2009/7/3
小熊秀雄の樺太 文学
詩人小熊秀雄が少年時代を過ごした樺太。その時代を歌った詩として明確になっているのは三篇だけである。
その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る
「白い夜」
という詩がある。その中に、次のような表現がある。
「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」
樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ
「泊居」(トマリ)
という西海岸にある小さな町である。
まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。
しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の
「水銀のような光り」
を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。
小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。
樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。
アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に
「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」
この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。
やはり、樺太を舞台とした詩
「トンボは北へ、私は南へ」
という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。
「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」
大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。
なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり
「小熊秀雄」
として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。
我々が、当然のようにして受け止めている
「小熊秀雄」
という名は、彼の前半生では
「三木秀雄」
であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。
樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。
私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。
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その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る
「白い夜」
という詩がある。その中に、次のような表現がある。
「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」
樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ
「泊居」(トマリ)
という西海岸にある小さな町である。
まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。
しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の
「水銀のような光り」
を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。
小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。
樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。
アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に
「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」
この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。
やはり、樺太を舞台とした詩
「トンボは北へ、私は南へ」
という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。
「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」
大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。
なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり
「小熊秀雄」
として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。
我々が、当然のようにして受け止めている
「小熊秀雄」
という名は、彼の前半生では
「三木秀雄」
であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。
樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。
私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。
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2009/6/23
アカシアの街に寄す 文学
詩人小熊秀雄は、昭和13年(1937年)6月、十年ぶりの旭川への帰省の後、札幌を訪れた。旭川時代の友人で北海タイムス記者である中家金太郎の誘いを受けたものである。
小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。
つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。
この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは
「札幌詠草」
として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、
「時計台」
「大通り公園」
「北大構内」
「藻岩山」
は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。
大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、
「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」
と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。
しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が
「鉄の将軍」
と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。
今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。
この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。
北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。
この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。
屈辱的な話である。
小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では
「北大構内にて」
という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。
この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。
札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。
「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」
まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。
次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。
特別展「アイヌ口承文学の世界」
で、さまざまな刺激を受けた。
その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。
帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。
一つは
「札幌市地図復刻版-昭和11年版」
だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。
さらに、
「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)
という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。
なぜ半額なのかは分からない。
本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。
帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた
「アカシアの街に寄す」
という文章を読んだ。
十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。
その最後に、札幌を小熊はこう語っている。
「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」
小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。
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小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。
つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。
この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは
「札幌詠草」
として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、
「時計台」
「大通り公園」
「北大構内」
「藻岩山」
は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。
大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、
「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」
と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。
しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が
「鉄の将軍」
と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。
今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。
この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。
北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。
この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。
屈辱的な話である。
小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では
「北大構内にて」
という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。
この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。
札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。
「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」
まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。
次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。
特別展「アイヌ口承文学の世界」
で、さまざまな刺激を受けた。
その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。
帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。
一つは
「札幌市地図復刻版-昭和11年版」
だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。
さらに、
「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)
という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。
なぜ半額なのかは分からない。
本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。
帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた
「アカシアの街に寄す」
という文章を読んだ。
十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。
その最後に、札幌を小熊はこう語っている。
「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」
小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。
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2009/6/19
詩人菊岡久利-小熊の友たち-1 文学
2009年3月11日、東京への旅に出ていた私は、大学時代の友人と鎌倉で会った。彼と話をしながら、大町、釈迦堂切通し、小町と歩いて最終地点の寿福寺を訪れた。
寿福寺の参道で、そこに墓のある人名の書いてあるプレートを見ていると
「菊岡久利」
という名が目に入った。
彼は詩人である。しかし、その名を知る人は少ない。私は、旅の目的である詩人小熊秀雄の友だったということだけで彼の名を知っていた。友にも聞いてみると、文学の好きな彼でさえ菊岡久利の名を認識していなかった。
しかし、私がかつて住んでいた鎌倉で、しかも、数年ぶりに偶然に訪れた寿福寺で菊岡
久利の墓に巡り合うということは、小熊を通した何か大きな縁があると思った。
私が、菊岡を知ったのは小熊の死後の昭和15年12月に出た「現代文学-小熊秀雄追悼号」という雑誌の
「白樺の俗謡」
という追悼文を読んだことによる。菊岡は、近しい友を失った悲しみを、情に流れない豪放な筆致で描き、印象的な詩を書いている。白樺というタイトルは、小熊の出身地である北海道を意識したものだろう。
旅が終わり、北海道へ戻って、私は文学辞典で菊岡久利の項を調べた。
菊岡久利(きくおかくり) 1909〜1970
詩人。本名高木陸奥男。青森生まれ。少年時代から社会運動に関心を寄せる。詩集に「貧時交」「時の玩具」「見える天使」があり、戯曲に「野鴨は野鴨」。詩は、野性的なエネルギーの横溢に特色があり、日常的な言葉を駆使し解放的な詩風である。
その後、私は、彼の三冊の詩集の復刻版を手に入れた。
昭和13年12月に出版された「時の玩具」のなかに
「色の衣裳」
という詩がある。この詩は、旅をしている青年が、下関に近づく列車の中で出会った朝鮮人の父と少女のことを書いたものである。
青年は、その少女の異国的な雰囲気の美しさに目を奪われる。しかし、それは一時の事であり少女と言葉さえ交わすことなく別れざるを得ない。
この詩は、その時の朝鮮の少女の印象を描いた美しい詩だった。野性的でも、解放的でもない、菊岡の繊細で詩的な感情がここに表現されている。
さらに発見があった。
昭和15年3月、作家壷井栄が小説「暦」を出版し、その出版記念会が新宿寶亭で行われた。その際の記念写真に数多くの人々と共に、詩人小熊秀雄と菊岡久利が写っている。
主役だった壷井栄はもちろん、夫の壷井繁治、深尾須磨子、宮本百合子、佐多稲子、中野重治、秋田雨雀、原泉、高見順、平野謙らの友人も写っている。なんと、興味深い豪華なメンバーの集まりだろう。
写真の小熊は頬がこけ、見るからに死が迫っていることを感じさせる。旭川時代の精悍な若者の雰囲気はすでにどこにもない。
その中で、菊岡久利は堂々とした体躯、豪放な面構えをして立っている。詩人というよりはスポーツ選手のような風体である。
おそらく、小熊と菊岡が同じ写真に収まったのはこれが初めてで最後ではないかと思われる。
その後も、菊岡の人生を調べた。詩からは離れ、新宿で隆盛を誇った
「ムーランルージュ」
脚本部で活躍していたこともあるらしい。
その後、菊岡は、東京四谷の住まいから、鎌倉へ移り住んだ。妻が、小町通りに「社頭」という和紙専門店を開き、今も、菊岡の娘二人が引き続きこの店をやっていることも突き止めた。
私は1990年代初頭に、鎌倉に4年ほど住んだ。この「社頭」という店で買い物をしたこともあった。しかし、この店が小熊秀雄の友であった菊岡久利の妻が経営していた店であることを知らなかった。
詩人小熊秀雄の人生を調べるということは、その周辺の、知られざる友たちの人生を知ることでもある。
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寿福寺の参道で、そこに墓のある人名の書いてあるプレートを見ていると
「菊岡久利」
という名が目に入った。
彼は詩人である。しかし、その名を知る人は少ない。私は、旅の目的である詩人小熊秀雄の友だったということだけで彼の名を知っていた。友にも聞いてみると、文学の好きな彼でさえ菊岡久利の名を認識していなかった。
しかし、私がかつて住んでいた鎌倉で、しかも、数年ぶりに偶然に訪れた寿福寺で菊岡
久利の墓に巡り合うということは、小熊を通した何か大きな縁があると思った。
私が、菊岡を知ったのは小熊の死後の昭和15年12月に出た「現代文学-小熊秀雄追悼号」という雑誌の
「白樺の俗謡」
という追悼文を読んだことによる。菊岡は、近しい友を失った悲しみを、情に流れない豪放な筆致で描き、印象的な詩を書いている。白樺というタイトルは、小熊の出身地である北海道を意識したものだろう。
旅が終わり、北海道へ戻って、私は文学辞典で菊岡久利の項を調べた。
菊岡久利(きくおかくり) 1909〜1970
詩人。本名高木陸奥男。青森生まれ。少年時代から社会運動に関心を寄せる。詩集に「貧時交」「時の玩具」「見える天使」があり、戯曲に「野鴨は野鴨」。詩は、野性的なエネルギーの横溢に特色があり、日常的な言葉を駆使し解放的な詩風である。
その後、私は、彼の三冊の詩集の復刻版を手に入れた。
昭和13年12月に出版された「時の玩具」のなかに
「色の衣裳」
という詩がある。この詩は、旅をしている青年が、下関に近づく列車の中で出会った朝鮮人の父と少女のことを書いたものである。
青年は、その少女の異国的な雰囲気の美しさに目を奪われる。しかし、それは一時の事であり少女と言葉さえ交わすことなく別れざるを得ない。
この詩は、その時の朝鮮の少女の印象を描いた美しい詩だった。野性的でも、解放的でもない、菊岡の繊細で詩的な感情がここに表現されている。
さらに発見があった。
昭和15年3月、作家壷井栄が小説「暦」を出版し、その出版記念会が新宿寶亭で行われた。その際の記念写真に数多くの人々と共に、詩人小熊秀雄と菊岡久利が写っている。
主役だった壷井栄はもちろん、夫の壷井繁治、深尾須磨子、宮本百合子、佐多稲子、中野重治、秋田雨雀、原泉、高見順、平野謙らの友人も写っている。なんと、興味深い豪華なメンバーの集まりだろう。
写真の小熊は頬がこけ、見るからに死が迫っていることを感じさせる。旭川時代の精悍な若者の雰囲気はすでにどこにもない。
その中で、菊岡久利は堂々とした体躯、豪放な面構えをして立っている。詩人というよりはスポーツ選手のような風体である。
おそらく、小熊と菊岡が同じ写真に収まったのはこれが初めてで最後ではないかと思われる。
その後も、菊岡の人生を調べた。詩からは離れ、新宿で隆盛を誇った
「ムーランルージュ」
脚本部で活躍していたこともあるらしい。
その後、菊岡は、東京四谷の住まいから、鎌倉へ移り住んだ。妻が、小町通りに「社頭」という和紙専門店を開き、今も、菊岡の娘二人が引き続きこの店をやっていることも突き止めた。
私は1990年代初頭に、鎌倉に4年ほど住んだ。この「社頭」という店で買い物をしたこともあった。しかし、この店が小熊秀雄の友であった菊岡久利の妻が経営していた店であることを知らなかった。
詩人小熊秀雄の人生を調べるということは、その周辺の、知られざる友たちの人生を知ることでもある。
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2009/6/9
歌人のこころに触れて 文学
古本屋へ行くたびに、手に取るけれど本棚へ戻す・・・。もちろん、自分には高価な本だからである。
しかし、1年、2年と時が過ぎても、誰にも買われることなく、そのままになっていることがある。
そんな本を、あることが契機となり、手に入れた。
歌人山名康郎(やまなやすろう)の
「冬の旗」
という歌集である。
山名康郎は、大正14年生まれで現在83歳。現役の歌人であり、現在北海道新聞日曜文芸
「北のうた」
というエッセイを担当している。北海道に関連あるうたの数々を取り上げながら、その歌人たちの歌の背景や人生まで踏み込む見事な文章である。
先日の「北のうた」(2009年6月7日)では、山名薫人、つまり本人の父の次の歌を取り上げている。
この谷の底ひに冷ゆる陽のいろの青白くしてこぶし咲くなり
谷底の太陽の光が陰り、白い辛夷が青みを帯びて見える光景を捉えている。この歌は、1979年、南富良野町のかなやま湖の湖畔展望台に歌碑が建てられたという。私は、その湖を訪ねたことがあるにも関わらず、この歌の存在さえ知らず、まだ見ていない。
私は、北海道新聞を購読していない。だが、ある方の好意でこの記事を見せて頂き、読むことが出来た。つまり、この記事を読んだことが、山名康郎「冬の旗」を手に入れる契機となった。父と子につながる歌のこころを明確に認識するために、どうしても、読む必要があると思った。
この歌の入った父山名薫人の歌集「山峡の湖」もいつか手に入れることができるだろう。
山名康郎の「冬の旗」を手に入れた後、帰り際に、別な本棚で、歌人斎藤史の
「ひたくれない」
という小型の美しい歌集を見つけた。数々の歌の最後に
つゆしぐれ信濃は秋の姨捨のわれを置きさり過ぎしものたち
という、私の愛する歌の入ったものだった。
結局、この斎藤史の歌集も手に入れて家へ帰った。
家で、じっくりと二冊の歌集を読んだ。山名康郎の「冬の旗」の後半に次の歌があった。
<信濃のひと 斎藤史さんを訪ふ>
激動の日を淡々と語りをり藍色のめがねときどきはずし
山の緑ひたひた胸をひたし来ぬあくがれ遠くこの信濃路に
こころ餓えていたる戦後に君のうた読みてより執し来し四十年
目に見えぬ世界を詠ひくれないにかがやく生を愉悦とするや
若き日の父のえにし訪ふひとは信濃の国の願人の姥
昭和2年3月、当時の旭川第七師団参謀長であり歌人だった斎藤瀏は、熊本への転勤が決まる。旭川の歌人たちはそれを惜しみ4条7丁目無尽会社楼上で送別会を行った。
その時の記念写真には、斎藤瀏はもちろん、娘の斎藤史、そして山名薫人、酒井広治、飯田佳吉、さらには当時旭川新聞記者だった小熊秀雄も写っている。彼らの間でどのような会話がなされたのか、その写真を見ながら私にはいろいろな想像が浮かぶ。
消え去った時が、この写真に残っている。また消え去った時が歌となって残っている。
かりそめの別れと思へど向かいいて寂しさついにきわまりにけり 酒井広治
歌によき霧華の街のうすぐもり春に先立ちいゆく人かな 小熊秀雄
深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別かるる時となりにけるかも 斎藤史
こよいがぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどいなるかも 斎藤瀏
残念ながら、山名薫人の歌がまだ確認できないが、彼は、この日旭川歌話会の幹事となった。
山名薫人と斎藤史は、こうして旭川で交流があった。この時点では、息子山名康郎は4歳であり、斎藤史への記憶はほとんどなかったと思われるが、後年彼は、こうして斎藤史をたずねて歌を詠んだ。
大正末期から昭和初期の旭川で出会った斎藤、山名の二組の父と子、そして康郎と史へと繋がる歌人たちを結ぶ心を、古本屋で得た二冊で知った日だった。
旭川歌話会-斎藤瀏、斎藤史送別歌会記念写真
昭和2年3月19日-旭川無尽会社楼上

一列目 左から三人目 斎藤史、四人目 斎藤瀏
二列目 左から三人目 小林幸太郎、六人目 酒井広治
三列目 左から六人目 飯田佳吉、七人目 鬼川俊蔵
四列目 左から四人目 山名薫人
最上段 右から二人目 小熊秀雄
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しかし、1年、2年と時が過ぎても、誰にも買われることなく、そのままになっていることがある。
そんな本を、あることが契機となり、手に入れた。
歌人山名康郎(やまなやすろう)の
「冬の旗」
という歌集である。
山名康郎は、大正14年生まれで現在83歳。現役の歌人であり、現在北海道新聞日曜文芸
「北のうた」
というエッセイを担当している。北海道に関連あるうたの数々を取り上げながら、その歌人たちの歌の背景や人生まで踏み込む見事な文章である。
先日の「北のうた」(2009年6月7日)では、山名薫人、つまり本人の父の次の歌を取り上げている。
この谷の底ひに冷ゆる陽のいろの青白くしてこぶし咲くなり
谷底の太陽の光が陰り、白い辛夷が青みを帯びて見える光景を捉えている。この歌は、1979年、南富良野町のかなやま湖の湖畔展望台に歌碑が建てられたという。私は、その湖を訪ねたことがあるにも関わらず、この歌の存在さえ知らず、まだ見ていない。
私は、北海道新聞を購読していない。だが、ある方の好意でこの記事を見せて頂き、読むことが出来た。つまり、この記事を読んだことが、山名康郎「冬の旗」を手に入れる契機となった。父と子につながる歌のこころを明確に認識するために、どうしても、読む必要があると思った。
この歌の入った父山名薫人の歌集「山峡の湖」もいつか手に入れることができるだろう。
山名康郎の「冬の旗」を手に入れた後、帰り際に、別な本棚で、歌人斎藤史の
「ひたくれない」
という小型の美しい歌集を見つけた。数々の歌の最後に
つゆしぐれ信濃は秋の姨捨のわれを置きさり過ぎしものたち
という、私の愛する歌の入ったものだった。
結局、この斎藤史の歌集も手に入れて家へ帰った。
家で、じっくりと二冊の歌集を読んだ。山名康郎の「冬の旗」の後半に次の歌があった。
<信濃のひと 斎藤史さんを訪ふ>
激動の日を淡々と語りをり藍色のめがねときどきはずし
山の緑ひたひた胸をひたし来ぬあくがれ遠くこの信濃路に
こころ餓えていたる戦後に君のうた読みてより執し来し四十年
目に見えぬ世界を詠ひくれないにかがやく生を愉悦とするや
若き日の父のえにし訪ふひとは信濃の国の願人の姥
昭和2年3月、当時の旭川第七師団参謀長であり歌人だった斎藤瀏は、熊本への転勤が決まる。旭川の歌人たちはそれを惜しみ4条7丁目無尽会社楼上で送別会を行った。
その時の記念写真には、斎藤瀏はもちろん、娘の斎藤史、そして山名薫人、酒井広治、飯田佳吉、さらには当時旭川新聞記者だった小熊秀雄も写っている。彼らの間でどのような会話がなされたのか、その写真を見ながら私にはいろいろな想像が浮かぶ。
消え去った時が、この写真に残っている。また消え去った時が歌となって残っている。
かりそめの別れと思へど向かいいて寂しさついにきわまりにけり 酒井広治
歌によき霧華の街のうすぐもり春に先立ちいゆく人かな 小熊秀雄
深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別かるる時となりにけるかも 斎藤史
こよいがぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどいなるかも 斎藤瀏
残念ながら、山名薫人の歌がまだ確認できないが、彼は、この日旭川歌話会の幹事となった。
山名薫人と斎藤史は、こうして旭川で交流があった。この時点では、息子山名康郎は4歳であり、斎藤史への記憶はほとんどなかったと思われるが、後年彼は、こうして斎藤史をたずねて歌を詠んだ。
大正末期から昭和初期の旭川で出会った斎藤、山名の二組の父と子、そして康郎と史へと繋がる歌人たちを結ぶ心を、古本屋で得た二冊で知った日だった。
旭川歌話会-斎藤瀏、斎藤史送別歌会記念写真
昭和2年3月19日-旭川無尽会社楼上

一列目 左から三人目 斎藤史、四人目 斎藤瀏
二列目 左から三人目 小林幸太郎、六人目 酒井広治
三列目 左から六人目 飯田佳吉、七人目 鬼川俊蔵
四列目 左から四人目 山名薫人
最上段 右から二人目 小熊秀雄
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2009/6/7
熊の牙-小熊とアイヌ 文学
2009年4月から5月にかけてNHK教育TVで
「ヴィクトル・スタルヒン-野球がパスポートだった」
という番組が4回にわたって放映された。
スタルヒン(1916-1957)は、ロシア革命が勃発とともに両親が日本へ亡命し、北海道旭川へ住んだ。スタルヒンは、旭川で少年時代を過ごし、旭川中学時代に巨人軍へ入団。その後、さまざまな経緯を経て300勝を超える勝利数を得、日本のプロ野球史に永遠にその名が刻まれることになる。
その番組の第2回で、スタルヒンが旭川を出たとき、
「木彫りの熊」
を抱いて出発、その後も先発の時には必ずこの木彫りの熊を持って現れ、ベンチに置いていたという事実が、写真入りで紹介された。それは、旭川のアイヌによって彫られ、スタルヒンに贈られたものだったらしい。スタルヒンにとっては、その「木彫りの熊」は、少年時代をすごした旭川そのものであり、心の支えだったことだろう。
9歳の少年スタルヒンが両親と旭川へ着いたのは1925年(大正15年)だった。
詩人小熊秀雄は、当時25歳、旭川新聞社記者。前年結婚し、その年の初めに樺太で長男焔が生まれている。
旭川の町を闊歩する小熊が、ロシアの少年スタルヒンとすれ違わなかった筈はない。何か言葉を交わしたこともあったかもしれない。
スタルヒンの両親が作ったロシアパンは、当時の旭川では評判が高かった。好奇心の旺盛な小熊は、ロシアパンを、少年スタルヒンから買い、話をした事もあったに違いない。
後年、スタルヒンの両親はミルクホール「白ロシア」や喫茶店「バイカル」を旭川に開くが、それは、小熊が旭川を去ってからのことになる。
詩人小熊秀雄は昭和3年に上京し、詩人としての出発をする。この時、アイヌから
「熊の牙」
を、餞別として貰った。
この事実は、昭和12年10月26日の北海道帝国大学新聞に発表された、小熊自身のエッセイ「望郷十年」で明らかになっている。
その文章の冒頭は、次のようである。
「北海道から東京へ来るとき、旧土人×××さんの家を訪ねた。彼は餞別の意味で一本の熊の牙を私にくれた。牙は家の後ろに立てられた塀の上に突き刺してあった大きな熊のシャレコウベをはずし、それを地面の上に置いて、鉞(まさかり)を持ち出してきて強く顎を一撃してとつたものだ。彼は牙を私に手渡す時に「特別に-」といふ意味をいった。アイヌ人と熊との関係は、熊の霊の中に残忍に鉞を加えるほどに殺風景なものではないことを知っている私は、彼が私のために、熊の顎を砕いてそこから牙を取って私の餞別にした好意をいまでも最大なものだと思っている」
熊は、アイヌにとっては神である。その神の牙を、別れに餞別として渡すことは、そのアイヌと小熊の友情の深さを推し量って余りある。
昭和3年、小熊秀雄は「熊の牙」を、昭和9年にスタルヒンは「熊の木彫り」を持って、同じ北海道旭川から東京へ旅立った。その時、二人は、符号を合わせたようにアイヌ民族の心からの信頼と友情を胸に抱いていたのだった。
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「ヴィクトル・スタルヒン-野球がパスポートだった」
という番組が4回にわたって放映された。
スタルヒン(1916-1957)は、ロシア革命が勃発とともに両親が日本へ亡命し、北海道旭川へ住んだ。スタルヒンは、旭川で少年時代を過ごし、旭川中学時代に巨人軍へ入団。その後、さまざまな経緯を経て300勝を超える勝利数を得、日本のプロ野球史に永遠にその名が刻まれることになる。
その番組の第2回で、スタルヒンが旭川を出たとき、
「木彫りの熊」
を抱いて出発、その後も先発の時には必ずこの木彫りの熊を持って現れ、ベンチに置いていたという事実が、写真入りで紹介された。それは、旭川のアイヌによって彫られ、スタルヒンに贈られたものだったらしい。スタルヒンにとっては、その「木彫りの熊」は、少年時代をすごした旭川そのものであり、心の支えだったことだろう。
9歳の少年スタルヒンが両親と旭川へ着いたのは1925年(大正15年)だった。
詩人小熊秀雄は、当時25歳、旭川新聞社記者。前年結婚し、その年の初めに樺太で長男焔が生まれている。
旭川の町を闊歩する小熊が、ロシアの少年スタルヒンとすれ違わなかった筈はない。何か言葉を交わしたこともあったかもしれない。
スタルヒンの両親が作ったロシアパンは、当時の旭川では評判が高かった。好奇心の旺盛な小熊は、ロシアパンを、少年スタルヒンから買い、話をした事もあったに違いない。
後年、スタルヒンの両親はミルクホール「白ロシア」や喫茶店「バイカル」を旭川に開くが、それは、小熊が旭川を去ってからのことになる。
詩人小熊秀雄は昭和3年に上京し、詩人としての出発をする。この時、アイヌから
「熊の牙」
を、餞別として貰った。
この事実は、昭和12年10月26日の北海道帝国大学新聞に発表された、小熊自身のエッセイ「望郷十年」で明らかになっている。
その文章の冒頭は、次のようである。
「北海道から東京へ来るとき、旧土人×××さんの家を訪ねた。彼は餞別の意味で一本の熊の牙を私にくれた。牙は家の後ろに立てられた塀の上に突き刺してあった大きな熊のシャレコウベをはずし、それを地面の上に置いて、鉞(まさかり)を持ち出してきて強く顎を一撃してとつたものだ。彼は牙を私に手渡す時に「特別に-」といふ意味をいった。アイヌ人と熊との関係は、熊の霊の中に残忍に鉞を加えるほどに殺風景なものではないことを知っている私は、彼が私のために、熊の顎を砕いてそこから牙を取って私の餞別にした好意をいまでも最大なものだと思っている」
熊は、アイヌにとっては神である。その神の牙を、別れに餞別として渡すことは、そのアイヌと小熊の友情の深さを推し量って余りある。
昭和3年、小熊秀雄は「熊の牙」を、昭和9年にスタルヒンは「熊の木彫り」を持って、同じ北海道旭川から東京へ旅立った。その時、二人は、符号を合わせたようにアイヌ民族の心からの信頼と友情を胸に抱いていたのだった。
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