気のせいかもしれないが、最近「東アジア共同体」という言葉の露出が減ったように思う。一時的にワッと盛り上がって、ショボーンと消えてしまうことは日本でよくある。今回もその手なのだろうか。
熱病のような東アジア共同体信仰を私は是としない。そういった東アジア共同体論には、多くの場合、そもそもその東アジア共同体自体のイメージがない。何をもって共同体としているのか。
単にFTAがリージョナルに拡大した地域自由貿易協定の枠組を言うのか、日本だけでしか通用しないらしいEPAの枠組で定義しようとしているのか、EUを超越した東アジアにおける超・既存国家機構を指しているのか。この点をあいまいにしたままの東アジア共同体論は、よくある情緒論の域を出ず、遠からず消えていくだろうと思う。
しかし、東アジア共同体論そのものを無意味だと言う気はない。最近よく言われる食糧やエネルギーの視点のみならず、人口減少と成熟経済を基礎条件とする日本にとって、地域安定は、存立の基礎条件である。クラッシックな国家安全保障や、そこに特に表出する戦略的側面を東アジア共同体論との二者択一としない条件において、それは地域安全保障にも目を向ける一つの意義を持つ。
大学生の教科書に書いてあるような記述になってしまうが、安全保障は国家安全保障だけではない。今という時代はなおさらそうである。ここ1年ほど、国家安全保障のみに目を向けた安全保障論の多さに辟易としている。勢いはいいんだけれど…。
それは確かにcritical。だが、対外関係は、主権の及ばない主体同士の関係であり、他国との関係性を無視したところに国家安全保障も本質的に成り立たない。「外」の反作用を最小限にしなければ、国家安全保障という作用が非効率になることを言いたいのだ。
東アジア共同体礼賛の「進歩的」スタイルも、国防一辺倒の「伝統的」スタイルも、結局それのみでは、現実政治には適用し得ない。それぞれの接点でガツガツとぶつかり合って生成される、見えにくく、分かりにくい、でも実は大きな布石。そんなところに、戦略的でありながら周囲に親和性をもっていると感じてもらえる「したたか」な外交戦略・安全保障戦略が生まれてくるのではないだろうか。