現代社会は多くの「外部化」から成り立っている。金銭を媒介とした商品経済の存在は、まさにその「外部化」の結果であろうし、最近では外食産業の発達が「食の外部化」の観点から語られることも多い。一人暮らしの高齢者が増加していく社会構造のなかで、そうした方のより人間的な暮らしを支える一つの大きな基盤と解釈することもできよう。
マクロな視点からも、そもそも国家という存在は、原始共同体が持っていた外敵からの防護機能が「外部化」された一つの形態。かつては、共同体が総出でオノとヤリを手にしていたのである。ビスマルクなりチャーチルに端緒を持つ福祉国家の具現化も、根源的には共同体で保有していたsafety-net機能を国家が吸収していった過程であった。
そして、それは当然日本においても本質的に変わらない。江戸から明治にかけて、藩という分権システムで担いきれなくなった対外的独立を、新たに創出した日本という国家に外部化し、その力を集中的に運用することで実現したのである。以後、福祉政策等の側面に関しても、個人や家族、地域共同体などが保持していた機能が少しずつ国家または行政へと外部化されていき、現在に至る。
外部化はある意味での効率化である。小単位でバラバラに機能化するよりも、大きな単位で機能化するほうが、低コストで済む場合が多い。かつての日本が、堺屋太一が言うところの「規格大量生産」で成功したことは端的な事例であろう。
日本という国も、その外部化を深化させて、成功してきた。しかし、私には、この「外部化」が一つの転換点を迎えているように思えて仕方がない。それは、国家なり自治体という統治機構への「外部化」に対する限界認識である。
統治機構への行き過ぎた外部化は、当事者意識の希薄化をもたらす。外部から与えられると錯覚しやすくなり、そもそも自らが外部化しているということを忘れてしまう。
更に言えば、統治機構への「外部化」とは、一元化という側面を持つ。ハード・ソフトともに社会基盤が整っていなかった時代において、一元化は限られたリソースの有効活用という効用を多く生み出した。しかし、様々な問題はあるにせよ、今の日本全般を語るにあたって社会基盤の不足は説得力を持たない。ある程度整った時代において、「外部化」および一元化は、個々の実状という多元性と整合性を保つことが難しくなり、効用ではなくマイナス効果をも感じさせるようになった。
あらゆる「外部化」を否定するつもりは全く無い。むしろ経済面においては、今後さらに限定される日本のリソース活用の観点からも、「外部化」は進んでいく場合が多いと思う。また、この手の議論によくある「現在否定、結局は原始共同体に戻れってこと?」という論調に与する気も全く無い。
しかし、こと統治機構に関しては、そろそろ「外部化」の限界点に達しつつあると思う。社会に存在する多くのニーズの受け皿は、国や自治体だけではもう抱えきれない。軽はずみな市民主義というものに、私は即座に賛同しかねるが、「外部化」の限界点を越えたニーズを満たす「手」は間違いなく『市民』であるに違いない。そこにある『市民』は、私民でもなく、死民でもない。個人の利益を追求しながらも、その根底をなす様々な共同体の参画者として行動する、大人である。
必ずしも「国家に忠誠を誓う」必要性は無い。しかし、国家なり自治体なり地域コミュニティの一責任者としての自覚と責任、行動が伴う必要性は間違いなくある。「外部化」の限界を超えた、より良い社会とは、そうした我々自身の成長の向こうに現れるものであり、決して他人がもたらしてくれるものではないと確信している。