今日は都内で勉強会に参加。遅い時間になると平塚止まりや国府津止まりが増えるが、今日もそんなタイミング。平塚で降りて小田原行きを待っていたが、昼間の暖かさと比べてずいぶん寒い。思わずホームで素振りもどき。カキーン!バットは当然もってないが。
中学生まで計6年間、野球をやり続け、守備やピッチングはほどほどだったが、バッティングが悪かった。ホームでふと素振りした瞬間、「あ、ポイントが後ろ過ぎたんだ」と気付く。試しにオープンスタンスでスイングしてみると、自動的にポイントが前になることも発見。オープンで構えるようにすりゃ良かったと思うが、大幅な手遅れ(笑)。
イチローはじめ、今ではオープンスタンスが珍しくないが、20年前後の昔ではあまり見られなかった。「誰もそう教えてくれなかったなぁ」と思った時、頭に浮かんだのが今日のタイトル。
もし、当時の私が今日の気付きを自分で得ることができたら、きっと私のバッティングは良かったに違いない。反対に、同じことを教えられていたとしても、私のバッティングはよくなっていただろうか。根拠のある論証をしようというのではないが、多分、結果が違ったように思う。多分、表現が違うだけで、様々なアドバイスは受けていただろうし。
教えられて身につけるべきことは当然ある。ただ、自分で気付いたこと、編み出したことは、教えられることには敵わない。バッティングの例で言えば、問題がバッティング・ポイントにあること、その解消手段の一つが構え方の違いにあることを、直接教える前に、気付くように仕向ける、ヒントを出す、誘導するといった方法論があるといい。
教わることと学び取ること。教育論そのものだけでなく、これからの社会のあり方、なかんずく人々と行政との関係にもこれは当てはまる。指示・管理/受動・対処だけでは限界がある。そこから更なるポテンシャルを引き出して持続させるために、内発的な気付きをもたらし、自ら選択・決定する(学び取る)ことが不可欠。このあたりの話は、国だろうが自治体だろうが関係なく、日本社会全般に共通する構造的な課題の一つだろうと思っている。
ホームでの暇つぶしからはちょっと飛躍してるかな?
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