何事もそうだが、その道のプロフェッショナルでしか分からないことは多い。一定のレベルまでは一般常識の範囲でカバーできても、そこから先の難しいことになるとチンプンカンプンなんてことはよくある。それゆえ、普通の人向けには、プロ同士での込み入った話を避け、比喩を使ったり、一般的な用語に置き換えたりして、伝えようとする。
例えば前職で扱っていた生命保険。色々と理屈をこね回して説明したあと、大概聞かれるのが「で、結局保険料はいくらで保険金額はいくら?」。数十年間にわたるライフプランニングから、個々のリスク分析、必要保障額の長期的な推移などは、ハンコを押す判断材料の一部になればいい場合が多かった。こうした複雑性そのものの必要性を理解してもらえる能力に乏しかったという面があるものの、やはり単純化が必要であることも事実。
選挙なんてのもそんな一つかもしれない。もちろん、あらゆる領域の現状と問題点、課題と対処法を理念と政策の両面からケアし、包括的に主張して優劣を判断してもらうべきであることは言うまでもないが、なかなかそこには至らない。イメージとキャッチフレーズが先行することをよしとはしないが、できるだけ単純化して伝えようとするなかでは、どうしてもそれに着目せざるを得ない。
負け組ゼロの社会。今回の衆院補選で使われたキャッチフレーズ。これもそんな文脈にある象徴的な言葉なんだろう。
厳密に考えれば考えるほど、その意味や実現可能性が分からなくなる。最近よく使われる格差社会という言葉もそうだが、その定義からして良く分からない。貧困や欠乏は悪だ。だが、負け組も格差社会も、絶対的な貧困や欠乏を問題視しているとは思えない。
更に言えば、落としどころとして、過去の一億総中流をよしとしているのか、共産主義的な平等社会をよしとしているのかも定かではない。負け組や格差社会という言葉に載っているなんとなくネガティブな感覚を使っているんだろうなと思う。
所得水準の途方もない不均衡や、再起不能な弱肉強食は悪だ。だが、競争のない社会に未来はない。論点を単純化するあまり、非現実的なユートピアをビジョンとして掲げることは避けたい、少なくとも私は。夢を語ることは不可欠、希望を共有することは不可欠。ただ、それは、結果的に更なる失望をもたらす不可能な夢や希望であってはならない。
実現可能性なんてあたりを考え出すと、言葉の歯切れは悪くなる。単純化とは逆行するから、伝わりにくくなる。でも、ウソはだめだ。本当のこと、根っこの部分、難しいことを、それでも分かりやすく、伝わりやすく表現するのが、プロフェッショナルな政治家であるべき。そういう意味で言えば、「じゃーんけーんグー」の選挙もナンセンスであることはいうまでもない(パラシュート候補の知名度向上作戦としての評価は別として)。
そう自分に言い聞かせつつ、分かりやすい単純化と分かりにくい複雑性の間で、今日も言葉を転がし続けている私。最後はその人となり、私という人間への信頼度が単純化の穴を埋めるものであることは理解している。
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