神の愛:クリスマスに
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3
章16節)
***
神様は、その独り子イエス様を与えてくださるほどに、世、すなわち、人間
すべてを愛しておられます。
1)愛という日本語:お大切
日本語でLove(ラブ)という言葉が訳されたのは明治になってからです。二葉
亭四迷という作家は"I love You"を「私は君のために死んでもいい」とか「君
のために死ねる」と訳し、夏目漱石は「「あなたといると、月がきれいだ」
と訳した話は知られています。
Loveを最初に訳したのは福沢諭吉と仲間の人たちだと言われていますが、こ
のLoveを「お大切」と訳しました。
教会では愛という言葉をよく使います。聖書は新しい意味をもたせた「愛」
という言葉を紹介しているのです。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが「神の愛」を表す言葉は「アガペ
ー」。これは紀元前使われていた古代ギリシア語では、「思いやり」という
意味がありました。キリスト教的理解では、それに、無償の愛、無条件の愛、
神の愛という意味を加えたのです。
2)神の愛:御子をお与えになったほどに世を愛された
このアガペーという言葉の一番大元になっている発想は「たくさん」という
意味だと言われています。愛情がたくさん、愛の心がたくさんという意味で
す。日本語の「お大切」という言葉にも「そこに集中しているたくさんの温
かい思い」を感じます。神様は「たくさんの温かい支援的な思い」を世界全
体に常に向けていますという意味になります。
@犠牲・代価を払うほど
さて、この聖句には「御子をお与えになるほどに、この世を愛された」とあ
りました。神様は、「世にあるすべての人たち」に「あなた方は大切な存在・
価値ある存在だよ」という思いを持っておられます。だからこそ、神様との
関係修復のために必要な代価で「身代わりの裁きを引き受けてくださる御子」
を与えるほどの愛を示されたのです。
ヨハネの手紙第一にはこういう言葉が紹介されています。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたした
ちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示され
ました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたし
たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛が
あります。
A無償で提供されている:
神様は私たちを「大切な存在」として心に留めてくださるばかりでなく、私
たちに支払うことなどできないほどの代価を無償で提供してくださいました。
私たちには神様に返済などまったく不可能な御子イエス様のいのちを無償で
提供してくださいました。パウロはローマの信徒への手紙の中にこう説明し
ています。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なし
に義と認められるのです。
B無条件で提供されている
無償で提供されたばかりでなく、それは無条件で、すべての人に向けて提供
されているのです。
「この世を愛してくださった」という「世」という言葉の中には、すべての
人が含まれており、誰もはじき出される人はいないのです。あなたが、どこ
の国の、どういう生活をしている人であっても、あなたが何をしている人で
あっても神様は、あなたを「大切な存在」と認め、価値あるものとして祝福
をもたらそうとその愛を表明しておられます。
あなたは神の愛の大事な対象であり、神様に愛されているのです。そして、
あなたには間違いなく「生きる価値」があるのです。
神様は、あなたのことを「いてくれるだけで、うれしい」と心から思ってい
ます。神様にとって、あなたという存在はかけがえのない「大切な存在」な
のです。それが歴史の中でもっとも顕著になった日、それがクリスマスとい
えるかもしれません。その大切さは、御子を遣わして表明するほど重大な出
来事だったからです。
3)関係と継続の中で味わう「お大切の心」
玄侑宗久という方が「いのちの養生法」というブログに「お大切」というテ
ーマでこんなことを書いています。
「当たり前のことだが、大切にしようと努力しつづけていると、それはすぐ
に大切なものになる。恋人の存在を想えばわかるだろう。恋とは、大切にす
る行為や思いの総称なのである。LOVEが「お大切」と訳された時代もあ
る。
思いが離れたので、メイルも減り、電話もしなくなったと考えがちだが、
実際はそうした行為が減ったから思いが離れたのではないだろうか。行為す
る努力そのものがじつはLOVEなのである。」
愛とは動詞であると言われます。愛とは意志だとも言われます。神様は私た
ちを大切な存在として継続的に承認して下さり、ケアしてくださることを意
志してくださいました。決して変わることのない愛で、私たちへの愛を注ぎ
続けてくださっているのです。「愛なる救い主」はすでに来てくださいまし
た。私たちはそれに応えてどう生きれば良いのでしょうか。私たちの「努力」
や「意志」をどんな場面で発揮すべきでしょうか。
4)そうは言っても
しかし、「本当に神が私を愛し、大切な存在として見ていてくださっている
のだろうか」「神が愛してくださっているのであれば、なぜ私にこんな不幸
が起こるのだろう」と悩んだり、考え込んだりしている人の数は、素直にク
リスマスを祝おうとしている人たちよりも遥かに大勢いるように思います。
イエス様を信じることによっても、不幸や心配が全部解消されているわけで
はないという現実を私たちは折に触れて経験します。
クリスチャンであってもなくても、悲しみ、悩み、あるいは孤独などがきわ
めて順調に私たちの日常を脅かします。「私」という個人への興味と思い入
れがあまりに強い現代人にとって、自分以外の人間が祝福を受け取ることな
ど興味も持てず、どうでも良いことになってしまってはいないでしょうか。
「私を愛してくれなければイヤだ。私にだけ良いことが起こらなければ絶対
にイヤだ」と叫ぶ声は本屋の書棚にあふれています。人は単純に「神の愛」
を信用していないように思います。
でも、そういう時代だからこそ、視点を変えて考える必要があるように感じ
ます。
「神が世を愛された」という言葉を、「個人」のことというより、歴史を貫
く「人間全体」とか「人類の歩みそのもの」として考えてみると、見えてく
るものがあります。人間が社会を形成し、生きて来た「生命力」の背後にあ
る人間を超えた「力」や「場」です。小さく弱い人間が、知恵があるとはい
え、ここまでずっと絶滅もせずに生きてこれた背後に、不思議を感じたこと
はありませんか?間違いなく人類は何度も絶滅の危機をくぐり抜けて生き延
びてきました。それは「誰かからの助け」があったからではないのでしょう
か。それを「神の愛」と呼べないのかなと思うのです。
ふと、考えました。映画の場合、道を歩くだけのエキストラでの参加もある
し、脇役を固める人、切られること専門の人、そして主人公がいます。すべ
ての人が主人公にはなれません。でも、主人公以外の役者さんたちが不必要
かといえば、決してそんなことはありません。むしろいなければ作品が成り
立たちません。
その映画の総監督を神様だと仮定すると、監督はその作品を愛し、その登場
人物を大事に起用し、最高の演技が生まれるように整えようとするのではな
いでしょうか。
この世界に置かれていること自体が神の作品の一部を担っていることと通じ
るのであれば、背後に総監督の「愛」を認めることは可能かもしれないなと
思います。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
「神様が私を大切な存在として見ていてくださる」と信じられるなら、素晴
らしいことです。どうぞ、その愛に応えて精一杯、与え、分かち合うことを
意志し努力してみてください。でも、それができないとしても、今生かされ
ているわけですから、大きな作品の中の大事な一場面を担っていると考えて、
前向きに自分のパートを生き抜いて欲しいと思います。神様の作品の中に、
あなたでなければ飾れない場面があるかもしれませんから。
神の愛、「あなたにも、人間全体にも」届いています。
祝福がありますように。
関根一夫


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