しばらく日記が途絶えてしまった。理由は、毎月のレポート。具体的なことを考えていると日記を書く手も進むのだが、抽象的なことを考えていると、抽象化には時間がかかるだけに、なかなか手が進まない。今月は、日露戦争に関してテーマ設定して歴史観を論ずるというもの。提出期限は既に過ぎている…。
毎度そうなのだが、あんまり浅いレポートは書きたくないと思っている。内部のものならいいのだが、HPで公開されることが前提となっている。後々、それがマズイとか大丈夫という問題でなく、浅はかな文章を書いた私という事実を残したくない。
カッコつけて言うものの、中身のある内容を書こうとするため、時間と労力がかかる。適当に片付けちゃえよと言う自分もいるが、ここは我慢。がんばったからといって、良質な内容に結実するとは限らないが、自らの糧にはなっている。
さて、日露戦争。これまた、調べるほど論点がたくさんある。よくあるのは、「自衛戦争か侵略戦争か」だが、物事を一面からのみ断定する視点に基本的に賛成しないため、こういった二者択一論の次元でがんばろうとは思えない。もちろん、実政治の場面では、重要な言葉になる場合が多いわけだが、それは、本質的な意味での歴史観ではなく、政治的な歴史評価に過ぎない。重要ではあるが、違う土俵での重要性なのだ。
そうすると、私の関心はナショナリズムに行く。私は、ナショナリズムを国家主義礼賛や国家主義忌避のみの視点から語りたくない。ナショナリズムは、自らが自分であり、家族の一員であり、ある街の構成員であり、人類の一員であり…といった重層的アイデンティティの一部であると思っている。ゼロか100かといった極論は非現実的である。
特に安全保障、憲法論などを語るにあたって、ナショナリズムの捉え方がその議論全般に影響を及ぼしている昨今、自らの内面でナショナリズムを深く捉えなおそうと思っている。日露戦争に見られたナショナリズムはいかなるものであったのか。nationの確立、司馬史観、大正デモクラシーの先駆…。頭のなかで、文字がまだ躍っていて書くことができない。
政治と学術は異なる。これは、こと歴史に限らず、あらゆる政策領域と学術領域において言えることだと思うが、特に外交が絡む場合は顕著。その点は重々認識しつつ、自らの立つ土台を築いているつもり。