情報「公開」という言葉が気に入らない。情報「共有」があるべき姿だと思う。そう、「公開」するのは誰か?国・地方を問わず、行政が主語である。物事を表現する「目」の位置が、行政にあるのだ。
私は、何でもかんでも行政や役人や役所を批判する態度を嫌悪しており、そういう意味では、まあ仕方ないかと思う面もある。確かに「公開」するのは行政だから。
ただ、次の点は譲れない。「公開」は確かに正しい。でも、それで終わりか?公開すればOKですか?この態度こそが、一人ひとりを政治や行政や、それを包含する公から乖離させる。
つかみに来ない人が悪いと言われれば、完全には否定しない。理想論からすれば、個々人があらゆることに関心を抱き、真実を知ろうと行動し、主体的に情報を吸収して…、ということになるだろう。でも、それは理想論。
「公開」するだけではダメなのだ。その情報が、関係する一人ひとりまでに「共有」されることを目指すべきなのだ。簡単なことではない。広報誌、HP、マス・メディア、はては官報。あらゆる媒体を通じて情報は流されている。ただ、そこには「そのココロ」を読むことができない。ココロがなければ、魂のない仏と同様、単なる文字でしかないのだ。
必ずしも行政のみを批判したいのではない。確かに、そもそもの「公開」自体に消極的な態度や、垂れ流しを「公開」と勘違いしている問題もあるように思える。しかし、仏に魂を入れるのはやはり「政治家」である。議員だったり市長だったり、知事だったり総理大臣だったり…。
選挙のリーフレットには、しばしば「情報公開を!」とキャッチフレーズが踊る。はやりの言葉をどこからか引っ張ってきたような、魂の抜け殻のような空虚さを感じるのは私だろうか。私だったら、「情報『公開』から情報『共有』へ!」とキャッチをつけて具体策を書くのだが…。