駅前商店街の衰退を止めるために新規の郊外型ショッピングセンターを禁止するというのが本当だとしたら、それはかなりナンセンスだと思う。もっとも、そんなに短絡的な判断ではないだろうとの"期待"も込めたいところではあるが。
報道(「大規模店の郊外立地を禁止 次期国会に3法改正案提出
」12/21_時事通信等)によれば、「郊外立地を原則として禁止、都市計画で定める商業地域と近隣商業地域に限定する」ことを柱として、「大店法」を改正する方向とのことだ。かつて日米通商摩擦の折、ウォルマートなどの郊外型大規模ショッピングセンターの日本市場参入を阻害しているとして「大店法」が改正され、その建設要件が緩和された過去があった。背景の論理も違うし、完全な逆戻りではないにせよ、また元に戻そうということなのだろうか。
駅前商店街をはじめとする中心市街地の衰退は確かに全国的かつ深刻な課題だ。先日訪れたLAを参照しても、中心にぽっかりと穴の開いたドーナツ状の都市において、その中心部における治安・景観・経済状況等が低下することは言うまでもない。LAのダウンタウンを歩いていて感じるなんとも言えない落ち着かなさ、つまらなさ、不便さは、昼夜人口の大幅な上下を伴う都市構造にあることは身をもって体感した。ただ、その原因を「郊外に大規模ショッピングセンターが一杯できたから」と断じてていいものだろうか。はじめに断ったとおり、そういう意図での改正であればの話ではある。
かつて駅前をはじめとした中心市街地で買い物をした私を含む客は、確かに郊外型大規模ショッピングセンターに「行ってしまった」。だが、その原因は何か。郊外型店舗がなくなれば、駅前に戻るとでも考えているのだろうか。少なくとも私にとっての普通の感覚で言えば、答えは完全に「NO」だ。
駅前から郊外に客足が動いた原因は一つではなかろうが、「我々のライフスタイルの変化」や、「我々の選択」が働いたことは間違いない。核家族化に伴って若い主婦は子どもを抱えての買い物を強いられることになる。当然、「車で」行くし、「駐車場から近い」ところで、「まとめて」買えるほうを選択する。昔ながらの商店街は、確かに心のつながりが気持ちがいいところもあるが、子どもとキャベツと大根を抱えていて、心のつながりよりも利便性を選ぶことをどうして非難できるだろうか。どうして「腕プルプル状態」を強要することができようか。
商店街でも人を集めているところは全国にたくさんある。多くの場合、そこにはそれなりのポテンシャルがあることも事実で、全ての商店街に改善の見込みがあるわけではないだろうが、それでも努力と苦闘のあとが必ず見受けられる。経営者個々の人間性を否定するわけでは全くないが、どう考えても、昔ながらの傘や婦人服を漫然と並べているだけで、「食って」いけるはずがない。
繰り返すが、改めて「大店法」改正を行い、郊外型大規模店を実質禁止する方向性の意図はまだよくわからない。指摘があるように、都市計画上、用途の定められていない「白地地域」における無秩序開発を防ぐという「行政文書的」無機質な表現に一定の意義を見出すことも不可能ではない。しかし…。
消費者のニーズと合致しない施策を上から押し付けたところで、その施策の目的(中心市街地の再興)が達成されないことは言うまでもない。建設する側は必ずや抜け道を探し出し、、それを見てまた国などが制度をいじり、そしてやっぱり我々消費者は郊外に大挙して集まる…、というつまらない連鎖が繰り返されることになるだろう。
議論は年明けになる。今のところ、大きな反響が見られないが、訪米中に衛生版日本紙を目にした瞬間から気になっていた。短絡的判断でなく、私の無知であればと思うが、果たしてどうか。中心市街地活性化を「かつてへの回帰」や「かつての延命」に拘泥する限り活路は見出せず、「人が住む町」という原点に立ち返ったとき、新たな道筋が見えてくると思う。引越しを考えたとき、「駅まで○分」というデータは今なお最重要なポイントの一つであろう。車社会とは言え、駅そして中心はまだまだ大きな価値を持つ。
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