議論のここまでの流れについては一つ前のエントリで振り返りましたので必要な方はご参照ください。
さて、シンシンさんのコメントのこの部分ですね、私がクリアカットに線が引けるのかと疑問に思っているのは。
「属することの幸せを否定する」ということは、平たく言うと、属したくない、ということですよね。属したくないから「属さない」ではなく「属せない」とは、どういう人でしょうか。理解できません。
では私は何がいいたいのか。
まずここで「属せない」というのは物理的に属することが不可能という意味ではありません。私がいいたいのはたとえば食べ物の好き嫌いなんかと似たことです。例えばいい大人なのに「ピーマンが嫌い」という人がいる。物理的にピーマンが食べられないわけではなくてピーマンが嫌いなだけです。だから厳密に言えばピーマンが食べられない人ではないけど、ピーマンが嫌いで絶対食べたくない人という意味でピーマンが食べられない人という言い方をしますよね。
ピーマンはくだらない例ですが、個人のこの好き嫌いとか感情に関わる理不尽な衝動が本人にも説明がつかない以上、「物理的にピーマン食えるだろ」「食おうと思えば食えるじゃないか」ということをもってそれは「食えない」んじゃなくて「食わない」んだ、とはいいたくないのです。
オリンピックで、どこの国の人でもいいしその人が国家によって抑圧されてきたかどうかも問いませんが、自国の国家を「歌えない」人は、はっきりした理由と意志をもって「歌わない人」とはまた別ではないか。思うに、本人もしばしば理由を説明できないけれども拒否してしまうものがある、それがピーマンだったり国歌だったりすることがあり、そしてそういうことがなんだか多くて生きにくさを感じる人々が「属せない」人ではないかと私は思います。
だって楽しくないもんは楽しくないじゃないですか。お前も楽しめ、楽しめるだろう、とは言えない。嫌いなもんを好きになれとは言えない。それはまた、恩恵を自覚するかどうかとも別の話です。
ちょっと別の観点からいうと、こういう例はどうでしょう。たとえば、誰も見ていない絶対ばれない状況で当て逃げできるかどうか。当て逃げはできないけど駐車違反ぐらいならできる人は多いかと思いますがそれも「できない」人もいるでしょう。「しない」のではなくて。でもそういう人も別にやろうと思えば当て逃げだって駐車違反だって「できる」訳です。クリアカットに線が引けないのでは、というのはそういうことです。
念のために申し上げておきますが「嫌いなもんは嫌いなんだから仕方ないじゃん」ということをもって差別を肯定する意図は一切ありません。ここでいいたいのは内面からの説明のつかない衝動によって私たちがしていることを全て意図による行為だと還元することはできないだろうということです。
ということで、ここまでどうでしょうか。これ以外にもたくさん論点はありますので前のエントリへのコメントも引き続き歓迎します。SIVAさんのところには同じネタで3度目のトラックバックを送ります。