口上  

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。読んでみてください。
板橋九郎
(左の記事カテゴリよりお好きなタイトルをクリックしてください)

P.S. Tokyo English Diary is started too!
From Tokyo Japan
Author
Kyuro Itabashi
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2016/6/20

伊江島に死す  小説 「沖縄戦」

 米軍の沖縄本島への上陸作戦が始まったのは一九四五年の四月一日の朝であった。米軍は上陸するにあたって大きな犠牲を覚悟していたが、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けることなく上陸した。おびただしい数の輸送船や軍艦が嘉手納沖に集結し、海が見えなくなるくらいであった。数万人が遠浅の長い海岸めがけて上陸用舟艇に乗って殺到した。米軍はその日の内に北飛行場と中飛行場を占領した。
 陸軍の通訳としてマイケルは最後尾から上陸した。飛行場には米軍の空襲や艦砲射撃で破壊された日本軍の戦闘機の残骸が残っていた。滑走路は穴だらけであった。一九四三年夏から住民の力を借りて珊瑚の山を削り、土や石を馬に引かせて運び、整地をし、急がせて一年以上かかってようやく完成した飛行場も米軍の空襲にあい、十分に機能しないまま半年後には米軍に占領されてしまったのだった。米軍はブルドーザーを使い、三日間で補修を完了させ、とりあえず南部の日本軍に対する爆撃機発進拠点として使用できる態勢を整えた。さらに日本本土攻撃用の大型爆撃機の使用が可能となるよう飛行場の拡張、滑走路の強化、駐機場の増設を進めた。
 マイケルは十三キロにも及ぶ長い海岸線の南側から上陸した。南側には日本軍の砲撃もあり、大きな被害はなかったが、数十人の死傷者を出した。北側には海兵隊の部隊が上陸した。最北部からは従軍記者のアーニー・パイルも午後に上陸している。負傷したのは二人だけで、それも日本軍の攻撃によるものではなく、自損事故と太陽の暑さで気分が悪くなったものであった。昼飯に七面鳥を食べ、ピクニック気分だったと彼は本国に書き送っている。
 北部に避難し遅れた住民はガマと言われるいくつもある洞窟の中に隠れていた。銃を構えた米兵に竹槍で切り込む住民もいた。住民はすぐさま射殺されてしまった。洞窟の中では自決するか否かで意見が分かれていた。洞窟ごとに対応が分かれ、悲劇が起こることになった。あるガマにはたまたま住民の中にハワイ帰りの兄弟がいたおかげで、全員が手を挙げて洞窟から出てきた。そうでないところは住民同士が殺しあうという悲惨な光景が繰り広げられた。米兵は鬼であり、男は戦車に轢き殺され、女は皆強姦されると思われていたのである。天皇が神であると信じこまされていたのと同じように人々はそう信じていた。軍人や学校の先生からそう聞かされていた。住民同士でもうわさしていた。
 マイケルは拡声器を持って洞窟の入り口に近づき、「危害は加えません、手を挙げて出てきなさい」とやさしく呼びかけた。最初に何人かが出てきて保護されると、様子を見ていた人たちが、次々と洞穴から手を挙げて出てきた。中には女性や小さな子どももいた。マイケルは丸腰で拡声器だけを持ち、洞窟の入り口に入っていった。これはかなり危険な行為だった。日本兵が隠れていて狙撃されるかもしれなかった。片手に拳銃を持った隊長が懐中電灯をかざしながら先頭に立って洞窟の奥まで入っていった。
 ブルドーザーで整地し、鉄条網で囲った収容所に住民を収容した。ぼろきれをまとい鍋や薬缶等の家財道具を頭の上に載せ、子どもを負ぶった女たちが群れをなして北部を目指して歩いていく姿が目撃された。老人を荷車に乗せて押していく姿もあった。女たちは髪を短く切り、顔に墨を塗っていた。
 日本軍は南部の丘陵地帯に地下壕を掘り、十万の兵隊が潜んでいた。ここで米軍を迎え撃ち一日でも米軍の本土進攻を遅らせる作戦であった。北部には本部半島に三千人の遊撃隊を配置しただけであった。
 アーニー・パイルは痩せぎすの中年男で、前線にいる一兵卒たちを好んで取材していた。救護班に送られてくる傷病兵の様子を取材していた。腕や足を吹き飛ばされ、気も狂わぬくらいに苦痛にさいなまれている兵士たちをみつめていた。彼の書く文章はすべて軍によって検閲され、不都合な部分は削除された。戦争遂行のための士気の高揚に資する記事しかそもそも新聞には載らない。そういう中でも彼は傷ついた兵士の姿を書き、海兵隊と一緒に歩き、若い兵士に話しかけるのだった。マイケルはアーニー・パイルの書いた記事をよく読んでいたので、彼と一緒の戦線にいることは心強かった。
 北部に進攻した海兵隊は小規模な戦闘を制しつつ、本部半島に向かった。それとは別の海兵隊が東海岸を進撃中、日本軍数十人による夜襲攻撃を受け、三人が殺される被害を受けた。海兵隊も反撃し、日本兵二十人を射殺し、撃退した。日本兵は夜間に米軍キャンプ地に忍び寄り、米兵の背後から手をまわし、音をたてないように口を封じ、ナイフで刺し殺すのを得意としていた。そのため、米兵は夜間は外に出歩かないことになっていた。少しでも動くものがあった場合には、番兵が警告なしに民間人、敵味方の兵の区別なくすべて射殺することになっていた。
 本部半島の平地は四月三日から数日で平定された。日本軍は八重岳の山中に逃れた。屋部海岸に戦車を伴う部隊が上陸し、八重岳の山腹に砲弾を撃ち込んだ。
 マイケルは住民の間によからぬ噂があることに気がついた。米兵のグループが住民の男を連れ去り、連れ去られた男が戻ってこないというのであった。また、若い女を物色し、連れ去って行くというのであった。マイケルが歩いていると住民が空き缶やドラム缶をたたくことがよくあった。どうも色の黒い者は恐れられているようであった。
 いよいよ八重岳は米軍にぐるりと包囲された。空からは爆撃機が爆弾を落とし、戦闘機は低空で機銃掃射をした。いたるところに硝煙が白くたなびき、谷がかすんで見えた。本部沖に遊弋する戦艦からの艦砲射撃にも晒された。
 八重岳に逃げ込んだのは宇土大佐を司令官とする五百人の部隊と佐藤少佐率いる現地召集の一個大隊八百人であった。それに現地の中学生が通信隊として参加していた。県立高女十名も看護要員として動員されていた。さらに一万人もの住民が八重岳の谷間に逃げ込み、身動きができない状態になっていた。
 宇土大佐は一年前の六月に九州から輸送船富山丸で四千六百人の将兵とともに沖縄に向かった。その途中、徳之島沖でアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、積荷のガソリンが発火炎上、船体が二つに折れ、富山丸は轟沈した。乗船した大半の者はやけどを負い死亡した。僚船に救助され、動ける者は四百人ほどが残り、漁船などに乗って沖縄にたどりついた。武器はすべて失われたが、宇土大佐は運よく生き残り、四百人の歩兵部隊を引き連れて本部半島の守備に着いた。
 対岸に伊江島が見える八重岳の麓に二門の重砲を配置していた。伊江島まで射程距離にあったが、海岸の間を悠々と遊弋し、八重岳や伊江島に艦砲射撃を続けている米艦船の群れを前にしてもただの一発も発射することができなかった。もし発射すれば、空と海からの集中攻撃に晒されるに違いなかった。首里の三十二軍本部からの戦略持久の指令に従っていた。結局、一発も打つことなく、米軍の砲弾により破壊されてしまった。
 宇土大佐は八重岳の中腹に藁葺きの小屋をいくつか作らせ、本部戦闘指揮所とした。宇土大佐は還暦に近い年齢であったが、戦略持久をいいことに炊事婦とは別に三人の那覇の遊女と一緒に小屋にこもっていた。いわゆる慰安婦であった。
 軍隊のいるところでは沖縄の住民も皆標準語をつかっていた。意味のわからない沖縄方言をしゃべる者はスパイとして疑われたため、軍から使用禁止令が出ていた。
 住民や兵は入り混じって八重岳の谷間や壕に潜んでいたが、包囲網をじわじわと狭められていた。宇土大佐は反撃に打って出ることもなく、指揮所にじっとしていた。米軍は戦車を繰り出して猛攻撃を始め、火炎放射器で樹木を焼き尽くしながら、出会った日本兵や竹槍を持った住民を殲滅していった。谷間には水を求めて這いつくばっている兵隊の姿があちこちに見られたが、その内、それらの兵隊も動かなくなった。
 いよいよ米軍の砲撃が激しくなると、宇土大佐は女たちを連れて、指揮所を放棄し、すぐそばの平たい高地である真部山に移った。指揮所には重傷者が取り残された。真部山の拠点には中学生の通信隊がいた。彼らの半数は数発の手榴弾以外の武器を持っていなかった。これらの者に若干の兵を混えて、夜間に真部山の山頂に移動し、夜明けを待って突撃を敢行することになった。だが、照明弾が昼間のように山頂を照らしていた。翌朝は米軍の偵察機が山頂付近を飛び回り、それがいなくなったと思うと、海岸沖からの無数の艦砲射撃が山頂に集中した。艦砲射撃がぴたりと終わると、海兵隊が火炎放射器と機関銃を持って、襲いかかってきた。隊長が「おれのあとに続け」と言って、突撃したが、旧式の小銃と斧やスコップを持っただけの生徒たちは、無惨に玉砕した。日没になると米軍は引き揚げて行った。
 宇土大佐はすぐに八重岳から南東に十五キロほど離れた多野岳への撤退命令を出した。四、五人ずつ班を組み、夜陰に紛れて脱出した。
 宇土大佐らはその後、北部の山岳地帯に移動し、住民から食料を強奪しながら、十月まで潜伏した。投降したのは、終戦後二ヵ月近くも経ってからであった。
 宇土大佐が多野岳へ撤退を開始したころ、米軍は伊江島への上陸を始めていた。
 アーニー・パイルは、いったん嘉手納沖の艦船に戻り、本国へ手記を送った。そして、伊江島へ上陸部隊とともに乗り込もうとしていた。生々しい戦争の様子、兵士の様子を書くのが彼の仕事であった。
 本部半島から広い海原を隔てて浮かんでいるのが伊江島であった。エンジンボートで行ったら、おそらく、二、三十分で行けるところであった。けっこう広い島で、徒歩で一周するには、おそらく一日がかりになりそうな島であった。
 珊瑚礁の隆起した島は平坦で、標高二百メートルに満たない岩山が一つ聳え立っていた。平坦地には大小五本の滑走路が建設されていた。現地の住民を動員して急遽つくらせたものだが、またしても、ほとんどつかわれないまま、米軍の手に渡すこととなった。珊瑚礁の島に特有のガマと呼ばれる自然洞窟が千人も入りそうな大きなものも含めて大小たくさんあった。
 マイケルはアーニー・パイルの一行と一緒に伊江島に上陸することになった。
 伊江島には疎開した老人や婦人、子ども以外の五千人の住民が残っていた。井川少佐を司令官とする八百人の歩兵大隊と現地召集の防衛隊、伊江島住民の防衛隊、青年義勇隊などが島の守備についていた。また、女性も救護班はもとより、協力隊として戦闘要員に加えられた。
 伊江島の飛行場は米軍の進攻前にすべて日本軍の手によって爆破された。
 四月十六日が米軍の伊江島上陸日と決まった。バクナー中将の命令であった。上陸前の数日間、艦砲射撃や空爆が徹底的に行われた。だれも生き残っている者はいないだろうと思われるほどの爆弾の量であった。
 上陸当日も早朝から砲撃、爆撃を行い、上陸部隊を支援した。天気は晴れていて、波は穏やかであった。やがて、上陸用舟艇に乗り込んだ先発隊が伊江島の南海岸に上陸した。読谷の海岸に上陸した時と同じように、陸からの抵抗はなく、静かな上陸であった。上陸部隊が次々と上陸して行った。水陸両用戦車も上陸した。
 連日の猛爆で、平らな台地にいる日本軍は吹き飛ばされてしまったのかと思われたが、やはり、そうではなかった。台地の地下には無数の洞窟があり、また、急遽掘りめぐらせた壕の中に隠れていたのである。沖縄特有の大きな亀甲墓はトーチカとして利用し、砲門を備えていた。
 コンクリートでできた村役場のある台地を奪取するために米軍は進攻を開始したが、その途中には無数の地雷が埋められてあり、このために戦車や装甲車が使えなくなった。
 歩兵が台地に近づくや、壕の中やトーチカから反撃の砲弾が打ち込まれ、米軍に死傷者が続出した。米軍は一時退却したり、一進一退を繰り返した。予備の部隊の増援を得て、ようやく米軍は台地を占領した。
 マイケルはアーニー・パイルよりあとの舟で上陸した。上陸してみると、この島の戦闘は大変危険であることがわかった。民間人が日本の兵隊と一緒になって戦っていた。婦人たちも自然洞窟の中で竹槍を構え、米軍陣地に夜間の斬込みをする部隊に参加する者さえいた。斬込みは連日行われた。大半の者は射たれて死んでしまうのだったが、重傷者が生き残って戻ってくると、分隊長から自決を迫られることもあった。
 洞窟内での集団自決があちこちで発生した。
 アーニー・パイルは四月十八日に米軍指揮官の乗るジープに同乗して、海岸線を移動していた。遠くでは激しい砲声が響き渡っていた。丘の手前に来た時、銃声が聞こえ、アーニー・パイルらはすぐにジープから飛び降り、近くの溝に身を伏せた。その時、アーニー・パイルのヘルメットのすぐ下のこめかみに一発の銃弾が当たった。即死であった。
         (2016年「城北文芸」49号)
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2015/7/20

Simple question  My English Diary

素朴な疑問
国の借金が1000兆円を超え、将来の世代につけをまわしてはいけないので消費税増税だという。その一方でウクライナに行っては人道支援で2000億円を約束し、中東に行っては同じように約束し、国立競技場は2500億円だという。軍事費と警察には予算を増やし、教育・福祉はカットである。個人だったらお金がなければ使えません。どんなに借金しても増税すればいいと思っているのでしょうか。



Simple question
Japanese government says the national debt exceeds
1000 trillion yen, and they say consumption tax
rate should raids otherwise the future generations
of Japan would have pay the debts. On the other hand
PM Shinzo Abe went to Ukraine and promised Japan send
200 billion yen humanitarian aid to the country. And
so to the Middle East. He promised in the same way.
It is said that the new National Stadium costs
250 billion yen. The military expenditure and
the police expenditure increase in the budget,
while the education and welfare expenditure is cut.
If it's a personal budget, you can not use any money.
Do they think it's OK how much debt Japan has because
the tax increase can reduce the debt?
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2015/6/25

風穴の里  小説

 私の母は大正十二年の生まれであった。七人兄弟姉妹の次女として生まれている。日本が敗戦したときには母は二十二歳ということになる。東京にまで空襲がされるようになる寸前に長野の山奥の実家に疎開していたようである。私は私が中学校三年生の時まで、毎年、学校が夏休みになると、弟と一緒に実家のある長野県に母に連れられて泊まりに行っていた。
 母はそのころ学校の給食調理員をしていたようである。たまに、給食の残り物らしいパンの耳にバターをつけて食べた憶えがある。母の兄弟は多かったので一週間ぐらいずつ実家や兄弟の家を泊まり歩いて夏休みを過ごした。
 まず、最初に行くのが母の実家である。そこには祖父と後妻の祖母、私の叔父にあたる長男夫婦が住んでいた。その昔は新宿から蒸気機関車の旅であった。新宿から中央本線経由で松本まで約六時間の旅であった。夏のことゆえ、母はノースリーブで胸元の開いた服を着ていて、子どもながら多少嫌な思いがしたことを覚えている。窓を開けて風に吹かれていると汚水が顔にかかってきたり、トンネルに入ると窓を閉めて煙が入るのを防がなければならなかった。塩尻のあたりでスイッチバックがあったような気がする。汽車がゆっくりと後ろにバックして、また走り出すのであった。
 松本駅に着くと、男の駅員の声で「まーつもと、まーつもと」という構内アナウンスが聞こえてくるのだった。当時は国鉄で、駅員は男ばかりであった。
 松本駅で松本電鉄の単線電車に乗り換え、終点の島々まで行き、上高地方面行きの登山バスに乗り換えるのだった。島々駅ではプラットホームの端で地面に降りてレールを横切り駅舎に着いたような気がする。駅前に降り立ってみると、そこは山々に囲まれ、三角屋根の駅舎のそばには自分たちの身体よりも重そうな大きなリュックを背負った山男たちが集っていた。厚い登山靴と長い靴下を履いていた。
 古い満員のボンネットバスに乗り込み、二十分ほどすると私の祖父の待つ安曇村稲核(いねこき)に到着するのだが、そこまでの道は大変な道であった。一九九一年に大規模な崖崩れがあり猿なぎ洞門が崩落した後三本松トンネルが建設されて現在はすっかり変わっているが、当時はバス一台がようやく通れる道で、片側は山壁、片側は断崖絶壁であった。谷底までは百メートルはありそうな気がした。怖いので窓から下を一瞥するだけで長くは見ていられない。谷底には梓川が流れていた。ガードレールもついていない未舗装のでこぼこ道をいくつもの急カーブを曲がりながら登って行った。カーブで対向車が見えないところでは警笛を鳴らす。対向車と鉢合わせすると、どちらかの自動車がバックをして岩を削って広くした待避所まで戻り、すれ違うのだった。
 私は調子に乗って「田舎のバスはオンボロ車、デコボコ道をガタゴト走る」と中村メイコがラジオで歌っていた歌を大きな声で歌い、母に小声で「これ、やめなさい。周りの人が気を悪くするじゃないの」と叱られた。いつだか、新しい稲核橋が開通してからだと思うが、「ほら、下に小さな橋が見えるでしょう。あれはおじいさんがつくった橋なのよ。今ではつかわれていないのよ」と登山バスが大きな橋を通ったときに母が指差したことがある。私の祖父は大工の棟梁をしていたという話であった。祖父が一人で橋をつくれるはずもないし、橋をつくるに当たってどのくらい重要な役割をしたのかもわからないが、今は使われていないとはいえ、自分の祖父のつくった橋が残っていることに私は若干誇らしさを感じたことがある。
 稲核のバス停に着くと、降りたのが私たちだけだった。バス停に祖父母が待っていて手を振っていた。一日に何本も通らないバスだったので時刻表を見て迎えに出たものらしい。ここいらのバスは停留所でなくても手を挙げると止まって乗せてくれる。
 祖父は頭が禿げていて、さびしいのかよく自分の頭に手を当てて撫でていた。祖父の家はバス停のすぐそばにあった。間口が狭く、奥に長かった。隣はガソリンスタンドだった。あとで聞いた話では元々そこも祖父の土地で、庭だったそうである。
 玄関を入ると土間になっていた。二階には蚕が飼われていて蚕が桑の葉を食べるパリパリという音がしていた。途中から板で仕切られ、行き止まりになっていて、そこから先は祖父の息子夫婦が住んでいた。屋根には瓦がなく、大きな猫ぐらいの丸い石がいくつも載っていた。母に聞くと、母の生まれる前に稲核には集落中の大半の家を焼失させる大火が二度あって、それ以後ちゃんとした屋根のある家をつくらなくなったそうである。梓川と裏山との間に二百メーターほどの狭い平地が国道に沿って六百メーターほど続いていた。そこに人々がびっしりと家を建てていた。
 家の前の国道は野麦街道と呼ばれる街道でもあり、野麦峠を越えて飛騨高山に通じていた。その昔、飛騨の貧しい農家の娘たちが紡績女工となって諏訪の製糸工場で住み込みで働き、工場の冬期休業前の年末に故郷に帰るときに通るのがこの街道であった。昔はバス道路も開通してなく、徒歩であるくしかなかったので娘たちは寒さと疲労で大変だったに違いない。年末の払いの足しにする給金を親に渡すためにここを必ず通らなければならなかったはずである。いったん帰れば、諏訪の工場は二月二十日ごろまで休みだったらしいので、しばらくは実家で過ごしたみたいである。
 あとになって何かの本で読んだ記憶があるが、具体的なことは書かれていなかったが、相当腹に据えかねることがあったのだろう、稲核はその娘たちの恨みを買ったらしく、彼女らが稲核を通過する時は「稲核は三度焼けろ」と言って通ったそうである。
 私の母は十七歳で東京に出てきた。何かの時に母から聞いた憶えがある。東京では最初に大きなお屋敷の住み込みのお手伝いさんをしていたこともあるようで、田舎言葉を笑われたそうである。母が下町には似合わないやけに丁寧な言葉づかいなのもその時に直されたからかもしれない。
 母はもう亡くなってしまったので今となってはいつのことかわからないが、夜間の教員養成所にも通ったようである。小学校の教員になりたかったそうだが、試験に受からず、小学校の教員にはなれなかった。それでも幼稚園の教員の資格は得たようであった。私の家には、母が自分でつくったものかも知れないが、実際の折り紙がいくつも張り付いた分厚い折り紙の教本があった。また、板橋区の私立幼稚園で若々しい私の母が二、三十人の園児と並んで写っている記念写真があった。肩下まで伸びた黒髪が先のほうで細かく波打っていた。こんな髪の長い母は見たことがなかった。その他、母は看護婦試験を受けて受かり、看護婦にもなっていた。どちらが先だったか、今となってはわからない。県レベルごとに試験があり、受かりやすそうな県を択んで受験したそうである。十七歳で一人で東京に行くのはかなり勇気がいっただろうと私は思った。東京には戦死した母の兄がいたので心強かったものと思われる。「叩けよさらば開かれん」と母はよく言っていた。
 祖父が「わんだー」と言っていたのを憶えている。「おまえたち」という意味らしい。「こわかねーか」というのは「疲れてないか」という意味であったり、「ズクがないもんでのー」というのは「エネルギーが沸かなくなったもので」とか「根性なしなもので」というような意味であった。母は実家に帰ると自然にその土地の言葉を話していた。稲核には周りの地域ではつかわれない稲核でしかつかわれない言葉もあったようである。母は稲核言葉と言っていた。
 小学校の分校の近くのお寺の本堂には稲核出身で戦死した多くの若者の写真が飾られていた。その中に私の母の兄の姿もあった。彼は東京に出て、昼間働きながら物理学校の夜間部に進み、旧制中学校の教員になった期待の星であった。小学校の先生が私の叔父を上の学校に進ませるよう、わざわざ祖父のところに勧めにきたそうである。彼は昼間部の学生と互角の成績であったというから、相当努力をしたに違いない。徴兵され、南太平洋の海に沈んだきり、戻ってこなかったそうである。船で沈んだといえば、私の父も私が三歳ごろ、船に乗っていて遭難し、亡くなったことになっていた。離婚したということを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
 親戚の人が集まると、必ずお互いを褒めあっていた。褒められた相手は必ずそんなことはありませんと謙遜していた。これはひとつの表向きの規則のようだった。本人のいないところではまた違う打ち明け話をしていた。
 母は一時期、村の分校で代用教員をしていたらしい。教員養成学所に行っていたんだからできるだろうということのようだった。村に帰ると教え子から「先生」と言われて遭遇することがあるので気恥ずかしくて嫌だと言っていた。ボロを着ていられないというのであった。
 伝説のその兄に私がそっくりだと親戚の人によく言われた。「生まれ変わりに違いない」と言う人もいた。家にあった名刺判の大きさのセピア色の白黒写真には学生帽を被った眉毛の吊り上った一重まぶたのテル叔父の姿が写っていた。私がテル叔父に似ているということを聞いて、祖父はうれしそうにしていた。
 しかし、ある時、どんな悪いことをしたか今はすっかり忘れてしまったが、私は祖父に怒られて、離れにある土蔵の中に入れられ、鍵を掛けられてしまった。私は土蔵の中で長いことわんわん泣いていた。そのうち目が暗闇に慣れてくると、私は土蔵の中に興味が湧き、薄暗い階段を登って二階に行き、行李を開けて見た。塵にまみれた分厚い書物といくつかの古いノートブックを見つけた。あとで聞いたところでは、それは私の伝説の叔父の形見の品で、分厚い書物は聖書だったらしかった。私の叔父はクリスチャンだったそうで、「兄はへぃ、クリスチャンだでな、人殺しができないでな、軍隊に入ってえろう苦労したんでねぇかのう」という人もいた。
 泣き声がしなくなったのを心配して、祖父は土蔵を開けに来た。祖父は禿げた頭に手をやりながら、「われはテルでねぇ、テルでねぇ」と呪文のように唱えていた。
 私は今、テル叔父がどのような気持ちで軍隊に行っていたのだろうかと考えてみる。叔父は伍長という下士官であったそうである。敬虔なるクリスチャンであったらしい。「テル兄はのう、学があるだで将校になれるとこさ自分で伍長にしたっさだ」と親戚のだれかが言った。もう一つの伝説である。伍長という階級は海軍にはなかったようなので、陸軍の乙種幹部候補に振り分けられたものと思われる。甲種、乙種は適正によって振り分けられるようなので、自分から択ぶものでもないようである。幹部候補に志願したものの中から試験の結果で将校や下士官になるらしい。伍長という階級は海軍にはないようなので、彼は陸軍に召集され、輸送船で南方に渡る途中で消息を断ったのではないかと思われる。未だに遺骨も帰ってこないそうである。戦死したことにはなっていたが、母は「まだどこかで生きているのではないか」と言っていた。
 私は、子どものころはよく知らなかったが、大人になると、キリスト教は人を殺してはいけないと説き、悪人が右の頬を叩けば左の頬を差し出せとすら教えていることを知った。けれども、どうして世の中から戦争がなくならないのか、多くの罪も無い子どもたちが殺されてしまうのか、ベトナム戦争の無差別爆撃の報道を見るにつけ、長い間疑問に思っていた。アメリカの議員も大統領も多くはキリスト教徒ではないか。
 だが、最近、「聖書の名言集」という本を読んでいて、ようやくその疑問が解けた。つまりその本によれば、頬を叩かれる程度の軽いものではなく、戦争という重大な事態の時には、国の指導者が神は我らの側にあると言えば人殺しも許されると大方は解釈されているということのようである。日本の神は天皇だったから、明らかにキリスト教が言う唯一の神ではない。確かに、これではテル叔父は人殺しを正当化できなかったはずである。共産主義者のように兵役を拒否して牢獄に入っていれば、日本の敗戦後彼は生きて出てこられたかもしれない。しかし、それをするには大変な勇気がいったに違いないと私は思う。非国民の汚名を着せられ、家族にも大変な迷惑がかかったに違いない。そして、戦後、私の祖父が遺族の代表として九段会館に宿泊し、靖国神社にお参りすることもなかっただろう。
 私たちが祖父の家に行くと、必ず川村屋にあいさつに行く。この集落で一番の金持ちとのことだった。「大草原の小さな家」のドラマに出てくるネリーの家のようなもので、村で唯一の商店なのであった。母はそこと親戚同様のつきあいをしていた。子どもたちを連れて行くと中でも川村屋のおばさんが大歓迎をしてくれた。若くして亡くなった母の実母を養女として育てたのが川村屋だったそうである。つまり、その養女は私の実の祖母に当たるのだが、聞いてみるとこの人の運命はかなり悲しいものだった。
 私の実の祖母に当たる人は両親が亡くなるまでは何不自由のないお嬢様として育ったそうである。営林署の署長の一人娘であったという。調べてみると、営林署というのは後の名称で、明治・大正時代は林区署と称していたようである。その頃の公務員は大概武士の子孫だったそうである。それが、急に孤児になり、村一番の金持ちの川村屋に養女として引き取られた。養女が成長すると、川村屋は私の祖父に結婚話を持ち込んだ。祖父には実は好きな女性が別にいたのだが、川村屋の養女と結婚した。この好きだった女性が今は後妻となっている人だいうのである。この後妻にきた人は奥地の忌み嫌われているらしい地域の出身のようだった。こういうことはほとんどだれからも聞いてないが、おしゃべりな叔母がしゃべることがあった。真偽のほどはわからないが、家の中がふたつに分かれ、行き来がないのも、そのことと関係がありそうだった。
 この元お嬢様には親から相続した土地や畑があちらこちらにあり、祖父はそこに桑の木やいろいろな作物を植えたようである。かなり遠くにある土地で、そこまで歩いて行き、カゴいっぱいの桑の葉を担いで運ぶのが女たちの日課だったようである。長兄は大工の跡取りとして祖父から期待され、厳しく指導されていたようである。だが、長兄の方は大工に向いていないのかあまり熱心に仕事をしなかったので、ますます祖父から叱られた。そのうち長兄は大工をやめて、折から国策としてすすめられていた満州開拓に妻とともに行くことにした。長兄は結局のところ、極寒のシベリアに何年も抑留され、命からがらようやくの思いで日本に帰ってきた。一緒に行った妻も満州で生まれた赤ん坊も、ともに生きては戻れなかった。長兄は後妻を娶り、二人の子に恵まれた。長兄は村役場の仕事をしていて、大工の跡は継がなかった。
 私の母は「田舎の仕事に比べたら東京の仕事は楽だった」という。長い山道を重い桑の葉を担いで運ぶことに比べたら、肉体的にはずいぶん楽だったに違いない。特に私の母は同級生の中でも一番の小柄で身体が弱かったので、長姉より少ない量しか運べなかったそうである。母の年代の人たちは後の年代の人たちに比べて、総じて十センチ以上小柄のように感じた。家族が多いため、栄養が回らなかったのではないかと思われた。母の話では、母がある時、かさばって重い桑の葉を運んでいると、祖父が隠れてなにかをしているところに出会ったそうである。よく見ると祖父は一人ですべてのあんころもちを食べているところだったとの話。私も子どものころ一人でこしあん串団子をたくさん買い、店の前でその場で全部食べてしまったことがある。祖父に似ているような気がした。
 そんな祖父であるが、村の保育園に小さなジャングルジムを寄贈したりしていた。そのジャングルジムに祖父の名前が書かれてあった。祖父は大工はもうやめているようだったが、菜種だったか菜種油だったかあやふやだが、販売をしていた。小さな看板が出ていたが、お客が来る様子もなかった。
 国道を隔てた斜め向かいにあった旅館に風呂を貸してもらった。五右衛門風呂で木の底板がぷかぷかと浮いていた。
 標高が高く水の流れが速いせいか、稲核には八月だというのに蚊がいなかった。ところが、ハエよりかなり大きな虻に刺され血を吸われた。
 昔、柿などのフルーツの木がいくつもあった隣の庭は川村屋の求めに応じて祖父が譲り、ガソリンスタンドになったそうである。川村屋のおばさんは私たちが稲核から立ち去るころになると、必ずやってきて、私にお金の入った紙袋を渡すのだった。母が遠慮してその紙袋を必ずのように川村屋のおばさんに返した。おばさんはそれでももう一度渡そうとする。これが二、三度繰り返され、最後はおばさんが紙袋を強引に私のポケットに入れてしまうのだった。それもいつも五百円という大金であった。
 後妻の祖母は夏で暑かったせいで、祖父と同じように上半身はは白い肌着だけでいることが多かった。下はもんぺのようなものを穿いていた。私が飼い猫をかまってると、「へぇ、猫をかまうでねぇ。えろうかまうとひっかくだでな」と叱られたのを憶えている。
 東京電力のダムで堰きとめられる以前の梓川で泳いだこともあった。大きな丸い石がゴロゴロしている河原に下りて、狭くて浅い川を泳いで下った。深くて渦を巻いている危険な場所もあった。水が冷たいので、少し泳ぐと、じきに唇が紫色になった。戦死した叔父さんたちもここで泳いだのだろうかと思った。
 川以外には特に他に遊ぶところもなく、ロープでできた吊り橋を渡るのがスリルのある遊びであった。吊り橋は揺れるので怖い。床板の隙間から遥かな谷底が見えた。
 長兄の部屋の方に回ってみても、なかなか人の気配が感じられない。ステレオとかピアノがあるみたいなのだが、人がいるのかいないのか反応がない。「だれかいないのかー」とよんでみるのだが、なかなか反応がない。そのうち、二階の窓から長兄の嫁さんに良く似た女の子が顔を出した。目が合うとすぐ引っ込んでしまった。見ると、長兄の長男が建物の陰に隠れていた。彼はちょうど私と同じくらいの年のころであった。私の叔母に当たる母のすぐ下の妹だけが少し違って社交的だったが、私の母の一族はどうも、大人しい性格の人たちばかりであるようだった。私も学校では完全に無口で通っていた。ただ、家の中では内弁慶であり、たまには面白いことを言って母を笑わせていた。また、自分の大切にしていたプラモデルを弟が足で踏みつけ、壊してしまったのに謝らないことを根にもち、母のいない時に弟をいじめて母を心配させていた。
 母のすぐ下の妹は若いころから人見知りしない性格で、よく国道を通るトラックに一人で乗せてもらっていたようであった。田舎の人はいい人ばかりなので何の問題も起こらないのだが、色々な事件が起きている昨今から考えるとかなり危ない行為のように思われる。が、叔母は平気でやっていたらしい。私たちも道を歩いていると、自動車が停まり、みず知らずの人に「どこに行くのかえ。同じ方向だで、乗っていきましょ」と声をかけられることもあった。
 梓川に下りる崖の下の湧き水もおいしかった。稲核の家は裏山からの湧き水を引いているようで、蛇口をひねると冷たくておいしい水が出てきた。その頃の東京の水道水はカルキ臭くて不快な味が舌に残る水だった。祖父が東京に来ると必ず水道の味の不満を言っていた。塩素で消毒しているので仕方がないものと思っていたが、今では東京の水もずいぶんうまくなっている。何でも本気を出して改善すればできるものかと今となっては思うものである。
 何軒かの庭を通って裏山の麓に行くと、道の傍らに水飲み場があった。ひしゃくが置いてあって水が飲めた。常に山から水が流れ、石で囲まれた場所に水が溜まっていた。そういう場所がいくつかつながって水が流れていた。こういうところにスイカを浸して冷やすこともできた。
 裏山の中腹には風穴と呼ばれる天然の冷蔵庫がいくつもあった。各家庭ごとにそれぞれ風穴を持っているらしい。私の母は「かざな」と言っていた。戸を開けて、中に入ってみると、夏だというのに、そこの気温は九度しかなかった。冷たい地下水で冷やされた空気が出てくる場所だった。
   (2015年「城北文芸」48号)
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2015/3/27

Call things by their name  My English Diary

When I was reading the news German Chancellor Angela
Merkel talked with Prime Minister Shinzo Abe about
reconciliation Germany achieved with the neighboring
countries after World War two, it said Merkel referred
to a 1985 speech by the late German president Richard
von Weizsaecker in which he called the end of World War
Two in Europe a "day of liberation" and said those who
closed their eyes to the past were "blind to the present".
Asked how Germany was able to reconcile with its one-time
enemies after the war, Merkel said: "Without big gestures
by our neighbors that would not have been possible
... But there was the acceptance in Germany to call things
by their name."
I could not understand the meaning of "to call things by
their name". I was learned it was from Confucius. it means
"call things by their real name","call a spade a spade"
or speak honestly directly, outspoken, blunt, even to the
point of rudeness. For example, It's like "don't tell they
are not sex slaves or they are mere prostitutes who earned
a lot of money", something like that I think.

ドイツのメルケル首相がこの間日本に来たとき、安倍首相に第二次世界大戦後にドイツが敵国だった近隣諸国とどのようにして和解を進めたのかを問われ、メルケル首相は1985年に行った元ドイツ大統領ヴァイツゼッカーの有名な演説「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」を引用した後、「ドイツでは物事を真実の言葉で表現することを許容した」と語った。日本のように「従軍慰安婦」をどこにでもある売春婦の一種として正当化しようとするのとはかなり違っているということのようだ。
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2014/7/25

小繋事件の旅  エッセイ

 教職員組合板橋支部の元支部長である立花さんに頼まれて、今年の六月十一日に岩手県の小繋というところに行くことになった。小繋事件のあったところである。小繋事件とは、今から六十年近く前に、小繋山から自分たちが植えた木を切り出して自分たちの家を改築しようとした村人たちが百五十人もの警官隊に逮捕された事件である。そこは親子三代に渡って小繋山の入会権をめぐって法廷闘争がたたかわれたところである。六月の初めに山中湖の付近で国際コモンズ学会というのが開かれ、世界中から学者が集まった。その会議の共同議長であるマッキーン博士(米国デューク大学教授)がフィールドトリップの一環で被災した東北沿岸を訪問する機会に小繋を訪問し、小繋の集会所で講演と村人らとの交流を行うというものであった。私はそこでの通訳ボランティアを引き受けたのであるが、インターネットで調べてみると、マッキーンさんは若いころ東京大学に留学していて、日本語に堪能だということが分かった。東京大学留学中に小繋の入会権訴訟を知り、朝日新聞記者を通じて戒能氏の弁護士グループを紹介してもらったようである。後にマッキーンさんらによって、国際コモンズ学会という学者の組織がつくられたそうである。「コモンズ」というのは、古代よりイギリスの牧草地(イギリスというよりはスコットランドと言ったほうがいいかもしれない)で昔ながらの牧畜を営んでいたに地元の人が羊を放牧させていただれのものでもない土地を共有地という意味で「コモンランド」とイギリスでは呼んでいたところからきている。今日では、牧草地だけでなく、森林、漁場、灌漑用溜池の水利、それらを共同で利用しているところ、あるいは、それらを共同で管理している組織や社会的仕組みをいうこともあるということである。
 事前にコモンズについてインターネットで下調べをした。知らないことばかりだった。マッキーンさんらの研究はギャレット・ハーディンという人が発表した「コモンズの悲劇」という論文(共有地では土地がだれのものでもないため羊をどんどん増やしてしまい、次第に牧草を食い荒らし、荒廃するというもの)に反論するものであった。先住民族の共有地を奪って囲い込み私有地に変えていくという民族問題にも関係しているようである。
 東北新幹線を盛岡で乗り継ぎ第三セクターのいわて銀河鉄道の二両編成の列車でドア開閉ボタンを内側から押して小繋駅に降り立ったのは午前十一時ごろだった。目印の黒っぽい帽子を被っていた。どうせ降りるのは一人だけだろうという言葉どおり、降りたのは私一人だった。無人駅で、駅前に駐車場があるだけで、店もなにもなかった。二年前まで九戸村の共産党村会議員だったという背のひょろりとした橋本敏夫さんが自動車で迎えに来てくれた。立花さんとは高校時代の同級生だそうである。かなり廃車寸前の使い込んだ自動車に見えた。後ろのガラスにヒビが入っているように見えた。
 集会はすでに十時から始まっていた。急遽ボランティア通訳をしてくれることになった谷さんという若手の女性の博士が通訳をしていた。私は少し手伝う程度で済んだ。外国の方はマーガレット・マッキーン博士とインドのミノーティ・チャクラバルティ博士(デルヒ大教授)の二人で、外国人にしては小柄な女性たちだった。「民主文学」に「こつなぎ物語」を連載している野里征彦さんも来ていた。地元の村人の方たちが数人、皆高齢の人達だった。そして若い学生の人達が十人くらいはいたようである。あとは主催者や小繋の会の人たちがいた。録音をする人たちもいた。
 昼休みに集会所のすぐ近くの立花さんの実家で昼食を食べた。立花さんの実家は黒っぽい木造の家で、一九五五年ごろにつくられたものという話だった。つまり、警察から盗木材だと言われた木で建てられたものが今も残っていた。入口のドアの前には車椅子が置いてあった。立花さんの実母が歩行困難になっていて、立花さんの姉が身の回りの世話をしていた。立花さんの実家も集会所も奥州街道に面していた。小繋部落は奥州街道沿いに家が並び、現在では九十人程が居住しているそうである。江戸から松尾芭蕉が歩いてきた奥の細道のまだ先のところである。
 二千ヘクタールあった小繋山の入会地は、様々ないきさつがあって、茨木県の不在地主に売られ、住民による訴訟が起こされ、住民側が敗訴したが、一九五五年に調停が成立し、百五十ヘクタールで入会権が認められた。今では薪で暖を取る家は少ないようだが、まだ薪を採って積み上げている家もあった。
 マッキーンさんの講演では「コモンズの悲劇」を書いたギャレット・ハーディンが自分の論文は間違えであったという論文を書くという手紙をマッキーン博士に送ってきたということが話された。ただ、その論文は当人がなくなってしまい、出版されずに終わってしまったそうである。また、マッキーンさんは、一九五五年に父や叔父祖父が早朝百五十人もの警察隊によって包囲され逮捕されたという村人の話を聞き、「秘密の話があります。私も警察に捕まったことがあります。友人の言論の自由を求めた事件に、弁護の論文を書いて捕まりました」と話されました。ミノーティ博士はガンジーが愛した歌をベンガル語で歌った。歌詞の内容は「誰も戦いに力を貸してくれないなら、一人で進め。たとえ呼びかけに応える人がいなくても、戦い続けよ」とのことです。また、カナダのコロンビア州の先住民の共有地が私有化された戦いで、五千年もの間共有地として使われていたが、先住民に文字がなかったために記録が残されていなかったが、オランダのヘーグの国際裁判所に提訴して口承による記録を認めさせたという話がありました。日本の裁判で負けても国際裁判所があるという話でした。また、インド国内でも企業によって共有地が工場にされてしまう事件が発生しているそうです。世界規模でこの種の人権問題、命の糧を守る戦いがいろいろなところ、特に途上国で続いているとのことです。その意味で小繋の戦いは世界的に先駆的な意義を持っている戦いと言えそうです。
 小繋部落も過疎化で後継者がいない問題、学生が熱心に参加していたこと。岩手大学名誉教授の早坂啓三さんが小繋の会会長として頑張っていたこと。科研費という名前の国からの研究補助金があることを初めて知りました。科研費を使って岩手大学図書館内に小繋事件の資料館をつくったそうです。早坂さんらの尽力で若い研究者も育っていきそうです。学問の自由の確立も大切だと思いました。古きを知り、新しきを知れば、百戦危うからずということもある。「民主文学」にも若手が降臨してくれないかなと思いました。
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2014/7/25

B29空の要塞  小説 「沖縄戦」

 一九四五年四月一日、沖縄嘉手納沖からほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに上陸した米軍は南部の丘陵地帯で日本軍の激しい抵抗に会い、犠牲者が増え、征服に手間取るようになった。しかし、少しずつ激戦を制し、日本軍の司令部のある首里に肉薄していった。日本軍の主要部隊が首里から島尻南部の摩文仁に撤退するころになると、米軍は火炎放射器や火炎砲を備えた戦車をつかって、一つひとつの地下陣地や塹壕を破壊していった。嘉手納や読谷の穴ぼこだらけの飛行場はブルドーザーで整地され、駐機場も沢山整備され、上陸から十日目にはある程度使用可能になっていた。しかし、日本本土攻撃用の重爆撃機の基地にするにはさらなる工事が必要であった。日本軍がつくった珊瑚の岩を敷き詰めた滑走路は米軍の重い戦闘機や重爆撃機を運用するには層が薄すぎて、もっと厚くする必要があった。排水設備も不備であった。燃料を貯蔵するタンクなどを建設する必要もあった。五月、六月は連日激しい雨が続き、工事が遅れてしまった。千五百メートルだった日本軍の滑走路は二千メートル以上に拡張され、B29が沖縄に到着したのは八月を過ぎていた。
 B29は日米開戦前の一九三九年に開発が計画され、三年後の一九四二年九月に最初の飛行が行われている。四基のプロペラエンジンを持ち、九千メートルの上空から大量の爆弾を落とすことができた。最長航続距離は九千キロと言われ、遠く離れた場所を攻撃することができた。乗員はふつう十一名で、十二門の機銃と、後部に二十ミリ機関砲を持っていた。機関砲は戦局が日本軍に壊滅的に不利になり日本軍機の迫撃能力がなくなると、撤去された。
 最初はインドや中国内陸部にB29が出撃できる飛行場をつくった。この飛行場建設には現地の何万人もの中国人住民が動員され、石を運ぶなど、人力に頼って早期に建設された。一九四四年六月十五日に中国成都の基地を飛び立ったB29四十七機が夜間九州北部上空に飛来した。八幡製鉄所を狙ったものだった。最長航続距離九千キロとはいえ、それは通常の経済的な飛行での最大値に過ぎず、戦闘モードに入ればたちまち燃料を消費するため、中国からの日本本土攻撃は二千六百キロの距離にある九州までが限界とされた。九千メートル上空を飛行している限り、まず、日本の高射砲の射程外であった。九千メートル上空でB29に追いつける日本の戦闘機もまずいなかった。しかし、目標に爆弾を落とすには低空から落とす必要があった。結局、この時は八幡製鉄所の高炉に爆弾を命中させることはできなかった。B29二機が撃墜され、その他五機が帰還までに墜落し、米軍は合計七機のB29をを失った。中国奥地からのB29の攻撃はうまくいかなかった。その原因はまず第一に航続距離の関係で九州しか攻撃出来なかったことであった。そのために、日本軍は他地域から戦闘機を九州に集め、防衛する体制を強化した。八月二十日の八幡攻撃では山口県下関から発進した屠龍の体当たり攻撃でB29一機が撃墜されるなど米軍は十四機のB29を失った。
 米軍は一九四四年六月十五日サイパン島上陸を皮切りに、七月から八月にかけてサイパン、グアム、テニアンの日本軍守備隊を壊滅させ、飛行場を確保した。B29用に滑走路や駐機場を拡張し、日本本土に向け出撃させるのにはそう時間がかからなかった。十月から十一月にかけて、数百機のB29がマリアナ諸島の飛行場に続々と集結した。マリアナ諸島から東京までは約二千四百キロであり、十分攻撃可能な距離であった。
 十一月、米軍はB29による東京付近の偵察を行い、上空から写真撮影をした。その後B29による爆撃を試みたが、思ってもいない困難のあることがわかった。大量の爆弾や燃料を運ぶため、機体が非常に重くなり、離陸時に墜落するB29も少なくなかった。また、冬期は日本付近の高高度にジェット気流が吹いていることを米軍は知らなかったため、かなりの機体が目的地に到達できなかった。マリアナの飛行場に戻る途中で太平洋に不時着するB29が続出した。また、硫黄島から出撃した日本軍機がサイパン島のB29を破壊することもあり、B29護衛の中継基地として硫黄島確保が急がれることになった。米軍は二月十九日に硫黄島に上陸を開始し、一ヶ月余りの激戦ののち同島を占領した。すぐさま飛行場が整備され、長距離戦闘機ムスタングが配備された。四月上旬には、マリアナから硫黄島付近で合流したB29がムスタングに先導され、東京を空襲に向かった。
 高高度からの爆弾投下では効果が薄いということがわかり、アメリカ陸軍航空司令官ヘンリー・アーノルド元帥は一月二十日、ルメイ少将をマリアナに移った第二十一B29戦略爆撃グループ司令官に任命した。ルメイは中国から八幡攻撃を行なった際、実際に八幡まで到達したB29の数が少ないことに気がついた。また、パイロットは高高度から爆弾を落として引き返したがることにも気がついた。そこでルメイは自ら先頭のB29に乗り込み、先導し、低空から爆弾を落とさせた。司令官自ら先頭に立って危険を冒すのであるから、他のパイロットもそれに続く。そのようにして彼は爆撃精度を上げたのであった。まさに、鬼のルメイとでも言うべき司令官であった。
 また、彼は三月十日の東京大空襲を初めとする、都市部に於ける住宅地を狙った焼夷弾攻撃を命じた人物であった。彼は焼夷弾攻撃を命ずるに当たり、アーノルド司令官に作戦の裁可を求めず、自分の責任で命令を発した。彼はB29の後部にある銃座を取り除いた。そうすることにより搭載する爆弾の量を増やした。そして、昼間の高高度爆撃から、夜間低空爆撃に作戦を切り替えた。
 何人の民間人が死ぬかわからない作戦であった。彼はこの作戦に人道上の問題があることを自覚していたが、日本人が何人死のうとかまわないと考えていた。そのことに関しては少しの同情もなかった。
   (2014年「城北文芸」47号)
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2014/5/22

Opinion about the declining birth rate  My English Diary

I was watching the program of "the compass of money"
of TV Tokyo. the MC had told that the population of
Japan will become only one person in number if the
decrease in the birthrate continues like these days.
I thought that something was wrong with the argument.
Firstly, he assumes the temporary tendency continues
all the time. It's changeable by the the individuals
who considers to select by their will.
Malthus's population theory was like world population
will increase rapidly that it finally could not sustain
world population inevitable to cause war.
Anyway, those statistics are not considering the
people's will I think.

テレビ東京の「マネーの羅針盤」という番組を見ていたら、司会者が、このまま少子化が続いたら何年か後には日本の人口は一人になってしまう計算になると言っていた。何かおかしな議論だと思った。人間の意志によって可変なものを一時期の傾向がずっと続くと仮定して計算しても意味をなさない。マルサスは人口がどんどん増えて、最後には必ず戦争にならざるをえないという人口論を唱えていたように思う。いずれにしても人の幸せという個人の選択を考えずに、為政者の都合を優先した統計の数合わせに終始している印象を受ける。
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2014/1/18

島に上る月  My English Diary

I bought books titled "Shimani agaru tsuki" or "Rising moon over the islands"

 アメリカの言い分ではアメリカが日本に原爆を投下したのは沖縄戦の結果から計算した上でのことだと言う。ぼくが学校で教えられたのはソ連参戦によってソ連の影響力が強まることを低下させるために原爆を投下したというものだった。二種類の核兵器の実験、人体実験だったという人もいる。沖縄戦の小説を書くことによってどちらが正しいのかを考えて行こうとしたのである。
 戦争を描いた小説は野間宏の「真空地帯」くらいしか読んだことがない。沖縄戦については生き残った八原博道高級参謀の手記や体験記があり、稲垣武のノンフィクションなどたくさんの記録が出版されている。だが、沖縄戦を描いた小説はあまり多くないようである。インターネットで「沖縄戦」「小説」と打ち込みグーグルで検索してみると、以前は私の小説がトップで出てきたが、今は「嘉数の戦い」「小説」としないと私の小説は出てこないが、与並岳生という人の「島に上る月」という小説が上のほうに出てくる。これを買ってみた。「はじめて書かれる沖縄戦全史小説=vと帯に記されている。おととしの十二月に初版第一刷が発行されている。
 この小説は全八巻からなり、沖縄の新星出版という出版社から世に出されている。公刊された沖縄戦資料、証言等を再構成したいわば「ノンフィクション」小説とのことである。作者は琉球新報の記者だった人で、昭和十五年宮古島生まれだそうである。琉球王朝の歴史小説をたくさん書いている。
 というわけで、二番煎じになりかねないが、もう少しコンパクトに自分の視点で沖縄戦を描いてみたいと思っているところである。
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2013/9/28

Tamigayo  My English Diary

I saw someone write on the Internet about "tamigayo".
It's an unofficial variation of the Japanese national
anthem "kimigayo". Changing only one sound. Changing
only ki into ta. But it changes all of the song's concepts.
It changes the meaning "emperor' era" into "people's era".

インターネットで「民が代」というのを知った。「君が代」の替え歌なのだが、一字変えるだけで意味が百八十度変わってしまう。
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2013/4/6

Emperor Meiji stand-in suspicion  My English Diary

"Emperor Meiji stand-in suspicion"

A copy of the Asahi Shimbun "voice" column has been sent
to me from a lady called Fumiko Yamamoto of Nagoya.
It says about the the generation who cannot stand and
sing "Kimigayo" at a ceremony. Moreover, another copy of
sentences from her homepage was added.
I thought it was great an 81-year-old person was building
the homepage. I learned her second daughter cooperates to
build the homepage after all.
She writes Japan began to turn a rudder in the surprising
direction that the person will be punished if he or she
does not stand and sing "Kimigayo".
"Kimigayo" is an Emperor song in praise. The War was occurred
tried to put Asian countries under the Emperor's rule, and
resulted not only neighboring countries but also the Japanese
suffered terrible pain. the Japanese forgot the terrible pain?
Or someone is waiting to strengthen the Tenno system again
when it comes there are only the generations who do not know
the war itself Ms Yamamoto writes.
Probably she finds a crisis in the way of Mr Hashimoto of Mayor
Osaka conducts.
A part of "mass media and money are eating people's happiness
in this way" (Tokuma Shoten Publishing) is reproduced by her
homepage. The "Emperor Meiji stand-in theory" and Tabuse-mura
are written in it. It is said that the place called Tabuse-mura
was located in the Yamaguchi Prefecture and Kagoshima Prefecture.
Although Tabuse-mura was likely to exist, the truthfulness of
the stand-in theory is not known.
I think some person may have interested in the historical darkness.
When I searched Tabuse-mura with the Internet many sites hit.
I remembered when Junichiro Koizumi goes to North Korea,
Kim Jong-il said "Your father is the people from North Korea".
Junichiro Koizumi's father was from the former North Korean
village in Kagoshima.
Ms Yamamoto likes to write. She writes in detail. It seems
that her belief is also intense.
It is said that at a bar of Honolulu Rusaku Tsunoda, Donald Keene's
teacher, met a Japanese of having defected from Japan concerned
with assassination of the Emperor Komei in 1915.
It has written on "Yomiuri Shimbun".
I don't know weather it is true or not.


 『明治天皇替玉説』         

 名古屋市の山本文子という方から「城北文芸」の私あてに朝日新聞「声」欄のコピーが送られてきた。「『君が代』立って歌えぬ世代」という一文である。また、この方のホームページに載せた一文が添えられていた。八十一歳の人がホームページをつくっているとはすごいなと思ったが、どうもこの方の次女が協力してこの方のホームページをつくっているらしいということがわかった。〜「君が代」を立って歌わないと罰せられる、というとんでもない方向に日本は舵を切り始めた。「君が代」は天皇賛歌だ。対戦国や近隣国のみならず、日本国民もさんざん苦しめられたあの戦争は、アジア各国を天皇の支配下に置こうとして起きたものだった。その反省の思いは日本国民の心から消えてしまったのか。それとも、戦争を知らない世代ばかりになるのを待って、再び天皇制強化を図っている者がいるというのだろうか〜と山本さんは書いている。大阪市長の橋下さんのやり方に危機感を持っているのだろう。彼女のホームページには「マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている」(徳間書店)の一部が転載されてある。それには「明治天皇替玉説」と田布施村のことが載っている。山口県と鹿児島県に田布施村というところがあったそうである。田布施村があったことは事実らしいが、替え玉説の真偽のほどはわからない。歴史の闇をめぐる考察は興味を引かれる人もいるのではないかと思う。インターネットで田布施村を検索するとたくさんのサイトがヒットする。そういえば、小泉純一郎の父は鹿児島の元朝鮮人部落の出身で、小泉純一郎が北朝鮮に行った時、金正日に「あなたの親は北朝鮮人だ」と言われたとかいう話を憶えている。山本さんは書くことの好きな人のようである。詳しく書いている。思い込みも激しいようである。
 ドナルド・キーンの恩師の角田柳作は一九一五年にホノルルのバーで、孝明天皇の暗殺に関わったために亡命してきたという日本人に出会ったそうである。「読売新聞」に書いてある。が、これも真偽のほどはわからない。
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2012/11/29

The Tokyo Gubernatorial Election Began  My English Diary

孫崎亨が橋下徹と宇都宮健児を比較してこう言っています。

 橋下徹氏対宇都宮健児氏;二人の(元)弁護士の生き方が
 日本の政治を代表的に表している。橋下徹氏は消費者金融
 の会社側の顧問弁護士の経歴。それが今国政をうかがう勢
 い。他方宇都宮健児氏は消費者金融の被害者を救済する側
 で活躍、法律改正の中心人物。どちらを支持するかで人間
 の生き方が問われる。
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2012/10/8

Hugo Chavez won the election  My English Diary

Venezuela's President Hugo Chavez won the election.
Nurse Lisa Sanchez said a Capriles(opponent) victory would mean "losing all that
we have gained under Chavez," including free medical care and adult education
classes. "He has opened our eyes." (this is from LA times. I hope it doesn't
violate the copy right)

ベネズエラの大統領選挙でチャベス氏が再選
ロスアンジェルスタイムズの電子版で看護師のリサさんの声がのっていた。チャベス氏が敗れていたら、医療の無料制度も成年学級もなくなっていただろう。「チャベスのもとで我々が獲得したすべてのものを失っただろう。彼は私たちの目を開いた」
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2012/8/12

Senkaku  My English Diary

Tokyo Metoropolitan Governer Shintaro Ishihara announced
it's plans to negotiate perchase three of the Senkaku
Islands. How much would be the price? How much the current
owners bought the Islands? I have an acquantans who
inherited mountain forests complaints only he is doing
is paying peoperty tax. Scince wood price is low, it's
not beneficial to own a forest land. But if you own the
disputed islands, you can get plenty of money. Is it fair?

石原都知事が尖閣諸島を買うと言う。東京都が買うと言う。20億円とも言われている。今の所有者がいくらで買ったかは知らないが、そう高い土地とは思えない。地方の山林の所有者など、固有資産税だけ収めている人は多いのではないかと思われる。木材の値段が安くなり、採算が合わないので、利益を生み出さないからと思われる。不公平な気がする。
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2012/7/19

antinuclear demonstration  My English Diary

I did not go to Yoyogi park on July 16, but many people
gathered demanding an end to nuclear power. Police reported
75,000 gathered. Organisers said 170,000. France24 said
200,000 took to streets or something like that. NHK did not
report the demonstration at all, as far as I know. NHK
ignored big demonstrations in the past, even the demo went
through right in front the NHK Shibuya broadcast center
building.

代々木公園で原発なくせという集会が7月16日にあった。警察発表で7万5千人、主催者発表で17万人、フランス24の英語版では20万人が参加したと言っていた。原発今すぐなくせという意見や、ぼくのように今あるものは安全性を確認してから利用しつつ、廃止の方向で期限をきり、跡地を火力発電所に変えていくのがいいのではと思っている人もいるのではないか。日本のメディアよりも外国のメディアのほうが注目して報道していることがよくある。
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