昨年のいわゆる国民保護法の制定を受けた各都道府県での国民保護計画の策定が進んでいる。いくつかに目を通したが、まずはこの程度だろうというのが率直な感想。それぞれの国が何十年、何百年の悲惨な経験と追求を経て生み出しているモノを、ゼロから構築するわけだから、仕方がない。
テロ対応が少なく、蓋然性の低い着上陸侵攻やミサイル攻撃に偏重している、地域防災計画同様に役所内での対応に終わってしまい個人レベルまでの対応が未了など、批判をしようと思えば数限りない。もっとも、それは計画策定に携わった各担当者も感じていることだろうし、繰り返しになるがまずは仕方がない。
個人レベルまでの綿密さが本当に求められるのは、来年度の市町村レベルでの国民保護計画だろうし、まずは、第一歩を踏み出したこと自体を評価すべきだろう。そもそも、自然災害と異なり、想定すべき事態が無数にあるこの領域において、「完全」はあり得ない。従って、既存災害対策との共用部分を含め、今後も継続的な更新が図られなければならない。
そんなことを思いつつ、最近の計画策定状況に関するニュースを拾っていたら、こんなコラム(
国民保護計画と有事体制 平和構築へ無防備宣言を:山陰中央新報)に出会った。
ここ神奈川県でも藤沢において、無防備宣言を市議会に働きかけた運動があったことを記憶していたが、実は結構あちらこちらでやっていることらしい。無防備宣言については、改めて論評・批判することすら情けなくなる思いだが、コラムを読んで思わずため息が出てしまった。まだ、こんなのがあるのか…。
個別に反論を書こうと思えばいくらでも書けるが、それは大学の学部生レベルで可能だろうからあえて遠慮する。全般のみについて言えば、現実に目を背けた信仰をベースにしたユートピアと論理展開の飛躍が目に付きすぎるということになるだろうか。
決してメインストリームではないだろうから、それほど心配はしていないが、昨今の一部雑誌やネット世界を席巻するこれまたエモーショナルな逆パリ論調と共に、日本における安全保障論議の悲しい神学論争の継続を改めて憂う。
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