情報公開という言葉は、国・地方を問わず、今やあらゆる行政機関に共通するキャッチフレーズだろう。しかし、この言葉、もはや手垢にまみれてしまった言葉に思う。情報公開自体を否定的に考えているのではない。その言葉の意味するところ、本音と建前の差が見えて仕方ないということだ。
今日も、たまたま、ある町の土地利用計画を見ていた。この文書だって、情報公開という建前さえないところでは、なかなか目にすることができなかったかもしれない。が、読んでいると…、う〜ん。
しかし、なるほど文面には美辞麗句が並ぶ。文章だけ読んだら、否定する人間などいるはずがない。書いてある方向性そのものに間違いはないだろう。でも、出だしから、いきなり「?」。
その町。人口約1万人の町。このご時勢、大都市は別として、どこも人口は漸減に入っている。それはこの町も同様で、ここ数年間、コンスタントに減り続けている。
ところが、その土地利用計画書、10年後には人口が2割ほど増えることが前提に置かれている。増やそうとする試みは別に否定しないが、だからといって、2割増はどう考えても非現実的。その前提で描かれている土地利用計画にどれほどの意味があるのだろう?前提の人口は計画自体に影響しない?だとしたら何といい加減な計画だろう。
日付を見ると、2年ほど前に作られた計画。2年間も「情報公開」されてきたわけだが、そのまんま。何をいいたいかと言えば、「公開」という名のもとの、「放置」だったのでは?ということ。私は、情報は、「公開」は言わずもがなで、「共有」されるべきもので、行政組織としての責任は、「共有」してもらうための努力を制度論から進めることだと考えている。
仮に「共有」されていれば、こんなこともなかったろうに。情報の「公開」と「共有」。行政組織の問題という書き方をしたが、それのみに依拠する課題ではない。行政組織を統括する首長、チェック機関である議員、そしてその町に暮らす人々全員にとって、しなければならないことは様々あるだろう。
私がしていきたい仕事は、様々な主体を横断する課題、政策を横断する課題全体を、一つの方向性に向かって少しずつ底上げしていくこと。その方向が、少なくとも官僚のミスや「これまで」の不作為のみをあげつらおうとする方向でないことは、これまでも触れてきたとおり。それができさえすれば、どんな職種、どんなポジション、どんな次元であってもいい。
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