぽん祭」ご参加について
■日時:4月18日(土)13:00〜16:30(事前ツアーにご参加の方は、以下参照)日帰り
■集合場所:柿本神社(奈良県葛城市柿本162)、近鉄新庄駅に隣接。駅から徒歩3分
■集合時間:昼食を済ませ、13:00に柿本神社に隣接する公民館にお越しください。駅ご到着の際、または、当日不明な点が御座いましたら、私、金子の携帯までご連絡ください。
■参加費用:お気持ちのある方は、社寺への感謝を込めた随意のお布施をお願いします。
■現地集合・現地解散となります。お祭りは16:30頃まで行われますが、各自の解散時間は自由です。
■服装:自由

 ちんぽんかんぽん祭が行われる柿本神社・影現寺は、わが国に現存する数少ない神仏習合の伝統が残る場所で、同じ境内に神社と寺院が並立し、ちんぽんかんぽん祭は、僧侶による読経と、神主による神事が続けて行われる祭りです。

 影現寺は、空海の高弟・真済僧正の創立とされています。本堂には真済が自ら刻んだとされる真済僧正坐像が安置され、寺の北側100メートルのところには、真済の墓と伝えられる塚が現存します。柿本神社は、柿本人麻呂公をご祭神として祀る神社で、770年、石見で没した柿本人麻呂の亡がらをこの地に葬り(人麻呂塚)、傍らに神社を建立したのが始まりとされています。

 4月18日は、万葉の歌聖といわれた柿本人麻呂の命日で、祭りは、毎年豊作を願って実施されます。「ちんぽんかんぽん」と言う一風変わった祭り名前は、かつての神事の間に打ち鳴らした太鼓や鉦、笛の音に由来しています。しかし、それは戦前までのことで、現在ではその音を忍ぶことはできません。

 当日は、午後2時から影現寺において真言宗の住職による法要が行われ(この法要が、1150年遠忌法要を兼ねることになります)、その後、3時からは、隣接する柿本神社で神主による神事が営まれます。4時には「御供(ごく)まき」と呼ばれる餅まきが行われ4時半には終了します(雨天の場合は、餅まきのみ行われません)。当日は、ご秘仏の十一面観音像や人麻呂像のご開帳が行われる予定です。その他、不動明王像や地蔵菩薩像も参拝できますが、一番古い仏像は、平安時代初期にまで遡ります。写真撮影は、人麻呂像以外は許されております。

 また、希望者には、「ちんぽんかんぽん祭」に先立ち、真済僧正ともご縁が深いと思われる、御所市内の菩提寺と御歳神社に立ち寄り(特別参拝)、ご秘仏を拝して親交を深めます。菩提寺では、修験道の祖・役行者が金剛山でご修行中に感得された法喜菩薩像などを特別に参拝させて頂く他、弥生時代より鎮座する御歳神社では禰宜(神官)にお話を伺います。

 事前ツアー:真済僧正に縁のあると思われる神社仏閣を巡ります。
■近鉄御所駅改札口に9:51集合。駅からタクシーに分乗して、伏見山菩提寺、御歳神社を特別拝観して巡り、13:00にはちんぽんかんぽん祭が行われる柿本神社に到着します。
■参加費用:実費のみ。移動のタクシー代を割り勘にさせて頂く他、特別拝観への感謝として、寺院、神社では各自随意でお布施、初穂料をお願いします。
■関東、中京、または、関西からご参加の方は、一番遠い関東からの一番早い乗り継ぎに合流されることをお勧め致します。
JR東京駅発6:00のぞみ1号(後方車両が便利)→JR新大阪駅着8:25、発8:32くろしお3号(中・後方車両が便利)→JR天王寺着8:48、徒歩3分、近鉄大阪阿部野橋駅発8:54近鉄南大阪・吉野線準急 橿原神宮前行(前・中方車両が便利)→尺土駅着9:36、発9:43近鉄御所線 近鉄御所行→近鉄御所駅着9:51
■申し込み締め切りは、4月15日(水)となります。それまでに、金子までご連絡をお願い致します。尚、金子は4月4日〜14日まで海外出張のため不在ですので、ご了承ください。「ちんぽんかんぽん祭」のみのご参加か、「事前ツアーとお祭りの両方」にご参加されるかをお知らせ下さい。
■当日の写真撮影は、柿本神社のご秘仏である人麻呂像など若干の仏像を除いては、可能です。現地でお知らせ致します。

伏見山菩提寺
 奈良時代 聖武天皇の頃の名僧 行基が開いたと伝えられる真言宗のお寺で、道場「菩提院」の後継。奈良時代、越の大徳といわれた白山の泰澄(たいちょう)がこの院で修行され、十一面観音法を修して疱瘡をしずめ、大法師の位を天皇より授けられた。また東大寺大仏のご造願に際しては八幡大菩薩を当山に勧請して鎮守とされた。
平安時代には弘法大師が参籠祈願され、勅願所として、また修験道の道場として、子院三十七箇坊がならび建っていた。
 ご本尊は十一面観音立像で高さ1b、藤原時代の優しい像である。外に、室町時代の法起菩薩(法喜菩薩)像の頭部があり、憤怒形のすごいものである。阿弥陀如来像は木造漆箔定印の均整のとれた像で、新義真言宗開祖・覚鑁上人(かくばんしょうにん)の作とされる不動明王像もある。

法起菩薩(法喜菩薩、ほうきぼさつ)像
 数少ない日本独自の仏様。奈良時代、金剛山(葛城山)で役行者がご修行中に現れたお姿を彫ったもの。五眼六臂のお姿で、役行者とご一体であるとも言われている。もとは、金剛山頂の修験の寺である転法輪寺に安置されていたが、明治の廃仏毀釈の嵐の時に、修験道は壊滅的打撃を受け、転法輪寺の仏像は壊されることになった。2m程の立像であった法起菩薩は、仏頭だけを金剛山の下の菩提寺に隠して、胴体は破壊。現在ではご秘仏となっている胎内仏は一時避難して難を逃れたそうだ。六臂うちの二本の手には、今は損傷していてわからないが、文献によると鋤と鍬を握っていた。農耕の守護者たる菩薩としての側面もあるようだ。
 法起菩薩の化身には、法道上人、徳道上人と金剛牛王(ごおう)がいる。
7世紀の推古天皇の時代、インド人の法道仙人は、陸路、インドから中国、朝鮮半島を通り、日本まで歩いて来られた。その際に随行したのが、牛頭天王(ごずてんのう、神仏分離以前に八坂神社に祀られていた神様)であったという。法道上人は姫路付近に伝承が多く、幾つかの寺院の開基となっている。
 一方、西国三十三観音霊場の創始者である徳道上人(長谷寺の開基でもある)は、奈良時代の656年、播磨国揖保郡に御生まれになった。ある日仮死状患に陥り、閣魔大王の御前に呼ばれた。閻魔大王は、人心の乱れを憂い、観音信仰をもって仏心の開花を望まれた。そして徳道上人に三十三の宝印を託し、観音霊場開創を依頼された。閻魔大王のもとから戻られた徳道上人は、観音信仰を広めようと奔走されたが、当時の人々にはなかなか受け入れられず、機が熟するのを待つため、摂津国中山寺に宝印を納められた。徳道上人は、80歳のとき、西国33観音霊場番外札所の法起院で松の木に上り、法起菩薩となってこの世を去ったという。
 法起菩薩が祀られている転法輪寺には、金剛牛王と呼ばれる牛の象がある。これは、法起菩薩の化身で、人のために働き、人のために一切を捧げるお姿を表現している。

葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)
 葛木御歳神社は、奈良県御所市にある神社で、古代からの由緒ある式内社(名神大社)。御歳は「みとせ」とも読まれる。
 御歳神を主祭神とし、大年神と高照姫命を配祀する。日本全国にある御歳神社・大歳神社の総本社とされる。葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・鴨都波神社(下鴨社)に対して「中鴨社」とも呼ばれる。
 創建の由緒は不詳である。弥生時代からあったとも言われ、当社の背後に御年山(みとしやま)があり、これを神体山として田の神を祀ったものとみられる。最も古い記録は『新抄格勅符抄』の天平神護元年(765年)「御年神十三戸、大和三戸、讃岐十戸」とあるものである。仁寿2年(852年)には、当時大和国で最高位となる正二位の神階を贈られ、延喜式神名帳では名神大社に列している。平安時代以降、一帯は春日大社・興福寺の荘園となっており、当社は春日大社の影響下にあった。現在の本殿は、江戸時代に春日大社の本殿第一殿を移築したものである。
 日本三代実録によれば、貞観8年(866年)、朝廷が任命した神官を当社が拒否したという。それ以降、大正時代まで神職は置かれていなかった。
御歳神社の「トシ」は大昔は「稲」のことだった。稲や穀物の生育をつかさどる農業の神様として、稲作の伝来とともに祭られたようだ。この「稲」をあらわす「トシ」が稲の生育のサイクルとしての一年を表すようになり、後に「歳・年」は一年をさす言葉となった。子どもたちがお正月に頂く「お年玉」はもとは、御歳神さまに供えたおもちのことだった。正月に祭り親しんでいる年神様(としがみさま)は、この大年神、御歳神、若年神といわれている。鏡餅は御歳神へのお供え物(依り代(よりしろ))であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂(たましい)がこめられており、これが今のお年玉の起源である。したがって、お年玉の神様でもある。
 御歳神社の本殿には御歳神さまの他に、大年(だいとし)神(がみ)さま、高照(たかてる)姫(ひめ)さまが祭られている。

 注:各見学地の紹介文は、インターネットの情報をまとめたものです
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2010/5/16  8:53

投稿者:勝城惠子

はじめまして。私はこの3月に奈良市御所にあります、葛城山や一言主
神社等を訪れましたが,私の父方の先祖は滋賀県湖北にあります大浦と
いう土地の出でして、ここには昔から葛城の姓の人達が住んでおり、私
達の先祖も”葛城”でして幕末前に”勝城”に変えたそうです。大浦には丸小
舟の展示館もありますが、ひっそりとした湖畔の村みたいなところです
。なぜ葛城族が琵琶湖のひっそりとした湖北に辿り着いて住んでいたか
の由来をしりたいのですが。琵琶湖の湖北のあたりの歴史にご興味を持
っておられるお方がおられましたら、ぜひご連絡してくださいませ。

2010/2/2  13:12

投稿者:杉本光生

私の先祖は、葛城市新庄町のお寺の家と聞かされています。先日葛城市役所へ行き、除籍謄本を取って調べました。私の先祖はどうも明治の終わりごろ家族で新庄町を離れて大阪の阿波座へ移ったようです。お寺を捜してみましたが見当たりません。新庄駅の前に柿本神社があるのは前から知っていましたが、影現時という寺とは知りませんでした。このホームページでそれを知り、もしかしてこの寺かも知れないと思っています。影現寺の住職をしていた人の姓は分からないでしょうか。私の杉本の先祖には、嘉平、仙治郎、テイ、エイ、悔三などという名前が出てきます。

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