2009/10/5
小熊秀雄とマヤコフスキー 文学
詩人小熊秀雄の詩に
「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩がある。
マヤコフスキー(1893〜1930)は、ロシアの詩人である。グルジアの寒村に生まれた彼は、19歳で未来派の中心的詩人となる。やがて、1917年のロシア革命を迎え「芸術左翼戦線」を結成。代表作には「ズボンをはいた雲」「背骨のフリュート」など。しかし、ロシア革命による再編成期にさしかかったレーニン死後の文壇左右両翼からの風当たりが強く、これに恋愛の挫折感を加え、1930年(昭和5年)4月14日、マヤコフスキーは遺書を残してモスクワで拳銃自殺した。
この自殺に反応した日本の詩人で唯一人、マヤコフスキーへの詩を残したのが小熊秀雄だった。私は、この詩の最後の四行込められた小熊の激しくも鮮烈な詩精神に、青年の頃から、心を揺さぶられ続けてきた。
「私は君のような自殺はできない
死よりも、生きる責任の強さのために、
よし、たといその生が
死より惨めなものであっても」
小熊がこの詩を書いたのは1933年(昭和8年)9月、1930年のマヤコフスキーの自殺から3年余りが過ぎてからのことだった。この詩が書かれた同年の2月小林多喜二が東京で検挙され虐殺されている。
当時日本では、マヤコフスキーの詩がロシア語から日本語へと翻訳されていなかった。では、なぜ小熊秀雄はマヤコフスキーの詩を理解し、その死に対するこのような強い意志を込めた詩を書けたのか?
小熊秀雄の童話「焼かれた魚」を大正13年(1924年)に雑誌「愛国婦人」に掲載したのは、当時この雑誌の編集を行っていた湯浅芳子だった。小熊と湯浅芳子はこの童話掲載を契機に、この年と翌年にも、旭川から上京していた小熊と会っている。
湯浅芳子は、この後の昭和2年、作家宮本百合子(当時は中條百合子)と共にロシアへ留学し3年間を過ごす。
ロシア留学中の昭和3年(1928年)、湯浅と宮本は旅先のレニングラードのホテルで憧れの作家ゴーリキーに会見する。
また、留学最後の年である昭和5年(1930年)4月には、モスクワでマヤコフスキーの自殺の報を聞き、二人は彼の告別式に参加する。
この時のゴーリキー会見とマヤコフスキーの自殺と告別式の様子は、宮本百合子が後年、長編小説「道標」で書いている。ゴーリキー会見はもちろん、マヤコフスキーの告別式の様子は、「道標」の中でも特に印象的な描写となっている。
湯浅芳子には、マヤコフスキーの死に関する直接の文章は残されていない。しかし、帰国後に、すでに旭川から東京へ移り住んでいた詩人小熊秀雄と出会った時、湯浅がロシア滞在中にマヤコフスキーの死と告別式に立ち会った事実を伝えなかったはずはない。
湯浅芳子は、小熊が亡くなった時の追悼文で次の事実を書き残している。
「私がマヤコフスキーの詩集を出してきてその中の一篇を直訳すると、あなたがそばからそれを詩らしく直して云ってなかなか楽しかった」
(「小熊さん」現代文学1935年小熊秀雄追悼号)
湯浅と小熊の二人に交わされた友情の証、そしてロシア文学がその友情を結ぶ大きな要因となっていことが、ここに示されている。
湯浅と小熊には、マヤコフスキーだけではなくプーシキンの詩についても同じようなことが行われ、一冊のノートにまとめられた。しかし、残念なことに、その後、友人たちの間を回覧されているうちに、そのノートは見失われた。
小熊に
「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩を書かせた原動力は、やはり湯浅芳子だった。もちろん、そう書かれた文章は誰の手によっても残されてはいない。しかし、私を強く揺さぶり続けた一篇の詩は、このようにして、小熊と湯浅の友情の末に生まれたという確信が、長い時間を経て、今の私に生まれている。
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「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩がある。
マヤコフスキー(1893〜1930)は、ロシアの詩人である。グルジアの寒村に生まれた彼は、19歳で未来派の中心的詩人となる。やがて、1917年のロシア革命を迎え「芸術左翼戦線」を結成。代表作には「ズボンをはいた雲」「背骨のフリュート」など。しかし、ロシア革命による再編成期にさしかかったレーニン死後の文壇左右両翼からの風当たりが強く、これに恋愛の挫折感を加え、1930年(昭和5年)4月14日、マヤコフスキーは遺書を残してモスクワで拳銃自殺した。
この自殺に反応した日本の詩人で唯一人、マヤコフスキーへの詩を残したのが小熊秀雄だった。私は、この詩の最後の四行込められた小熊の激しくも鮮烈な詩精神に、青年の頃から、心を揺さぶられ続けてきた。
「私は君のような自殺はできない
死よりも、生きる責任の強さのために、
よし、たといその生が
死より惨めなものであっても」
小熊がこの詩を書いたのは1933年(昭和8年)9月、1930年のマヤコフスキーの自殺から3年余りが過ぎてからのことだった。この詩が書かれた同年の2月小林多喜二が東京で検挙され虐殺されている。
当時日本では、マヤコフスキーの詩がロシア語から日本語へと翻訳されていなかった。では、なぜ小熊秀雄はマヤコフスキーの詩を理解し、その死に対するこのような強い意志を込めた詩を書けたのか?
小熊秀雄の童話「焼かれた魚」を大正13年(1924年)に雑誌「愛国婦人」に掲載したのは、当時この雑誌の編集を行っていた湯浅芳子だった。小熊と湯浅芳子はこの童話掲載を契機に、この年と翌年にも、旭川から上京していた小熊と会っている。
湯浅芳子は、この後の昭和2年、作家宮本百合子(当時は中條百合子)と共にロシアへ留学し3年間を過ごす。
ロシア留学中の昭和3年(1928年)、湯浅と宮本は旅先のレニングラードのホテルで憧れの作家ゴーリキーに会見する。
また、留学最後の年である昭和5年(1930年)4月には、モスクワでマヤコフスキーの自殺の報を聞き、二人は彼の告別式に参加する。
この時のゴーリキー会見とマヤコフスキーの自殺と告別式の様子は、宮本百合子が後年、長編小説「道標」で書いている。ゴーリキー会見はもちろん、マヤコフスキーの告別式の様子は、「道標」の中でも特に印象的な描写となっている。
湯浅芳子には、マヤコフスキーの死に関する直接の文章は残されていない。しかし、帰国後に、すでに旭川から東京へ移り住んでいた詩人小熊秀雄と出会った時、湯浅がロシア滞在中にマヤコフスキーの死と告別式に立ち会った事実を伝えなかったはずはない。
湯浅芳子は、小熊が亡くなった時の追悼文で次の事実を書き残している。
「私がマヤコフスキーの詩集を出してきてその中の一篇を直訳すると、あなたがそばからそれを詩らしく直して云ってなかなか楽しかった」
(「小熊さん」現代文学1935年小熊秀雄追悼号)
湯浅と小熊の二人に交わされた友情の証、そしてロシア文学がその友情を結ぶ大きな要因となっていことが、ここに示されている。
湯浅と小熊には、マヤコフスキーだけではなくプーシキンの詩についても同じようなことが行われ、一冊のノートにまとめられた。しかし、残念なことに、その後、友人たちの間を回覧されているうちに、そのノートは見失われた。
小熊に
「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩を書かせた原動力は、やはり湯浅芳子だった。もちろん、そう書かれた文章は誰の手によっても残されてはいない。しかし、私を強く揺さぶり続けた一篇の詩は、このようにして、小熊と湯浅の友情の末に生まれたという確信が、長い時間を経て、今の私に生まれている。
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2009/9/22
湯浅芳子 文学
湯浅芳子という女性のことを知った最初は、小熊秀雄の年譜に数回その名が記されていることからだった。
創樹社版小熊全集の年譜によると、二人が出会った最初は、大正14年(1925年)。湯浅が編集者として勤めていた「愛国婦人」に童話「焼かれた魚」が掲載されたこと、さらに昭和14年に湯浅が口訳し小熊が即興で詩に仕立てたプーシキン訳が完成したとある。(この年譜にはいくつかの間違いがあり、彼等はこの年譜に記載されていない時期にも会っている。事実は、この稿とは別にお伝えする)
湯浅芳子は、1896年(明治29年)、京都生まれ。上京して「愛国婦人」の編集に従事しながらロシア語を学ぶ。野上弥生子の紹介で、作家中条百合子と出会い、1924年から(大正13年)から百合子と共同生活を送り、1927年から1930年にかけて二人でソビエトで生活した。帰国後、宮本百合子は湯浅とは別れ宮本顕治と再婚、湯浅とは縁を切る。
湯浅は、その後、ロシア・ソビエト文学の翻訳に打ち込み、現在まで読み継がれる名訳を残している。
私は、この数年、湯浅のことを徹底的に調べようと思った。
主なものは、次のようなものだった。
瀬戸内晴美「孤高の人」、沢部仁美「百合子.ダスビダーニャ-湯浅芳子の青春」、湯浅芳子「百合子の手紙」、宮本百合子全集第26巻、宮本百合子「二つの庭」「伸子」「道標」、湯浅芳子の翻訳チエーホフ「妻への手紙」「退屈な話」「ゴーリキー全集」ツルゲーネフ「処女地」シチェードリン「ゴロヴリヨフ家の人々」
浮かび上がるのは、明治の女性としては珍しいほどの強い個性、人への愛着だった。特に彼女自身の二つのエッセイ「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」にそれがよく表れている。
それにしても、湯浅芳子の中条百合子、後の宮本百合子という同性への愛憎の深さにはつくづく驚かされた。そして、革命後のソビエトへ二人だけで行き3年を共に暮らす大胆さ・・。
湯浅芳子に詩人小熊秀雄を回想した文章がある。
一つは、昭和15年11月に小熊が亡くなった直後に出た「現代文学追悼号」に掲載された
「小熊さん」
という文章である。この「現代文学追悼号」には、小熊の近くにいた友人たちの友情に溢れる文章がいくつも掲載されているが、女性はただ一人湯浅芳子だけであり、しかもその文章は男と女を越えた深い友情と哀惜に満ちたものだった。
「その死にあってもう一度会いたかったのにと思うひとはそう滅多にはいないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに会いたかった。
半生は満足するほど負けたから
残りの半生を満腹するほど勝ちたい
と歌うあなたに、せめてもう十年生きていて貰いたかった」
詩人は、残された詩だけを読んでいればいいのだろう。しかし、日本の知性を代表するといってもいい湯浅芳子という女性にここまで書かせた詩人と徹底してかかわっていこうと私に思わせたのは湯浅芳子である。
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創樹社版小熊全集の年譜によると、二人が出会った最初は、大正14年(1925年)。湯浅が編集者として勤めていた「愛国婦人」に童話「焼かれた魚」が掲載されたこと、さらに昭和14年に湯浅が口訳し小熊が即興で詩に仕立てたプーシキン訳が完成したとある。(この年譜にはいくつかの間違いがあり、彼等はこの年譜に記載されていない時期にも会っている。事実は、この稿とは別にお伝えする)
湯浅芳子は、1896年(明治29年)、京都生まれ。上京して「愛国婦人」の編集に従事しながらロシア語を学ぶ。野上弥生子の紹介で、作家中条百合子と出会い、1924年から(大正13年)から百合子と共同生活を送り、1927年から1930年にかけて二人でソビエトで生活した。帰国後、宮本百合子は湯浅とは別れ宮本顕治と再婚、湯浅とは縁を切る。
湯浅は、その後、ロシア・ソビエト文学の翻訳に打ち込み、現在まで読み継がれる名訳を残している。
私は、この数年、湯浅のことを徹底的に調べようと思った。
主なものは、次のようなものだった。
瀬戸内晴美「孤高の人」、沢部仁美「百合子.ダスビダーニャ-湯浅芳子の青春」、湯浅芳子「百合子の手紙」、宮本百合子全集第26巻、宮本百合子「二つの庭」「伸子」「道標」、湯浅芳子の翻訳チエーホフ「妻への手紙」「退屈な話」「ゴーリキー全集」ツルゲーネフ「処女地」シチェードリン「ゴロヴリヨフ家の人々」
浮かび上がるのは、明治の女性としては珍しいほどの強い個性、人への愛着だった。特に彼女自身の二つのエッセイ「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」にそれがよく表れている。
それにしても、湯浅芳子の中条百合子、後の宮本百合子という同性への愛憎の深さにはつくづく驚かされた。そして、革命後のソビエトへ二人だけで行き3年を共に暮らす大胆さ・・。
湯浅芳子に詩人小熊秀雄を回想した文章がある。
一つは、昭和15年11月に小熊が亡くなった直後に出た「現代文学追悼号」に掲載された
「小熊さん」
という文章である。この「現代文学追悼号」には、小熊の近くにいた友人たちの友情に溢れる文章がいくつも掲載されているが、女性はただ一人湯浅芳子だけであり、しかもその文章は男と女を越えた深い友情と哀惜に満ちたものだった。
「その死にあってもう一度会いたかったのにと思うひとはそう滅多にはいないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに会いたかった。
半生は満足するほど負けたから
残りの半生を満腹するほど勝ちたい
と歌うあなたに、せめてもう十年生きていて貰いたかった」
詩人は、残された詩だけを読んでいればいいのだろう。しかし、日本の知性を代表するといってもいい湯浅芳子という女性にここまで書かせた詩人と徹底してかかわっていこうと私に思わせたのは湯浅芳子である。
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2009/8/22
小熊とプーシキン 文学

2009年7月、サハリン(旧−樺太)へ旅をした。主な目的は、小熊が少年時代の十年余りを過ごしたトマリ(泊居)を訪ねることだった。
旅の二日目に、ユジノサハリンスクで図書館を訪ねた。ここでは、私と同行した中本信幸さんの友人であるロシア人アナトーリー・マモーノフによる
「ロシア語訳小熊秀雄詩集」
「日本におけるプーシキン」
という二冊の本を見せて頂いた。図書館の女性に、ロシア語訳小熊詩集から
「マヤコフスキーの舌にかわって」
「馬車の出発の歌」
の二つの詩を朗読して頂いた。小熊の詩をロシア語の朗読で聞いた感動は大きかった。
帰国後、小熊とロシア文学について詳細に調べ始めた。小熊をより深く理解するためには、ロシア文学を避けてはならないことを痛切に感じたのである。彼は、プーシキン・トルストイ・ドストエフスキーはもちろん、マヤコスフスキー・エセーニン・そしてチェーホフも読んでいた。
また、マモーノフの「日本におけるプーシキン」の一部を翻訳した
「プーシキンと詩人・小熊秀雄」(沓澤章俊訳)
を読んだ。小熊という詩人をよく理解した優れた論文である。
さらに、小熊自身の書いたプーシキン論
「日本のプーシキニストの一人として」
「プーシキン再認識」
「愛国的と進歩的といふことに就て」
「詩聖プーシキンに就いて」
などに目を通した。昇曙夢、湯浅芳子等のロシア文学者と小熊秀雄との関連も含めて、小熊のロシア文学からの影響は、想像以上に大きい。
最近、岩波文庫「プーシキン詩集」を読んでいた。ふと次の詩の一節に目がとまった。
「日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。
こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとのよのなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる。」
私のこころに、深く響く何かがある。そしてどこかで、このフレーズを聞いた気がする。すぐに思いだした。
「阿弥陀堂だより」(南木佳士原作、小泉尭監督作品)
という映画の一シーンで朗読されたものだった。
小熊秀雄の詩魂は、彼がかつて住んだサハリン、ロシア、そしてプーシキンにつながる。そして、プーシキンは日本映画の素晴らしい一シーンにつながっていた。
私は、当分、ロシア文学から離れられそうもない。
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2009/7/3
小熊秀雄の樺太 文学
詩人小熊秀雄が少年時代を過ごした樺太。その時代を歌った詩として明確になっているのは三篇だけである。
その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る
「白い夜」
という詩がある。その中に、次のような表現がある。
「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」
樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ
「泊居」(トマリ)
という西海岸にある小さな町である。
まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。
しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の
「水銀のような光り」
を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。
小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。
樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。
アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に
「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」
この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。
やはり、樺太を舞台とした詩
「トンボは北へ、私は南へ」
という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。
「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」
大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。
なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり
「小熊秀雄」
として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。
我々が、当然のようにして受け止めている
「小熊秀雄」
という名は、彼の前半生では
「三木秀雄」
であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。
樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。
私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。
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その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る
「白い夜」
という詩がある。その中に、次のような表現がある。
「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」
樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ
「泊居」(トマリ)
という西海岸にある小さな町である。
まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。
しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の
「水銀のような光り」
を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。
小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。
樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。
アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に
「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」
この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。
やはり、樺太を舞台とした詩
「トンボは北へ、私は南へ」
という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。
「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」
大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。
なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり
「小熊秀雄」
として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。
我々が、当然のようにして受け止めている
「小熊秀雄」
という名は、彼の前半生では
「三木秀雄」
であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。
樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。
私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。
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2009/6/23
アカシアの街に寄す 文学
詩人小熊秀雄は、昭和13年(1937年)6月、十年ぶりの旭川への帰省の後、札幌を訪れた。旭川時代の友人で北海タイムス記者である中家金太郎の誘いを受けたものである。
小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。
つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。
この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは
「札幌詠草」
として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、
「時計台」
「大通り公園」
「北大構内」
「藻岩山」
は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。
大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、
「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」
と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。
しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が
「鉄の将軍」
と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。
今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。
この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。
北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。
この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。
屈辱的な話である。
小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では
「北大構内にて」
という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。
この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。
札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。
「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」
まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。
次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。
特別展「アイヌ口承文学の世界」
で、さまざまな刺激を受けた。
その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。
帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。
一つは
「札幌市地図復刻版-昭和11年版」
だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。
さらに、
「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)
という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。
なぜ半額なのかは分からない。
本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。
帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた
「アカシアの街に寄す」
という文章を読んだ。
十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。
その最後に、札幌を小熊はこう語っている。
「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」
小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。
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小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。
つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。
この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは
「札幌詠草」
として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、
「時計台」
「大通り公園」
「北大構内」
「藻岩山」
は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。
大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、
「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」
と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。
しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が
「鉄の将軍」
と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。
今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。
この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。
北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。
この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。
屈辱的な話である。
小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では
「北大構内にて」
という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。
この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。
札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。
「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」
まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。
次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。
特別展「アイヌ口承文学の世界」
で、さまざまな刺激を受けた。
その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。
帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。
一つは
「札幌市地図復刻版-昭和11年版」
だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。
さらに、
「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)
という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。
なぜ半額なのかは分からない。
本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。
帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた
「アカシアの街に寄す」
という文章を読んだ。
十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。
その最後に、札幌を小熊はこう語っている。
「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」
小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。
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