主夫の一日。第二子「ご懐妊」につき、どうにもならない妻に代わり、こんな時ぐらいはと炊事・洗濯・家事全般をこなす。日頃、これでもかというくらい「ぶん投げ」てしまっているので、多少は負債軽減かな。
必然的に子どもと過ごす時間が多くなり、育児ストレスを若干体感しながら、観察すると…。まぁ、よく泣く。やれシールが剥がれないだの、おもちゃが見つからないだのと。3歳を過ぎたので、しつけも大事と、「すぐ泣かない!」と一喝。怒るのでなく叱ろうと、「泣くのは痛いときと悲しいときだけだよ」と諭すと、おうむ返しに繰り返すわが子。素直に育ったと思うのは親バカでしょうか…。
「泣くのは痛いときと悲しいときだけ」と言ったものの、よく考えると、嬉しくて泣くのも人間。達成感、満足感、充実感、溢れる喜びが自然と涙をもたらす時がある。あまり泣かない私だが、高校生のときに体育祭でやったマスゲーム(仮装と呼んでいた)で優勝したときは、数ヶ月の頑張りを思い返しつつ、内からあふれ出る喜びを押さえきれず思わず涙した経験がある。
人から指示されたこと、強制されたことについて、いくら優勝しても涙はでない。もっと言えば、場面にもよるが、内側から溢れ出る思いを持って行動しない限り、「優勝」や「成功」なんてない。人間が120%の能力を発揮するためには、指示・強制による受動性ではダメで、意思・意欲による能動性に基づかなければならないと確信している。
政治という側面から言えば、そうした意思や意欲をより大きく育て、具体化し、支援し、公共的制度に受容(「取り込む」とは違う)しようとする部分にこそ存在意義があり、「何をすべきか」をすり込んだり、指示したりは極力避けるべきだろうと考えている。最も大切な自発性・能動性を殺してしまいかねないからだ。
今日、子どもが「しまじろう」DVDを見ている脇で、松本健一著『日・中・韓のナショナリズム』(第三文明社)を読んでいた。まだ途中ではあるが、私の思いとシンクロする部分がかなり多い。憲法の話、靖国の話、民主主義の話…。
つまるところ、私の根幹的な主張に行き着く。改めるべきは「上意下達」。そのこころは、「創意集約・共助分業・自律実践」とでも言おうか。戦争や危機管理を考えたとき、上意下達は不可欠で否定しない。しかし、例えば、学校教育課程で「愛国心」を強調したからと言って、本当の意味で内から湧き起こる「愛国心」が実現できるわけがない。そんなすり込みで喧伝される程度の「愛国心」が欲しいのか、と正面から問いかけたい。そもそも、小中学生は、先生の言うことを100%信じ込むほど幼稚ではない。
目の前を流れる川がどうしてそこを流れるに至ったのか、近所の神社にどんな歴史があるのか、私という人間がどんな経緯でここにいるのか。小さなことを突き詰めていくなかから、自らをもたらしてきた様々な物事を知覚し、感謝・認知・驚き・関心など様々な自発的気づきを促す。
愛国心なんて、そんな先にしか芽生え得ない。大木には巨大な根っこが必要。大氷山の水面下は更なる大氷山。鉄筋を抜いたマンションの強度については言わずもがなだろう。
子育てを一日しながら、昨今の上っ面浅薄な流行的ナショナリズムに、改めて吐き気を覚えてしまい、まとまりのない今日の長話となりました。ご容赦くださいm(__)m
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