2009/10/5 15:09
小熊秀雄とマヤコフスキー 文学
詩人小熊秀雄の詩に
「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩がある。
マヤコフスキー(1893〜1930)は、ロシアの詩人である。グルジアの寒村に生まれた彼は、19歳で未来派の中心的詩人となる。やがて、1917年のロシア革命を迎え「芸術左翼戦線」を結成。代表作には「ズボンをはいた雲」「背骨のフリュート」など。しかし、ロシア革命による再編成期にさしかかったレーニン死後の文壇左右両翼からの風当たりが強く、これに恋愛の挫折感を加え、1930年(昭和5年)4月14日、マヤコフスキーは遺書を残してモスクワで拳銃自殺した。
この自殺に反応した日本の詩人で唯一人、マヤコフスキーへの詩を残したのが小熊秀雄だった。私は、この詩の最後の四行込められた小熊の激しくも鮮烈な詩精神に、青年の頃から、心を揺さぶられ続けてきた。
「私は君のような自殺はできない
死よりも、生きる責任の強さのために、
よし、たといその生が
死より惨めなものであっても」
小熊がこの詩を書いたのは1933年(昭和8年)9月、1930年のマヤコフスキーの自殺から3年余りが過ぎてからのことだった。この詩が書かれた同年の2月小林多喜二が東京で検挙され虐殺されている。
当時日本では、マヤコフスキーの詩がロシア語から日本語へと翻訳されていなかった。では、なぜ小熊秀雄はマヤコフスキーの詩を理解し、その死に対するこのような強い意志を込めた詩を書けたのか?
小熊秀雄の童話「焼かれた魚」を大正13年(1924年)に雑誌「愛国婦人」に掲載したのは、当時この雑誌の編集を行っていた湯浅芳子だった。小熊と湯浅芳子はこの童話掲載を契機に、この年と翌年にも、旭川から上京していた小熊と会っている。
湯浅芳子は、この後の昭和2年、作家宮本百合子(当時は中條百合子)と共にロシアへ留学し3年間を過ごす。
ロシア留学中の昭和3年(1928年)、湯浅と宮本は旅先のレニングラードのホテルで憧れの作家ゴーリキーに会見する。
また、留学最後の年である昭和5年(1930年)4月には、モスクワでマヤコフスキーの自殺の報を聞き、二人は彼の告別式に参加する。
この時のゴーリキー会見とマヤコフスキーの自殺と告別式の様子は、宮本百合子が後年、長編小説「道標」で書いている。ゴーリキー会見はもちろん、マヤコフスキーの告別式の様子は、「道標」の中でも特に印象的な描写となっている。
湯浅芳子には、マヤコフスキーの死に関する直接の文章は残されていない。しかし、帰国後に、すでに旭川から東京へ移り住んでいた詩人小熊秀雄と出会った時、湯浅がロシア滞在中にマヤコフスキーの死と告別式に立ち会った事実を伝えなかったはずはない。
湯浅芳子は、小熊が亡くなった時の追悼文で次の事実を書き残している。
「私がマヤコフスキーの詩集を出してきてその中の一篇を直訳すると、あなたがそばからそれを詩らしく直して云ってなかなか楽しかった」
(「小熊さん」現代文学1935年小熊秀雄追悼号)
湯浅と小熊の二人に交わされた友情の証、そしてロシア文学がその友情を結ぶ大きな要因となっていことが、ここに示されている。
湯浅と小熊には、マヤコフスキーだけではなくプーシキンの詩についても同じようなことが行われ、一冊のノートにまとめられた。しかし、残念なことに、その後、友人たちの間を回覧されているうちに、そのノートは見失われた。
小熊に
「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩を書かせた原動力は、やはり湯浅芳子だった。もちろん、そう書かれた文章は誰の手によっても残されてはいない。しかし、私を強く揺さぶり続けた一篇の詩は、このようにして、小熊と湯浅の友情の末に生まれたという確信が、長い時間を経て、今の私に生まれている。
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「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩がある。
マヤコフスキー(1893〜1930)は、ロシアの詩人である。グルジアの寒村に生まれた彼は、19歳で未来派の中心的詩人となる。やがて、1917年のロシア革命を迎え「芸術左翼戦線」を結成。代表作には「ズボンをはいた雲」「背骨のフリュート」など。しかし、ロシア革命による再編成期にさしかかったレーニン死後の文壇左右両翼からの風当たりが強く、これに恋愛の挫折感を加え、1930年(昭和5年)4月14日、マヤコフスキーは遺書を残してモスクワで拳銃自殺した。
この自殺に反応した日本の詩人で唯一人、マヤコフスキーへの詩を残したのが小熊秀雄だった。私は、この詩の最後の四行込められた小熊の激しくも鮮烈な詩精神に、青年の頃から、心を揺さぶられ続けてきた。
「私は君のような自殺はできない
死よりも、生きる責任の強さのために、
よし、たといその生が
死より惨めなものであっても」
小熊がこの詩を書いたのは1933年(昭和8年)9月、1930年のマヤコフスキーの自殺から3年余りが過ぎてからのことだった。この詩が書かれた同年の2月小林多喜二が東京で検挙され虐殺されている。
当時日本では、マヤコフスキーの詩がロシア語から日本語へと翻訳されていなかった。では、なぜ小熊秀雄はマヤコフスキーの詩を理解し、その死に対するこのような強い意志を込めた詩を書けたのか?
小熊秀雄の童話「焼かれた魚」を大正13年(1924年)に雑誌「愛国婦人」に掲載したのは、当時この雑誌の編集を行っていた湯浅芳子だった。小熊と湯浅芳子はこの童話掲載を契機に、この年と翌年にも、旭川から上京していた小熊と会っている。
湯浅芳子は、この後の昭和2年、作家宮本百合子(当時は中條百合子)と共にロシアへ留学し3年間を過ごす。
ロシア留学中の昭和3年(1928年)、湯浅と宮本は旅先のレニングラードのホテルで憧れの作家ゴーリキーに会見する。
また、留学最後の年である昭和5年(1930年)4月には、モスクワでマヤコフスキーの自殺の報を聞き、二人は彼の告別式に参加する。
この時のゴーリキー会見とマヤコフスキーの自殺と告別式の様子は、宮本百合子が後年、長編小説「道標」で書いている。ゴーリキー会見はもちろん、マヤコフスキーの告別式の様子は、「道標」の中でも特に印象的な描写となっている。
湯浅芳子には、マヤコフスキーの死に関する直接の文章は残されていない。しかし、帰国後に、すでに旭川から東京へ移り住んでいた詩人小熊秀雄と出会った時、湯浅がロシア滞在中にマヤコフスキーの死と告別式に立ち会った事実を伝えなかったはずはない。
湯浅芳子は、小熊が亡くなった時の追悼文で次の事実を書き残している。
「私がマヤコフスキーの詩集を出してきてその中の一篇を直訳すると、あなたがそばからそれを詩らしく直して云ってなかなか楽しかった」
(「小熊さん」現代文学1935年小熊秀雄追悼号)
湯浅と小熊の二人に交わされた友情の証、そしてロシア文学がその友情を結ぶ大きな要因となっていことが、ここに示されている。
湯浅と小熊には、マヤコフスキーだけではなくプーシキンの詩についても同じようなことが行われ、一冊のノートにまとめられた。しかし、残念なことに、その後、友人たちの間を回覧されているうちに、そのノートは見失われた。
小熊に
「マヤコフスキーの舌にかわって」
という詩を書かせた原動力は、やはり湯浅芳子だった。もちろん、そう書かれた文章は誰の手によっても残されてはいない。しかし、私を強く揺さぶり続けた一篇の詩は、このようにして、小熊と湯浅の友情の末に生まれたという確信が、長い時間を経て、今の私に生まれている。
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2009/9/22 8:41
湯浅芳子 文学
湯浅芳子という女性のことを知った最初は、小熊秀雄の年譜に数回その名が記されていることからだった。
創樹社版小熊全集の年譜によると、二人が出会った最初は、大正14年(1925年)。湯浅が編集者として勤めていた「愛国婦人」に童話「焼かれた魚」が掲載されたこと、さらに昭和14年に湯浅が口訳し小熊が即興で詩に仕立てたプーシキン訳が完成したとある。(この年譜にはいくつかの間違いがあり、彼等はこの年譜に記載されていない時期にも会っている。事実は、この稿とは別にお伝えする)
湯浅芳子は、1896年(明治29年)、京都生まれ。上京して「愛国婦人」の編集に従事しながらロシア語を学ぶ。野上弥生子の紹介で、作家中条百合子と出会い、1924年から(大正13年)から百合子と共同生活を送り、1927年から1930年にかけて二人でソビエトで生活した。帰国後、宮本百合子は湯浅とは別れ宮本顕治と再婚、湯浅とは縁を切る。
湯浅は、その後、ロシア・ソビエト文学の翻訳に打ち込み、現在まで読み継がれる名訳を残している。
私は、この数年、湯浅のことを徹底的に調べようと思った。
主なものは、次のようなものだった。
瀬戸内晴美「孤高の人」、沢部仁美「百合子.ダスビダーニャ-湯浅芳子の青春」、湯浅芳子「百合子の手紙」、宮本百合子全集第26巻、宮本百合子「二つの庭」「伸子」「道標」、湯浅芳子の翻訳チエーホフ「妻への手紙」「退屈な話」「ゴーリキー全集」ツルゲーネフ「処女地」シチェードリン「ゴロヴリヨフ家の人々」
浮かび上がるのは、明治の女性としては珍しいほどの強い個性、人への愛着だった。特に彼女自身の二つのエッセイ「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」にそれがよく表れている。
それにしても、湯浅芳子の中条百合子、後の宮本百合子という同性への愛憎の深さにはつくづく驚かされた。そして、革命後のソビエトへ二人だけで行き3年を共に暮らす大胆さ・・。
湯浅芳子に詩人小熊秀雄を回想した文章がある。
一つは、昭和15年11月に小熊が亡くなった直後に出た「現代文学追悼号」に掲載された
「小熊さん」
という文章である。この「現代文学追悼号」には、小熊の近くにいた友人たちの友情に溢れる文章がいくつも掲載されているが、女性はただ一人湯浅芳子だけであり、しかもその文章は男と女を越えた深い友情と哀惜に満ちたものだった。
「その死にあってもう一度会いたかったのにと思うひとはそう滅多にはいないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに会いたかった。
半生は満足するほど負けたから
残りの半生を満腹するほど勝ちたい
と歌うあなたに、せめてもう十年生きていて貰いたかった」
詩人は、残された詩だけを読んでいればいいのだろう。しかし、日本の知性を代表するといってもいい湯浅芳子という女性にここまで書かせた詩人と徹底してかかわっていこうと私に思わせたのは湯浅芳子である。
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創樹社版小熊全集の年譜によると、二人が出会った最初は、大正14年(1925年)。湯浅が編集者として勤めていた「愛国婦人」に童話「焼かれた魚」が掲載されたこと、さらに昭和14年に湯浅が口訳し小熊が即興で詩に仕立てたプーシキン訳が完成したとある。(この年譜にはいくつかの間違いがあり、彼等はこの年譜に記載されていない時期にも会っている。事実は、この稿とは別にお伝えする)
湯浅芳子は、1896年(明治29年)、京都生まれ。上京して「愛国婦人」の編集に従事しながらロシア語を学ぶ。野上弥生子の紹介で、作家中条百合子と出会い、1924年から(大正13年)から百合子と共同生活を送り、1927年から1930年にかけて二人でソビエトで生活した。帰国後、宮本百合子は湯浅とは別れ宮本顕治と再婚、湯浅とは縁を切る。
湯浅は、その後、ロシア・ソビエト文学の翻訳に打ち込み、現在まで読み継がれる名訳を残している。
私は、この数年、湯浅のことを徹底的に調べようと思った。
主なものは、次のようなものだった。
瀬戸内晴美「孤高の人」、沢部仁美「百合子.ダスビダーニャ-湯浅芳子の青春」、湯浅芳子「百合子の手紙」、宮本百合子全集第26巻、宮本百合子「二つの庭」「伸子」「道標」、湯浅芳子の翻訳チエーホフ「妻への手紙」「退屈な話」「ゴーリキー全集」ツルゲーネフ「処女地」シチェードリン「ゴロヴリヨフ家の人々」
浮かび上がるのは、明治の女性としては珍しいほどの強い個性、人への愛着だった。特に彼女自身の二つのエッセイ「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」にそれがよく表れている。
それにしても、湯浅芳子の中条百合子、後の宮本百合子という同性への愛憎の深さにはつくづく驚かされた。そして、革命後のソビエトへ二人だけで行き3年を共に暮らす大胆さ・・。
湯浅芳子に詩人小熊秀雄を回想した文章がある。
一つは、昭和15年11月に小熊が亡くなった直後に出た「現代文学追悼号」に掲載された
「小熊さん」
という文章である。この「現代文学追悼号」には、小熊の近くにいた友人たちの友情に溢れる文章がいくつも掲載されているが、女性はただ一人湯浅芳子だけであり、しかもその文章は男と女を越えた深い友情と哀惜に満ちたものだった。
「その死にあってもう一度会いたかったのにと思うひとはそう滅多にはいないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに会いたかった。
半生は満足するほど負けたから
残りの半生を満腹するほど勝ちたい
と歌うあなたに、せめてもう十年生きていて貰いたかった」
詩人は、残された詩だけを読んでいればいいのだろう。しかし、日本の知性を代表するといってもいい湯浅芳子という女性にここまで書かせた詩人と徹底してかかわっていこうと私に思わせたのは湯浅芳子である。
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2009/8/22 4:53
小熊とプーシキン 文学

2009年7月、サハリン(旧−樺太)へ旅をした。主な目的は、小熊が少年時代の十年余りを過ごしたトマリ(泊居)を訪ねることだった。
旅の二日目に、ユジノサハリンスクで図書館を訪ねた。ここでは、私と同行した中本信幸さんの友人であるロシア人アナトーリー・マモーノフによる
「ロシア語訳小熊秀雄詩集」
「日本におけるプーシキン」
という二冊の本を見せて頂いた。図書館の女性に、ロシア語訳小熊詩集から
「マヤコフスキーの舌にかわって」
「馬車の出発の歌」
の二つの詩を朗読して頂いた。小熊の詩をロシア語の朗読で聞いた感動は大きかった。
帰国後、小熊とロシア文学について詳細に調べ始めた。小熊をより深く理解するためには、ロシア文学を避けてはならないことを痛切に感じたのである。彼は、プーシキン・トルストイ・ドストエフスキーはもちろん、マヤコスフスキー・エセーニン・そしてチェーホフも読んでいた。
また、マモーノフの「日本におけるプーシキン」の一部を翻訳した
「プーシキンと詩人・小熊秀雄」(沓澤章俊訳)
を読んだ。小熊という詩人をよく理解した優れた論文である。
さらに、小熊自身の書いたプーシキン論
「日本のプーシキニストの一人として」
「プーシキン再認識」
「愛国的と進歩的といふことに就て」
「詩聖プーシキンに就いて」
などに目を通した。昇曙夢、湯浅芳子等のロシア文学者と小熊秀雄との関連も含めて、小熊のロシア文学からの影響は、想像以上に大きい。
最近、岩波文庫「プーシキン詩集」を読んでいた。ふと次の詩の一節に目がとまった。
「日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。
こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとのよのなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる。」
私のこころに、深く響く何かがある。そしてどこかで、このフレーズを聞いた気がする。すぐに思いだした。
「阿弥陀堂だより」(南木佳士原作、小泉尭監督作品)
という映画の一シーンで朗読されたものだった。
小熊秀雄の詩魂は、彼がかつて住んだサハリン、ロシア、そしてプーシキンにつながる。そして、プーシキンは日本映画の素晴らしい一シーンにつながっていた。
私は、当分、ロシア文学から離れられそうもない。
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2009/7/3 9:03
小熊秀雄の樺太 文学
詩人小熊秀雄が少年時代を過ごした樺太。その時代を歌った詩として明確になっているのは三篇だけである。
その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る
「白い夜」
という詩がある。その中に、次のような表現がある。
「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」
樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ
「泊居」(トマリ)
という西海岸にある小さな町である。
まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。
しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の
「水銀のような光り」
を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。
小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。
樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。
アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に
「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」
この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。
やはり、樺太を舞台とした詩
「トンボは北へ、私は南へ」
という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。
「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」
大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。
なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり
「小熊秀雄」
として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。
我々が、当然のようにして受け止めている
「小熊秀雄」
という名は、彼の前半生では
「三木秀雄」
であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。
樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。
私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。
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その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る
「白い夜」
という詩がある。その中に、次のような表現がある。
「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」
樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ
「泊居」(トマリ)
という西海岸にある小さな町である。
まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。
しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の
「水銀のような光り」
を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。
小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。
樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。
アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に
「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」
この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。
やはり、樺太を舞台とした詩
「トンボは北へ、私は南へ」
という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。
「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」
大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。
なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり
「小熊秀雄」
として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。
我々が、当然のようにして受け止めている
「小熊秀雄」
という名は、彼の前半生では
「三木秀雄」
であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。
樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。
私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。
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2009/6/23 6:49
アカシアの街に寄す 文学
詩人小熊秀雄は、昭和13年(1937年)6月、十年ぶりの旭川への帰省の後、札幌を訪れた。旭川時代の友人で北海タイムス記者である中家金太郎の誘いを受けたものである。
小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。
つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。
この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは
「札幌詠草」
として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、
「時計台」
「大通り公園」
「北大構内」
「藻岩山」
は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。
大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、
「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」
と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。
しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が
「鉄の将軍」
と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。
今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。
この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。
北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。
この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。
屈辱的な話である。
小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では
「北大構内にて」
という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。
この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。
札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。
「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」
まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。
次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。
特別展「アイヌ口承文学の世界」
で、さまざまな刺激を受けた。
その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。
帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。
一つは
「札幌市地図復刻版-昭和11年版」
だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。
さらに、
「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)
という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。
なぜ半額なのかは分からない。
本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。
帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた
「アカシアの街に寄す」
という文章を読んだ。
十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。
その最後に、札幌を小熊はこう語っている。
「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」
小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。
5
小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。
つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。
この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは
「札幌詠草」
として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、
「時計台」
「大通り公園」
「北大構内」
「藻岩山」
は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。
大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、
「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」
と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。
しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が
「鉄の将軍」
と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。
今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。
この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。
北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。
この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。
屈辱的な話である。
小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では
「北大構内にて」
という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。
この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。
札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。
「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」
まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。
次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。
特別展「アイヌ口承文学の世界」
で、さまざまな刺激を受けた。
その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。
帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。
一つは
「札幌市地図復刻版-昭和11年版」
だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。
さらに、
「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)
という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。
なぜ半額なのかは分からない。
本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。
帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた
「アカシアの街に寄す」
という文章を読んだ。
十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。
その最後に、札幌を小熊はこう語っている。
「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」
小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。
5
2009/6/19 9:23
詩人菊岡久利-小熊の友たち-1 文学
2009年3月11日、東京への旅に出ていた私は、大学時代の友人と鎌倉で会った。彼と話をしながら、大町、釈迦堂切通し、小町と歩いて最終地点の寿福寺を訪れた。
寿福寺の参道で、そこに墓のある人名の書いてあるプレートを見ていると
「菊岡久利」
という名が目に入った。
彼は詩人である。しかし、その名を知る人は少ない。私は、旅の目的である詩人小熊秀雄の友だったということだけで彼の名を知っていた。友にも聞いてみると、文学の好きな彼でさえ菊岡久利の名を認識していなかった。
しかし、私がかつて住んでいた鎌倉で、しかも、数年ぶりに偶然に訪れた寿福寺で菊岡
久利の墓に巡り合うということは、小熊を通した何か大きな縁があると思った。
私が、菊岡を知ったのは小熊の死後の昭和15年12月に出た「現代文学-小熊秀雄追悼号」という雑誌の
「白樺の俗謡」
という追悼文を読んだことによる。菊岡は、近しい友を失った悲しみを、情に流れない豪放な筆致で描き、印象的な詩を書いている。白樺というタイトルは、小熊の出身地である北海道を意識したものだろう。
旅が終わり、北海道へ戻って、私は文学辞典で菊岡久利の項を調べた。
菊岡久利(きくおかくり) 1909〜1970
詩人。本名高木陸奥男。青森生まれ。少年時代から社会運動に関心を寄せる。詩集に「貧時交」「時の玩具」「見える天使」があり、戯曲に「野鴨は野鴨」。詩は、野性的なエネルギーの横溢に特色があり、日常的な言葉を駆使し解放的な詩風である。
その後、私は、彼の三冊の詩集の復刻版を手に入れた。
昭和13年12月に出版された「時の玩具」のなかに
「色の衣裳」
という詩がある。この詩は、旅をしている青年が、下関に近づく列車の中で出会った朝鮮人の父と少女のことを書いたものである。
青年は、その少女の異国的な雰囲気の美しさに目を奪われる。しかし、それは一時の事であり少女と言葉さえ交わすことなく別れざるを得ない。
この詩は、その時の朝鮮の少女の印象を描いた美しい詩だった。野性的でも、解放的でもない、菊岡の繊細で詩的な感情がここに表現されている。
さらに発見があった。
昭和15年3月、作家壷井栄が小説「暦」を出版し、その出版記念会が新宿寶亭で行われた。その際の記念写真に数多くの人々と共に、詩人小熊秀雄と菊岡久利が写っている。
主役だった壷井栄はもちろん、夫の壷井繁治、深尾須磨子、宮本百合子、佐多稲子、中野重治、秋田雨雀、原泉、高見順、平野謙らの友人も写っている。なんと、興味深い豪華なメンバーの集まりだろう。
写真の小熊は頬がこけ、見るからに死が迫っていることを感じさせる。旭川時代の精悍な若者の雰囲気はすでにどこにもない。
その中で、菊岡久利は堂々とした体躯、豪放な面構えをして立っている。詩人というよりはスポーツ選手のような風体である。
おそらく、小熊と菊岡が同じ写真に収まったのはこれが初めてで最後ではないかと思われる。
その後も、菊岡の人生を調べた。詩からは離れ、新宿で隆盛を誇った
「ムーランルージュ」
脚本部で活躍していたこともあるらしい。
その後、菊岡は、東京四谷の住まいから、鎌倉へ移り住んだ。妻が、小町通りに「社頭」という和紙専門店を開き、今も、菊岡の娘二人が引き続きこの店をやっていることも突き止めた。
私は1990年代初頭に、鎌倉に4年ほど住んだ。この「社頭」という店で買い物をしたこともあった。しかし、この店が小熊秀雄の友であった菊岡久利の妻が経営していた店であることを知らなかった。
詩人小熊秀雄の人生を調べるということは、その周辺の、知られざる友たちの人生を知ることでもある。
7
寿福寺の参道で、そこに墓のある人名の書いてあるプレートを見ていると
「菊岡久利」
という名が目に入った。
彼は詩人である。しかし、その名を知る人は少ない。私は、旅の目的である詩人小熊秀雄の友だったということだけで彼の名を知っていた。友にも聞いてみると、文学の好きな彼でさえ菊岡久利の名を認識していなかった。
しかし、私がかつて住んでいた鎌倉で、しかも、数年ぶりに偶然に訪れた寿福寺で菊岡
久利の墓に巡り合うということは、小熊を通した何か大きな縁があると思った。
私が、菊岡を知ったのは小熊の死後の昭和15年12月に出た「現代文学-小熊秀雄追悼号」という雑誌の
「白樺の俗謡」
という追悼文を読んだことによる。菊岡は、近しい友を失った悲しみを、情に流れない豪放な筆致で描き、印象的な詩を書いている。白樺というタイトルは、小熊の出身地である北海道を意識したものだろう。
旅が終わり、北海道へ戻って、私は文学辞典で菊岡久利の項を調べた。
菊岡久利(きくおかくり) 1909〜1970
詩人。本名高木陸奥男。青森生まれ。少年時代から社会運動に関心を寄せる。詩集に「貧時交」「時の玩具」「見える天使」があり、戯曲に「野鴨は野鴨」。詩は、野性的なエネルギーの横溢に特色があり、日常的な言葉を駆使し解放的な詩風である。
その後、私は、彼の三冊の詩集の復刻版を手に入れた。
昭和13年12月に出版された「時の玩具」のなかに
「色の衣裳」
という詩がある。この詩は、旅をしている青年が、下関に近づく列車の中で出会った朝鮮人の父と少女のことを書いたものである。
青年は、その少女の異国的な雰囲気の美しさに目を奪われる。しかし、それは一時の事であり少女と言葉さえ交わすことなく別れざるを得ない。
この詩は、その時の朝鮮の少女の印象を描いた美しい詩だった。野性的でも、解放的でもない、菊岡の繊細で詩的な感情がここに表現されている。
さらに発見があった。
昭和15年3月、作家壷井栄が小説「暦」を出版し、その出版記念会が新宿寶亭で行われた。その際の記念写真に数多くの人々と共に、詩人小熊秀雄と菊岡久利が写っている。
主役だった壷井栄はもちろん、夫の壷井繁治、深尾須磨子、宮本百合子、佐多稲子、中野重治、秋田雨雀、原泉、高見順、平野謙らの友人も写っている。なんと、興味深い豪華なメンバーの集まりだろう。
写真の小熊は頬がこけ、見るからに死が迫っていることを感じさせる。旭川時代の精悍な若者の雰囲気はすでにどこにもない。
その中で、菊岡久利は堂々とした体躯、豪放な面構えをして立っている。詩人というよりはスポーツ選手のような風体である。
おそらく、小熊と菊岡が同じ写真に収まったのはこれが初めてで最後ではないかと思われる。
その後も、菊岡の人生を調べた。詩からは離れ、新宿で隆盛を誇った
「ムーランルージュ」
脚本部で活躍していたこともあるらしい。
その後、菊岡は、東京四谷の住まいから、鎌倉へ移り住んだ。妻が、小町通りに「社頭」という和紙専門店を開き、今も、菊岡の娘二人が引き続きこの店をやっていることも突き止めた。
私は1990年代初頭に、鎌倉に4年ほど住んだ。この「社頭」という店で買い物をしたこともあった。しかし、この店が小熊秀雄の友であった菊岡久利の妻が経営していた店であることを知らなかった。
詩人小熊秀雄の人生を調べるということは、その周辺の、知られざる友たちの人生を知ることでもある。
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2009/6/9 9:03
歌人のこころに触れて 文学
古本屋へ行くたびに、手に取るけれど本棚へ戻す・・・。もちろん、自分には高価な本だからである。
しかし、1年、2年と時が過ぎても、誰にも買われることなく、そのままになっていることがある。
そんな本を、あることが契機となり、手に入れた。
歌人山名康郎(やまなやすろう)の
「冬の旗」
という歌集である。
山名康郎は、大正14年生まれで現在83歳。現役の歌人であり、現在北海道新聞日曜文芸
「北のうた」
というエッセイを担当している。北海道に関連あるうたの数々を取り上げながら、その歌人たちの歌の背景や人生まで踏み込む見事な文章である。
先日の「北のうた」(2009年6月7日)では、山名薫人、つまり本人の父の次の歌を取り上げている。
この谷の底ひに冷ゆる陽のいろの青白くしてこぶし咲くなり
谷底の太陽の光が陰り、白い辛夷が青みを帯びて見える光景を捉えている。この歌は、1979年、南富良野町のかなやま湖の湖畔展望台に歌碑が建てられたという。私は、その湖を訪ねたことがあるにも関わらず、この歌の存在さえ知らず、まだ見ていない。
私は、北海道新聞を購読していない。だが、ある方の好意でこの記事を見せて頂き、読むことが出来た。つまり、この記事を読んだことが、山名康郎「冬の旗」を手に入れる契機となった。父と子につながる歌のこころを明確に認識するために、どうしても、読む必要があると思った。
この歌の入った父山名薫人の歌集「山峡の湖」もいつか手に入れることができるだろう。
山名康郎の「冬の旗」を手に入れた後、帰り際に、別な本棚で、歌人斎藤史の
「ひたくれない」
という小型の美しい歌集を見つけた。数々の歌の最後に
つゆしぐれ信濃は秋の姨捨のわれを置きさり過ぎしものたち
という、私の愛する歌の入ったものだった。
結局、この斎藤史の歌集も手に入れて家へ帰った。
家で、じっくりと二冊の歌集を読んだ。山名康郎の「冬の旗」の後半に次の歌があった。
<信濃のひと 斎藤史さんを訪ふ>
激動の日を淡々と語りをり藍色のめがねときどきはずし
山の緑ひたひた胸をひたし来ぬあくがれ遠くこの信濃路に
こころ餓えていたる戦後に君のうた読みてより執し来し四十年
目に見えぬ世界を詠ひくれないにかがやく生を愉悦とするや
若き日の父のえにし訪ふひとは信濃の国の願人の姥
昭和2年3月、当時の旭川第七師団参謀長であり歌人だった斎藤瀏は、熊本への転勤が決まる。旭川の歌人たちはそれを惜しみ4条7丁目無尽会社楼上で送別会を行った。
その時の記念写真には、斎藤瀏はもちろん、娘の斎藤史、そして山名薫人、酒井広治、飯田佳吉、さらには当時旭川新聞記者だった小熊秀雄も写っている。彼らの間でどのような会話がなされたのか、その写真を見ながら私にはいろいろな想像が浮かぶ。
消え去った時が、この写真に残っている。また消え去った時が歌となって残っている。
かりそめの別れと思へど向かいいて寂しさついにきわまりにけり 酒井広治
歌によき霧華の街のうすぐもり春に先立ちいゆく人かな 小熊秀雄
深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別かるる時となりにけるかも 斎藤史
こよいがぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどいなるかも 斎藤瀏
残念ながら、山名薫人の歌がまだ確認できないが、彼は、この日旭川歌話会の幹事となった。
山名薫人と斎藤史は、こうして旭川で交流があった。この時点では、息子山名康郎は4歳であり、斎藤史への記憶はほとんどなかったと思われるが、後年彼は、こうして斎藤史をたずねて歌を詠んだ。
大正末期から昭和初期の旭川で出会った斎藤、山名の二組の父と子、そして康郎と史へと繋がる歌人たちを結ぶ心を、古本屋で得た二冊で知った日だった。
旭川歌話会-斎藤瀏、斎藤史送別歌会記念写真
昭和2年3月19日-旭川無尽会社楼上

一列目 左から三人目 斎藤史、四人目 斎藤瀏
二列目 左から三人目 小林幸太郎、六人目 酒井広治
三列目 左から六人目 飯田佳吉、七人目 鬼川俊蔵
四列目 左から四人目 山名薫人
最上段 右から二人目 小熊秀雄
0
しかし、1年、2年と時が過ぎても、誰にも買われることなく、そのままになっていることがある。
そんな本を、あることが契機となり、手に入れた。
歌人山名康郎(やまなやすろう)の
「冬の旗」
という歌集である。
山名康郎は、大正14年生まれで現在83歳。現役の歌人であり、現在北海道新聞日曜文芸
「北のうた」
というエッセイを担当している。北海道に関連あるうたの数々を取り上げながら、その歌人たちの歌の背景や人生まで踏み込む見事な文章である。
先日の「北のうた」(2009年6月7日)では、山名薫人、つまり本人の父の次の歌を取り上げている。
この谷の底ひに冷ゆる陽のいろの青白くしてこぶし咲くなり
谷底の太陽の光が陰り、白い辛夷が青みを帯びて見える光景を捉えている。この歌は、1979年、南富良野町のかなやま湖の湖畔展望台に歌碑が建てられたという。私は、その湖を訪ねたことがあるにも関わらず、この歌の存在さえ知らず、まだ見ていない。
私は、北海道新聞を購読していない。だが、ある方の好意でこの記事を見せて頂き、読むことが出来た。つまり、この記事を読んだことが、山名康郎「冬の旗」を手に入れる契機となった。父と子につながる歌のこころを明確に認識するために、どうしても、読む必要があると思った。
この歌の入った父山名薫人の歌集「山峡の湖」もいつか手に入れることができるだろう。
山名康郎の「冬の旗」を手に入れた後、帰り際に、別な本棚で、歌人斎藤史の
「ひたくれない」
という小型の美しい歌集を見つけた。数々の歌の最後に
つゆしぐれ信濃は秋の姨捨のわれを置きさり過ぎしものたち
という、私の愛する歌の入ったものだった。
結局、この斎藤史の歌集も手に入れて家へ帰った。
家で、じっくりと二冊の歌集を読んだ。山名康郎の「冬の旗」の後半に次の歌があった。
<信濃のひと 斎藤史さんを訪ふ>
激動の日を淡々と語りをり藍色のめがねときどきはずし
山の緑ひたひた胸をひたし来ぬあくがれ遠くこの信濃路に
こころ餓えていたる戦後に君のうた読みてより執し来し四十年
目に見えぬ世界を詠ひくれないにかがやく生を愉悦とするや
若き日の父のえにし訪ふひとは信濃の国の願人の姥
昭和2年3月、当時の旭川第七師団参謀長であり歌人だった斎藤瀏は、熊本への転勤が決まる。旭川の歌人たちはそれを惜しみ4条7丁目無尽会社楼上で送別会を行った。
その時の記念写真には、斎藤瀏はもちろん、娘の斎藤史、そして山名薫人、酒井広治、飯田佳吉、さらには当時旭川新聞記者だった小熊秀雄も写っている。彼らの間でどのような会話がなされたのか、その写真を見ながら私にはいろいろな想像が浮かぶ。
消え去った時が、この写真に残っている。また消え去った時が歌となって残っている。
かりそめの別れと思へど向かいいて寂しさついにきわまりにけり 酒井広治
歌によき霧華の街のうすぐもり春に先立ちいゆく人かな 小熊秀雄
深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別かるる時となりにけるかも 斎藤史
こよいがぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどいなるかも 斎藤瀏
残念ながら、山名薫人の歌がまだ確認できないが、彼は、この日旭川歌話会の幹事となった。
山名薫人と斎藤史は、こうして旭川で交流があった。この時点では、息子山名康郎は4歳であり、斎藤史への記憶はほとんどなかったと思われるが、後年彼は、こうして斎藤史をたずねて歌を詠んだ。
大正末期から昭和初期の旭川で出会った斎藤、山名の二組の父と子、そして康郎と史へと繋がる歌人たちを結ぶ心を、古本屋で得た二冊で知った日だった。
旭川歌話会-斎藤瀏、斎藤史送別歌会記念写真
昭和2年3月19日-旭川無尽会社楼上

一列目 左から三人目 斎藤史、四人目 斎藤瀏
二列目 左から三人目 小林幸太郎、六人目 酒井広治
三列目 左から六人目 飯田佳吉、七人目 鬼川俊蔵
四列目 左から四人目 山名薫人
最上段 右から二人目 小熊秀雄
0
2009/6/7 16:54
熊の牙-小熊とアイヌ 文学
2009年4月から5月にかけてNHK教育TVで
「ヴィクトル・スタルヒン-野球がパスポートだった」
という番組が4回にわたって放映された。
スタルヒン(1916-1957)は、ロシア革命が勃発とともに両親が日本へ亡命し、北海道旭川へ住んだ。スタルヒンは、旭川で少年時代を過ごし、旭川中学時代に巨人軍へ入団。その後、さまざまな経緯を経て300勝を超える勝利数を得、日本のプロ野球史に永遠にその名が刻まれることになる。
その番組の第2回で、スタルヒンが旭川を出たとき、
「木彫りの熊」
を抱いて出発、その後も先発の時には必ずこの木彫りの熊を持って現れ、ベンチに置いていたという事実が、写真入りで紹介された。それは、旭川のアイヌによって彫られ、スタルヒンに贈られたものだったらしい。スタルヒンにとっては、その「木彫りの熊」は、少年時代をすごした旭川そのものであり、心の支えだったことだろう。
9歳の少年スタルヒンが両親と旭川へ着いたのは1925年(大正15年)だった。
詩人小熊秀雄は、当時25歳、旭川新聞社記者。前年結婚し、その年の初めに樺太で長男焔が生まれている。
旭川の町を闊歩する小熊が、ロシアの少年スタルヒンとすれ違わなかった筈はない。何か言葉を交わしたこともあったかもしれない。
スタルヒンの両親が作ったロシアパンは、当時の旭川では評判が高かった。好奇心の旺盛な小熊は、ロシアパンを、少年スタルヒンから買い、話をした事もあったに違いない。
後年、スタルヒンの両親はミルクホール「白ロシア」や喫茶店「バイカル」を旭川に開くが、それは、小熊が旭川を去ってからのことになる。
詩人小熊秀雄は昭和3年に上京し、詩人としての出発をする。この時、アイヌから
「熊の牙」
を、餞別として貰った。
この事実は、昭和12年10月26日の北海道帝国大学新聞に発表された、小熊自身のエッセイ「望郷十年」で明らかになっている。
その文章の冒頭は、次のようである。
「北海道から東京へ来るとき、旧土人×××さんの家を訪ねた。彼は餞別の意味で一本の熊の牙を私にくれた。牙は家の後ろに立てられた塀の上に突き刺してあった大きな熊のシャレコウベをはずし、それを地面の上に置いて、鉞(まさかり)を持ち出してきて強く顎を一撃してとつたものだ。彼は牙を私に手渡す時に「特別に-」といふ意味をいった。アイヌ人と熊との関係は、熊の霊の中に残忍に鉞を加えるほどに殺風景なものではないことを知っている私は、彼が私のために、熊の顎を砕いてそこから牙を取って私の餞別にした好意をいまでも最大なものだと思っている」
熊は、アイヌにとっては神である。その神の牙を、別れに餞別として渡すことは、そのアイヌと小熊の友情の深さを推し量って余りある。
昭和3年、小熊秀雄は「熊の牙」を、昭和9年にスタルヒンは「熊の木彫り」を持って、同じ北海道旭川から東京へ旅立った。その時、二人は、符号を合わせたようにアイヌ民族の心からの信頼と友情を胸に抱いていたのだった。
6
「ヴィクトル・スタルヒン-野球がパスポートだった」
という番組が4回にわたって放映された。
スタルヒン(1916-1957)は、ロシア革命が勃発とともに両親が日本へ亡命し、北海道旭川へ住んだ。スタルヒンは、旭川で少年時代を過ごし、旭川中学時代に巨人軍へ入団。その後、さまざまな経緯を経て300勝を超える勝利数を得、日本のプロ野球史に永遠にその名が刻まれることになる。
その番組の第2回で、スタルヒンが旭川を出たとき、
「木彫りの熊」
を抱いて出発、その後も先発の時には必ずこの木彫りの熊を持って現れ、ベンチに置いていたという事実が、写真入りで紹介された。それは、旭川のアイヌによって彫られ、スタルヒンに贈られたものだったらしい。スタルヒンにとっては、その「木彫りの熊」は、少年時代をすごした旭川そのものであり、心の支えだったことだろう。
9歳の少年スタルヒンが両親と旭川へ着いたのは1925年(大正15年)だった。
詩人小熊秀雄は、当時25歳、旭川新聞社記者。前年結婚し、その年の初めに樺太で長男焔が生まれている。
旭川の町を闊歩する小熊が、ロシアの少年スタルヒンとすれ違わなかった筈はない。何か言葉を交わしたこともあったかもしれない。
スタルヒンの両親が作ったロシアパンは、当時の旭川では評判が高かった。好奇心の旺盛な小熊は、ロシアパンを、少年スタルヒンから買い、話をした事もあったに違いない。
後年、スタルヒンの両親はミルクホール「白ロシア」や喫茶店「バイカル」を旭川に開くが、それは、小熊が旭川を去ってからのことになる。
詩人小熊秀雄は昭和3年に上京し、詩人としての出発をする。この時、アイヌから
「熊の牙」
を、餞別として貰った。
この事実は、昭和12年10月26日の北海道帝国大学新聞に発表された、小熊自身のエッセイ「望郷十年」で明らかになっている。
その文章の冒頭は、次のようである。
「北海道から東京へ来るとき、旧土人×××さんの家を訪ねた。彼は餞別の意味で一本の熊の牙を私にくれた。牙は家の後ろに立てられた塀の上に突き刺してあった大きな熊のシャレコウベをはずし、それを地面の上に置いて、鉞(まさかり)を持ち出してきて強く顎を一撃してとつたものだ。彼は牙を私に手渡す時に「特別に-」といふ意味をいった。アイヌ人と熊との関係は、熊の霊の中に残忍に鉞を加えるほどに殺風景なものではないことを知っている私は、彼が私のために、熊の顎を砕いてそこから牙を取って私の餞別にした好意をいまでも最大なものだと思っている」
熊は、アイヌにとっては神である。その神の牙を、別れに餞別として渡すことは、そのアイヌと小熊の友情の深さを推し量って余りある。
昭和3年、小熊秀雄は「熊の牙」を、昭和9年にスタルヒンは「熊の木彫り」を持って、同じ北海道旭川から東京へ旅立った。その時、二人は、符号を合わせたようにアイヌ民族の心からの信頼と友情を胸に抱いていたのだった。
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2009/6/6 13:12
歌人・小熊秀雄 文学
詩人小熊秀雄は、大正末期から昭和初期の青年時代を過ごした旭川で多くの歌人と出会い、歌を詠んだ。その経験が後の詩人としての基礎を作った。
当時、旭川第七師団参謀長だった斎藤瀏、彼の娘斎藤史。そして旭川歌話会の酒井広治、飯田佳吉、山名薫人、小林幸太郎・・・。多くの人々との出会いがあった。
その後、昭和三年に上京後、東京では詩人としての活躍に集中し、歌は全くと言っていいほど残されていない。
しかし、唯一の例外がある。昭和13年5月〜6月にかけての旭川への帰省の時期に、小熊秀雄は幾つもの歌を残した。
おそらく、数多くの友人たち、特に歌人である友人たちとの再会が、小熊の心底に秘めた
「うたごころ」
を、引き出したのだろう。さらには、北海道の空気感と風景が小熊を
「自然回帰から歌への回帰」
へと促したと、私は思っている。
先日、私は、小熊の昭和13年の旭川帰省の際の足跡を追って、名寄へ行った。小熊は、長年の友である小池栄寿を名寄へ訪ねたのだが、その時に、詠んだ歌に次のようなものがある。
「屋根低き名寄の町に風荒れぬ呼吸ひそめつつ人ら住めるも」
この歌は、小熊が亡くなってから30年あまり後に出された創樹社刊旧版小熊秀雄全集で初めて日の目を見たものである。
6月の北海道の明るい陽光、そして、菖蒲やアカシアの花の咲く頃にしては、ややさびしくも悲しい風景描写である。しかし、この歌は全集とほぼ同時期に出版された
「昭和万葉集-第四巻」
に、小熊作の四首のひとつとして選定され、掲載されている。さらに付け加えると、この本で小熊の歌の隣には
「歌人会津八一」
の歌が掲げられ、言うならば、この本「昭和万葉集」は、詩人としてしか知られていない歌人小熊秀雄の面目躍如とも言える。
とはいえ、歌人小熊秀雄への評価は、私個人としては、詩に比べるとやや低くせざるを得ない。それは、私だけではなく、旭川を代表する歌人酒井広治も
「回想-小熊君の印象」
で、旭川時代の歌に関して
「然し、未だ歌には小熊君の本質は滲みでてきてなかった」
と、述べている。
しかし、昭和13年の代表作ともいうべき、友人今野大力を詠んだ次の歌は、旭川へ帰省したからこそ生まれたものである。
「純情の同志を生みしこの街よ今野大力はいま世にあらず」
紆余曲折のあった友人を、旭川で小熊はこのように回想し、歌に詠んだ。小熊にしか詠めないこのような歌を残す、それだけでも、昭和13年の帰省と、歌への回帰は意味あることだった。
しかも小熊自身、友の死を悼むこの歌を詠んだ2年後にこの世を去る。
昭和13年の、旭川、名寄、そして旭川近郊美瑛、蘭留、塩狩、そして札幌への旅に見られる故郷での小熊のこころを感じるためには、旭川風物詩などを読むだけでは足りない。今こそ、この帰省の際に残された歌をより深く読む必要がある。
詩人小熊は、当時でさえ、詩においては並はずれたアヴァンギャルド(前衛)であり、歌の世界でも歌の伝統としての古今、新古今的な感覚を持つなどということはまったくなかった。
いずれにせよ、詩人は歌人でもあった。ある意味では、拙いとまで言える彼の歌に,21世紀を生きる我々は何を見ることができるだろうか。
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当時、旭川第七師団参謀長だった斎藤瀏、彼の娘斎藤史。そして旭川歌話会の酒井広治、飯田佳吉、山名薫人、小林幸太郎・・・。多くの人々との出会いがあった。
その後、昭和三年に上京後、東京では詩人としての活躍に集中し、歌は全くと言っていいほど残されていない。
しかし、唯一の例外がある。昭和13年5月〜6月にかけての旭川への帰省の時期に、小熊秀雄は幾つもの歌を残した。
おそらく、数多くの友人たち、特に歌人である友人たちとの再会が、小熊の心底に秘めた
「うたごころ」
を、引き出したのだろう。さらには、北海道の空気感と風景が小熊を
「自然回帰から歌への回帰」
へと促したと、私は思っている。
先日、私は、小熊の昭和13年の旭川帰省の際の足跡を追って、名寄へ行った。小熊は、長年の友である小池栄寿を名寄へ訪ねたのだが、その時に、詠んだ歌に次のようなものがある。
「屋根低き名寄の町に風荒れぬ呼吸ひそめつつ人ら住めるも」
この歌は、小熊が亡くなってから30年あまり後に出された創樹社刊旧版小熊秀雄全集で初めて日の目を見たものである。
6月の北海道の明るい陽光、そして、菖蒲やアカシアの花の咲く頃にしては、ややさびしくも悲しい風景描写である。しかし、この歌は全集とほぼ同時期に出版された
「昭和万葉集-第四巻」
に、小熊作の四首のひとつとして選定され、掲載されている。さらに付け加えると、この本で小熊の歌の隣には
「歌人会津八一」
の歌が掲げられ、言うならば、この本「昭和万葉集」は、詩人としてしか知られていない歌人小熊秀雄の面目躍如とも言える。
とはいえ、歌人小熊秀雄への評価は、私個人としては、詩に比べるとやや低くせざるを得ない。それは、私だけではなく、旭川を代表する歌人酒井広治も
「回想-小熊君の印象」
で、旭川時代の歌に関して
「然し、未だ歌には小熊君の本質は滲みでてきてなかった」
と、述べている。
しかし、昭和13年の代表作ともいうべき、友人今野大力を詠んだ次の歌は、旭川へ帰省したからこそ生まれたものである。
「純情の同志を生みしこの街よ今野大力はいま世にあらず」
紆余曲折のあった友人を、旭川で小熊はこのように回想し、歌に詠んだ。小熊にしか詠めないこのような歌を残す、それだけでも、昭和13年の帰省と、歌への回帰は意味あることだった。
しかも小熊自身、友の死を悼むこの歌を詠んだ2年後にこの世を去る。
昭和13年の、旭川、名寄、そして旭川近郊美瑛、蘭留、塩狩、そして札幌への旅に見られる故郷での小熊のこころを感じるためには、旭川風物詩などを読むだけでは足りない。今こそ、この帰省の際に残された歌をより深く読む必要がある。
詩人小熊は、当時でさえ、詩においては並はずれたアヴァンギャルド(前衛)であり、歌の世界でも歌の伝統としての古今、新古今的な感覚を持つなどということはまったくなかった。
いずれにせよ、詩人は歌人でもあった。ある意味では、拙いとまで言える彼の歌に,21世紀を生きる我々は何を見ることができるだろうか。
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2009/6/1 9:47
名寄の小熊秀雄 文学

2009年5月31日。以前から行こうと思っていた名寄へ出かけた。名寄は旭川から北へ約70キロの地点にある。
このところ続けている詩人小熊秀雄の細密な探索の一つだった。
昭和13年(1938年)5月20日、小熊秀雄は昭和3年の家族一緒の上京以来10年ぶりに旭川へ帰省する。21日には、10年前まで記者だった旭川新聞に、顔写真入りで
「新進風刺詩人小熊秀雄氏旭川へ帰省」
と報道され、23日には北海ホテルで
「歓迎座談会」
が、開催されることが報じられている。このとき、滞在したのは3条6丁目の、姉ハツの家だった。姉ハツとも、昭和3年以来10年ぶりの再会であり、この時撮られた二人の写真が残されている。
小熊秀雄は、この旭川新聞に、5月31日から6月8日まで、詩にデッサンを添えた「旭川風物詩」を掲載する。飄々とした詩とデッサンは、彼の代表作とは言えないにしても、旭川という土地への小熊の強い愛着を示すものとなり、旭川に住む者にとっては今なお非常に印象深い。
小熊は、その間の連載の行われている6月3日に友人小池栄寿が教師として住んでいる名寄を訪ねる。
6月3日から、たった二日間の名寄滞在だが、小池との旧交を温め、数人の知り合いと会い、名寄の競馬場や高台、そして亜麻会社の倉庫のデッサンを描く。
この時の訪問については、小池栄寿の
「小熊秀雄との交友日記」
に、詳しい。この交友日記は断続的ではあるが、大正15年の小熊との付き合いから始まり、この名寄の小熊との出会いまでが詳細に記されている。旭川の親しい友が、移りゆく小熊の人生をどのように捉えていたかがよく分かる貴重な記録である。
車で比布を抜け和寒に入ると周囲は深い森に包まれる。塩狩峠が、ちょうどこの地点にあたる。小熊は、小池を訪ねるに当たって、旭川から名寄まで当時の国鉄を利用し、塩狩駅では、デッサンを残している。
旭川は、町が大きく変化しているが、その塩狩駅のデッサンを見ると、周辺の様子は今とほとんど変わらない。
士別を抜けて、名寄へ入る。街はほどほどの大きさで暮らしやすそうだが、車も人通りも少ない。小池栄寿が教師をし、小熊が訪ねた昭和13年の街の様子を感じさせるものは、ほとんどないと言っていいだろう。
まず名寄駅へ行った。3万人の都市の駅とはこの程度の大きさなのだろうか。
それでも中へ入ると、駅弁を売る店や、旅行代理店などがあり、旭川や稚内を結ぶ中間地点の重要な駅であることを感じる。
駅を出て、小熊が15円で絵を売ったという名寄中央病院院長先生宅周辺、小池宅周辺、東橋、南小学校などを見る。
南小学校には、昔、活躍した
「名寄岩」
という、お相撲さんの銅像があった。
この時の、最後の夜に小熊は小池に色紙を書いて残す。この色紙のことを小池は「小熊秀雄との交友日記」に詳細に書き残している。左隅には小池の娘淳子、そして右下には丸いテーブルを囲んで飲み交わす眼鏡をかけた小池と、その横に小さく小熊自身が描かれている。
また、上部には大きく小熊自身の詩
「自分の路、他人の路」
の最初の一部が書かれている。

小熊は、6月5日の早朝7時55分発の列車で旭川へ戻る。姉ハツが、6月上旬に旭川で行われる招魂祭には
「戻っておいで」
と云ったのが、小熊が旭川へこの日に帰ることを決意した要因だった。
名寄へ・・・。小熊は10年ぶりの旭川への帰省で小さな旅をした。小池栄寿という男の友情を彼は忘れずにいた。その友情を、小熊が名寄を訪問した1938年から71年後にあたる同じ季節に、名寄で感じた。
それにしても、小熊というかなりマイナーと思われる詩人の行動を、何と多くの人が書き残していることだろう。
詩を読むということと、詩人の人生は直接的には関係のないことだ。しかし、一人の詩人の人生の軌跡をたどっていくと、少なくとも、詩は、背景となる時代だけではなく人々との心の交流から生まれていることが分かる。
小熊秀雄が、10年ぶりの風薫る5月から6月を過ごした北海道。彼の死は、この2年後に迫っていた。小熊と小池の最後の出会いが、名寄だった。
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2009/5/26 13:11
現代文学-小熊秀雄追悼号 文学

1975年11月、私は大学4年だった。新聞を定期購読するほどの金はないため、時々、駅のスタンドで夕刊を買った。夕刊は、政治、経済などの情報より、学生だった私に必要な東京周辺の絵の展覧会や文学情報が多いのが分かっていたからである。
その日は、何故か毎日新聞を選んだ。特に理由はない。朝日か読売が多かったが時には気まぐれで毎日新聞を買うことがあった。
既に、朝日ジャーナルの時代は終わり、他の雑誌を買うことは少ない。
その日の毎日新聞の学芸欄に
「昭和文学私論-平野謙」
という連載があった。その日のタイトルは
「杉山英樹のこと」
と、ある。写真が一枚掲載され、「現代文学-小熊秀雄追悼号」となっている。その雑誌は知らなかったが、小熊秀雄という詩人のことは、知っていた。私の両親の住む旭川に関係深い詩人で、その地で出されている新書版の詩集を帰省の際に買い求め、非常に影響を受けつつある詩人だった。
平野謙の文章を読んだ。杉山英樹とは昭和10年代に刊行された雑誌「現代文学」を舞台に評論を書き、「バルザックの世界」「作家と独断」などの著作を刊行したが、昭和21年36歳で亡くなった評論家だという。平野謙は、この杉山の死が早すぎたことを悼みこの文章を掲載したのである。
ところで、平野謙は生前の小熊秀雄に面識があった。小熊秀雄が亡くなった昭和15年11月20日の直後、「現代文学12月号」を「小熊秀雄追悼号」として出そうと決意し、編集にあたったのは平野謙だった。
そして、原稿を依頼した数人の中に友人杉山英樹がいた。それで、この記事に「現代文学-小熊秀雄追悼号」の写真があったのである。
この雑誌には、中野重治、金子光晴、壷井繁治、湯浅芳子など名の知られた文学者が名を連ねているが、杉山英樹、大井廣介、菊岡久利、岡本潤など、私は全く知らない人々の名がある。もちろん、平野謙も追悼文を書いているらしい。
この毎日新聞記事を切り取り、旭川から発行された「小熊秀雄詩集」に挟み込んだ。その後、「現代文学-小熊秀雄追悼号」を手に取ることも、中身の文章を読む機会も訪れなかった。
記事を読んだ5年後の1980年11月20日、創樹社から「小熊秀雄研究」という厚い立派な本が出た。友人たちの小熊への追悼文や作品、詩人論が、そして新資料が満載された本である。
当時、すでに「小熊秀雄全集」5巻が完結、私は全巻を手に入れ、小熊秀雄の全貌を捉えつつあった。この別巻だけを高価とはいえ、手に入れないという筈はなかった。
信じられないことがあった。この「小熊秀雄研究」の冒頭に「現代文学-小熊秀雄追悼号」がそのままそっくり復刻されて掲載されていたのである。全部で69ページである。この本「小熊秀雄研究」全体が540ページという大部だから「現代文学」はかなり薄い雑誌だったことがわかる。
1975年の学生の頃に、毎日新聞で知った「現代文学-小熊秀雄追悼号」の内容を私はこうして5年がかりで初めて読んだ。特に、「現代文学」でかかわりの深かった友人である菊岡久利、岡本潤、平野謙、大井廣介の友情に溢れた追悼に私は驚いた。杉山英樹の追悼文に至っては、最後の11月3日の出会い、そして、大井廣介と訪れた11月20日の小熊秀雄の亡くなった日のアパートでの妻と、息子の様子とともに横たわった小熊を次のように書いている。
「死体はまだ目を開いたままになっていて、いかにも安らかな微笑に似たものを口の周りに漂わせていた。目の色も青かったように思ふ」(詩人の死)
実際に立ち会ったものだけが書ける、最後の小熊の姿を初めて読み、私は、詩人小熊への道を、切り開かれたように思った。大井廣介も、杉山とほぼ同じ経験を同時に行い、大井から見た小熊追悼を見事に行っている。(「晩年の小熊秀雄」)この二人の文章は、対になり、お互いの小熊への追悼を深く鳴り響かせる結果となった。
2008年末から2009年にかけて、私は小熊秀雄について徹底的に調査することを決意した。古い本にお金をかけることは難しいが、集められるものは集めようと思った。とりあえず、少しづつ次のものを揃えた。
杉山英樹「作家と独断」(昭和21年発行)
大井廣介「バカのひとつ覚え」(昭和32年発行-「晩年の小熊秀雄」所収)
1975年、つまり今から34年も前の毎日新聞の平野謙の「昭和文学私論-杉山英樹のこと」という新聞連載記事が入っている
平野謙「昭和文学私論」(昭和46年)
も手に入れた。平野謙が決意し独力編集により、小熊の死からひと月余りで「現代文学-小熊秀雄追悼号」が出たわけである。しかも、新聞記事を34年間もなくさずに持ち続けたという因縁からもこの本を手に入れないわけにはいかなかった。
その後、昨年暮れに古本屋に
「現代文学-小熊秀雄追悼号」
の現物があることがわかった。69年前の薄い雑誌である。しかし、私が手に入れるには高価だった。しかも、内容は「小熊秀雄研究」ですべてを読むことができる。
半年間迷った。誰も買わないのである。本ならともかく、高価な単なる雑誌を手にれるなどということは、よほどマニアックでなければ行うことではない。
結局、私は、諦めきれずに
「現代文学-小熊秀雄追悼号」
を、2009年5月20日に手に入れた。この日は、私の誕生日だった。それだけの理由で、69年前の雑誌を手に入れたのである。因縁は、1975年の毎日新聞夕刊を買ったことから始まっていた。
最後に、この雑誌でただ一人の女性寄稿者である湯浅芳子の「小熊さん」から一節を書きぬいておこう。
「或る朝ふとあなたの訃報を新聞で見たのです。もう何と悔やんでも追いつくことではない。あなたの霊前にお辞儀をしての帰るさ私は泣けて仕方がなかった。その死にあって、もう一度逢いたかったのに、と思ふ人はさう滅多にはないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに逢いたかった」
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2009/5/25 12:35
移動祝祭日 文学

1983年3月、私はパリを訪れた。ゴッホ、リルケ、佐伯祐三、辻邦生、小川国夫・・・・・。パリやフランスに住んだ多くの画家や作家たちの過去の軌跡を追う旅だった。芸術家たちが青春を送ったパリを、一度だけでも自分の目で見て歩きたいという、青年らしい想いがパリへと向かわせた。
モンパルナス駅近くの安宿に荷物を置くと、その足で私はサン・ミシェル通りを北上し、カルチェラタンでセーヌ川左岸の町中へ入った。
そこには、パリへ来た一つの目的地である古本屋があった。
古本屋の名は、
「シェイクスピア・アンド・カンパニー」
である。1920年代に、若きヘミングウェイがパリを訪れたとき、よく通った店である。店主の名は、シルヴィア・ビーチ。アメリカ人である。
この古本屋は、フランスのパリにありながら、英語の本しか置いていない。
ヘミングウェイは、このパリ滞在中にスコット・フイッツジェラルド、ジェームズ・ジョイス、エズラ・パウンド等の友人と出会い、文学上の師であるガートルード・スタインと出会っている。
この古本屋は、ヘミングウェイがパリに滞在していた時とは場所が移動している。パリでさえ、時とともに、いろいろな物事が変化していかざるを得ないのだろう。
しかし、地図を見ながら歩いているとすぐに、現在の「シェイクスピア・アンド・カンパニー」は見つかった。
シェパードが、入口左のショーウインドーの積み重なった本の前に座っている。私が入って行っても、落ち着いた姿で、街ゆく外の人々を眺めている。
古本の匂いがする。
天上へ届く本棚にぎっしりと詰まった本は、やはりすべてが英書だった。
その中に、特別な意味を持つ如くに、平積みなっているのがヘミングウェイの
「移動祝祭日」
だった。
店主らしいのは、既に60年前のシルヴィア・ビーチではなく、40くらいの好感の持てる雰囲気の男性だった。かつての店主シルヴィア・ビーチとの関係はわからない。
本の値段は30フランだった。
それ以来、「移動祝祭日」の冒頭に書かれた次の言葉が私を捉えて離さない。
「もし、君が、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは君についてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」
ヘミングウェイが、この「移動祝祭日」を書いたのは1950年、彼が51歳の時だった。
ヘミングウェイがパリに滞在したのは、断続的ではあるが1922〜1927年である。つまり、この作品の印象的な冒頭のプロローグを書くためには、20年以上の歳月が必要だった。
2009年5月、東京北区の玉井氏宅で、アメリカ人のマイケルさん、ロシア文学者の中本さん、そして私の4人が集まり、詩人の小熊秀雄のことを中心に話をしていた。
話がヘミングウェイのことになり、私が、パリの古本屋で26年前に手に入れた「移動祝祭日」という本の話をした。
マイケルさんに私が、
「英語であの本のタイトルは何といいましたか」
と、訪ねると、すぐに
「A Moveable Feast」
と答えが返ってきた。
すると、玉井さんが感慨深そうに
「小熊秀雄はまさに移動祝祭日のような詩人だから・・」
と、言った。
「移動祝祭日のような詩人」
言い得て妙である。「しゃべり捲くった」詩人は、当時の誰よりも自由であり、当時の昭和初期の戦争へ向かう暗い時代の毎日を、屈することなく祭りのように祝うことを願った。
ヘミングウェイにとってのパリは、私にとっては
「東京」
である。若き日の東京の日々は、苦渋に満ちたものではあっても、少なくとも青春を過ごしたという事実は私を永遠に去らない。
ヘミングウェイの「移動祝祭日」という本について、私は過去に誰かと話したことはない。話したくとも、ヘミングウェイを読む人にはなかなか出会えなかった。非常に残念に思っていた。
しかし、青春を遥かに過ぎ去った今、東京でこうして「移動祝祭日」について、文学を愛する3人の人々と、ごく自然に語ることができた。しかも、マイケルさんという、ヘミングウェイと同国人のアメリカ人がいる。
この会話と、この時が、ヘミングウェイのいう「移動祝祭日」でなくて何であろう。
1983年にパリの古本屋「シェイクスピア・アンド・カンパニー」で手に入れた「移動祝祭日」は、擦り切れてボロボロになった。しかし、いまだに私の手元にある。
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2009/5/23 19:13
一枚の色紙 文学

昭和13年6月、旭川へ帰省中の詩人小熊秀雄は、友人小池栄寿を訪ねて名寄を訪ねる。小池とは、旭川に住んでいた新聞記者時代、文学を通じて友となった長い付き合いである。
小池は当時、名寄の学校に勤める教師だった。
3日間、旧交を温め、小熊と小池は名寄で楽しい時を過ごす。
最終日の夜、小池の自宅で酒を飲みながら小熊は色紙を残す。
小池の「小熊秀雄との交友日記」にはこう記されている。
「小熊が僕に残していった色紙には二人で一杯やっている絵を描き、その上に彼の詩集の中から詩を探して次のように墨汁をペンにつけて書いた」
その時の詩が「自分の路、他人の路」であり、昭和10年、この名寄訪問の3年前に出した「小熊秀雄詩集」なかの一編だった。
「この時、私の長女淳子は数え年6歳で、銚子を運んだりしたので、この色紙に描かれているが、ひどくみっともない顔になっていると言ってひそかに憤慨して妻に語ったという。
六月五日 日曜。よい天気になった。招魂祭には是非帰って来いと姉が言ったとて、朝7時55分発で小熊さん、旭川へ帰る。淳子とともに見送る。
これが小熊氏を見る最後となったのである。」
小熊はなぜ、親友の娘を可愛いく描かなかったのか。小熊の流れるような速筆では、そのような配慮はなされなかったのだろう。
この色紙はその後どこにあるのだろうと、長い間、私は疑問に思っていた。おそらく、昭和13年で4歳だったであり、2009年現在80歳近い年齢で存命であろうと思われる、小池の長女淳子さんが持っているのではないかと想像していた。
先週のことである。
2009年5月19日、旭川文学資料館がオープンした。その会場へ出かけた私は、小熊の使っていた机や、また見たことのなかった資料の中に、この
「一枚の色紙」
を、発見した。責任者の沓澤さんのお話によると、小熊研究の嚆矢、佐藤喜一氏の所蔵資料の中にこの色紙が含まれ、最近、佐藤氏の遺族の方から寄贈されたという。どのような経緯で小池氏から佐藤氏へこの色紙が手渡されたのはわからない。
それにしても、私が小池栄寿の「小熊秀雄との交友日記」を読んでから30年あまり、今になってこの色紙を見ることができるとは思ってもみなかった。
詩人小熊秀雄をめぐる探索は、こうして、まだまだ尽きることがない。
小熊が昭和13年に書き残した一編の詩「自分の路、他人の路」は、私にとっては大切な詩のひとつだった。その一節は青年だった私を強く揺さぶった。
「私は自分の通る路を
自分の感情で舗装して進む」
詩とは、誰も書かなかったことを、誰も書かなかった発想と言葉で表現することだと教えてくれたのは、やはり、小熊秀雄だった。
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2009/5/22 8:50
三星-関根正二作- 文学

三星に寄せて
-宮川達二-
光放つものに人は心奪われる
闇に浮かぶ「三星」を
吸い込まれるように見入った
姉、自分、想いを寄せる女性
ロシアの古きイコンに描かれたように並び
三人の瞳は、私を、その遥か後方の彼方を見つめる
宇宙に浮かぶオリオン座の中央に位置する三つの星
冬の夜空に浮かぶこの星々を
関根の故郷では「三大星さま」と呼ぶという
夭逝の画家にしか描けない憧れと祈り
そして聖なるものへの深き希求
耳を覆ったゴッホにも似た命の輝き
信仰の悲しみに満ちた一枚の絵
死の年に描かれて百年余りの時を経て
今、私に大きな謎を問いかける
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2009/5/22 8:19
東京探索行-第5回-2009.5.百年の知己 文学
十条駅に着いたのは、昼少し前だった。
十条の買い物通りは、庶民的な雰囲気の街だった。マイケルさんと私は、やや混み始めた蕎麦屋へ入った。
マイケルさんは日本食はすべて食べられる。盛り蕎麦を食べながら、楽しく話が進む。
私も本好きで本やたらと買い過ぎるのだが、事情はマイケルさんも同じらしい。家が本で埋まっているとのことである。
池袋で、立教大学近くの古本屋に寄ろうとしたのだが、そこは日曜日で休みだった。3月には寄ることが出来なかったので、入りたい気持ちもあったが、古本屋に入ればまた荷物が増える。
「休みで良かった」
とは、マイケルさんの弁である。彼は、3月には小熊関連の高価な本をその古本屋で3冊も買ってしまったそうである。
そばを食べ終わって外へ出る。5月の日差しが暑い。
少し予定より早目だが、訪ねる予定の玉井さんへ電話する。
「もちろん、結構です!!」
と、快く早めの到着を快諾してくれる。
玉井さんは、家の外に出て待っていて下さった。
家の中へ入ると、3月に会って顔見知りの奥さんもにこやかに迎えてくださる。
奥さんとマイケルさんは初対面である。
玉井さんが「百年の知己」という言葉を、手紙で使って下さったことがある。
つまり、会ってさほど時間が経っていなくとも、心が通じ合えれば百年も付き合っているような関係にすぐになれる・・・。そういう意味合いだった。
まさに、二が月ぶりの、二度目の再会なのだが、玉井さんご夫妻の優しい、人を心から受け入れる雰囲気に、私は、心が和むのを感じた。
私はいつも玉井さんが編集した「小熊秀雄全集」を繰り返し読んでいるので、玉井さんとは遠く離れていても毎日会っているようなものである。
玉井さんは貴重な「小熊秀雄全集」を出版した元創樹社の編集長兼社長だった方である。
マイケルさんも同じ詩集を持ち、毎日、それを持ち歩いているのだから同じような気持ちだろう。
マイケルさんが、その全集の一冊を取り出し、
「仕事場この本を机の上に置いているといい装丁ですねと褒められるんです」
と、玉井さんに言った。
小熊全集旧版は布張りで、色は臙脂。私も気に入っている。
玉井さんはそれを聞くと
「装丁は全部私がやりました。もちろん、背表紙の小熊自筆の字も選んだのは私です」
そういう時の、玉井さん表情は、子供を慈しむような優しい、うれしそうな表情だった。
一時間ほど話をしていると、ロシア文学者の中本さんがやってきた。京都で会合があったらしいのだが、私が上京しているのを知り、東京へ着くなり、ここへきてくれたのである。
中本さんも、大学教授という権威主義的なところを全く見せない、謙虚で真摯な雰囲気の方である。4人で、ロシアの話、小熊の話、私の昨日の新宿、四谷、麹町方面の探索結果や、中村彜と鶴田吾郎の「エロシェンコ像の話」など時間が過ぎるのを忘れるほどに楽しい話題が続く。
玉井さんの奥さんが、部屋の奥で薄いパンフレットを読んでいる。
タイトルを見ると
「カオス・シチリア物語」と書かれている。
1984年、イタリアの兄弟ふたりの監督タヴィアーニによって作られた映画である。
私は、この映画が好きだった。オムニバス映画であり、特に最後の
「母との対話」
は、忘れられない。
故郷へ戻った初老の男が、母の亡霊に次のようなことを告げられる。
「もはや見ることのできなくなった者の目でものを見なさい。つらいだろうけれど、ものごとがずっと美しく、尊いものにみえるわ」
この言葉だけではない。
モチーフとなるモーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」第4幕のガヴァティーナの旋律は私に強烈な印象を与えられた。さらに、母の回想シーンで、漁船で旅する家族が立ち寄った白い砂の島で、幼かった母は、彼女の兄弟、姉妹とその白い砂の斜面を滑り降りる。青い海、白い砂、まだ未来しか想像できない若き少年と少女たち。
寄り添うようにして流れるモーツアルト・・。
このシーンは今まで見た映画のどのシーンより美しいと思った。
玉井さんの奥さんは、この映画を1984年に神田神保町の「岩波ホール」で見ている。私も、この映画を同じ時期に同じ場所で見ている。
私はその時以来、この映画を見た人に出会ったことはなく、この映画について人と語ったことはない。25年もの間・・・。
人はどんなに遠くに住み、出会のが遅くとも、こうして、一つの映画を通して出会うことができる。それは、映画だけではなく、すべての芸術がそのような役割を果たすものかもしれない。
ずいぶんと、玉井さん宅で御馳走になり、暗くなった午後7時ころ、中本さん、マイケルさん、私は十条の玉井さん宅を出た。
私は、遠い東京に多くの友を得たことに感謝しなければならない。これも、若くして貧困の中に死んだ詩人小熊秀雄の取り持つ縁である。
玉井、中本両氏、それに旭川の高田さんと私は、この夏に、サハリンへ共に旅をする。これは、詩人小熊秀雄が幼年時代を過ごしたサハリンを旅するのが目的であるが、私にとっては先輩である方々の様々な経験を聞くことも大きな楽しみである。
さて、マイケルさんとはこの次はどこで会うことになるのだろう。ひょっとしたら、彼が北海道を訪ねてくれるかもしれない。
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十条の買い物通りは、庶民的な雰囲気の街だった。マイケルさんと私は、やや混み始めた蕎麦屋へ入った。
マイケルさんは日本食はすべて食べられる。盛り蕎麦を食べながら、楽しく話が進む。
私も本好きで本やたらと買い過ぎるのだが、事情はマイケルさんも同じらしい。家が本で埋まっているとのことである。
池袋で、立教大学近くの古本屋に寄ろうとしたのだが、そこは日曜日で休みだった。3月には寄ることが出来なかったので、入りたい気持ちもあったが、古本屋に入ればまた荷物が増える。
「休みで良かった」
とは、マイケルさんの弁である。彼は、3月には小熊関連の高価な本をその古本屋で3冊も買ってしまったそうである。
そばを食べ終わって外へ出る。5月の日差しが暑い。
少し予定より早目だが、訪ねる予定の玉井さんへ電話する。
「もちろん、結構です!!」
と、快く早めの到着を快諾してくれる。
玉井さんは、家の外に出て待っていて下さった。
家の中へ入ると、3月に会って顔見知りの奥さんもにこやかに迎えてくださる。
奥さんとマイケルさんは初対面である。
玉井さんが「百年の知己」という言葉を、手紙で使って下さったことがある。
つまり、会ってさほど時間が経っていなくとも、心が通じ合えれば百年も付き合っているような関係にすぐになれる・・・。そういう意味合いだった。
まさに、二が月ぶりの、二度目の再会なのだが、玉井さんご夫妻の優しい、人を心から受け入れる雰囲気に、私は、心が和むのを感じた。
私はいつも玉井さんが編集した「小熊秀雄全集」を繰り返し読んでいるので、玉井さんとは遠く離れていても毎日会っているようなものである。
玉井さんは貴重な「小熊秀雄全集」を出版した元創樹社の編集長兼社長だった方である。
マイケルさんも同じ詩集を持ち、毎日、それを持ち歩いているのだから同じような気持ちだろう。
マイケルさんが、その全集の一冊を取り出し、
「仕事場この本を机の上に置いているといい装丁ですねと褒められるんです」
と、玉井さんに言った。
小熊全集旧版は布張りで、色は臙脂。私も気に入っている。
玉井さんはそれを聞くと
「装丁は全部私がやりました。もちろん、背表紙の小熊自筆の字も選んだのは私です」
そういう時の、玉井さん表情は、子供を慈しむような優しい、うれしそうな表情だった。
一時間ほど話をしていると、ロシア文学者の中本さんがやってきた。京都で会合があったらしいのだが、私が上京しているのを知り、東京へ着くなり、ここへきてくれたのである。
中本さんも、大学教授という権威主義的なところを全く見せない、謙虚で真摯な雰囲気の方である。4人で、ロシアの話、小熊の話、私の昨日の新宿、四谷、麹町方面の探索結果や、中村彜と鶴田吾郎の「エロシェンコ像の話」など時間が過ぎるのを忘れるほどに楽しい話題が続く。
玉井さんの奥さんが、部屋の奥で薄いパンフレットを読んでいる。
タイトルを見ると
「カオス・シチリア物語」と書かれている。
1984年、イタリアの兄弟ふたりの監督タヴィアーニによって作られた映画である。
私は、この映画が好きだった。オムニバス映画であり、特に最後の
「母との対話」
は、忘れられない。
故郷へ戻った初老の男が、母の亡霊に次のようなことを告げられる。
「もはや見ることのできなくなった者の目でものを見なさい。つらいだろうけれど、ものごとがずっと美しく、尊いものにみえるわ」
この言葉だけではない。
モチーフとなるモーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」第4幕のガヴァティーナの旋律は私に強烈な印象を与えられた。さらに、母の回想シーンで、漁船で旅する家族が立ち寄った白い砂の島で、幼かった母は、彼女の兄弟、姉妹とその白い砂の斜面を滑り降りる。青い海、白い砂、まだ未来しか想像できない若き少年と少女たち。
寄り添うようにして流れるモーツアルト・・。
このシーンは今まで見た映画のどのシーンより美しいと思った。
玉井さんの奥さんは、この映画を1984年に神田神保町の「岩波ホール」で見ている。私も、この映画を同じ時期に同じ場所で見ている。
私はその時以来、この映画を見た人に出会ったことはなく、この映画について人と語ったことはない。25年もの間・・・。
人はどんなに遠くに住み、出会のが遅くとも、こうして、一つの映画を通して出会うことができる。それは、映画だけではなく、すべての芸術がそのような役割を果たすものかもしれない。
ずいぶんと、玉井さん宅で御馳走になり、暗くなった午後7時ころ、中本さん、マイケルさん、私は十条の玉井さん宅を出た。
私は、遠い東京に多くの友を得たことに感謝しなければならない。これも、若くして貧困の中に死んだ詩人小熊秀雄の取り持つ縁である。
玉井、中本両氏、それに旭川の高田さんと私は、この夏に、サハリンへ共に旅をする。これは、詩人小熊秀雄が幼年時代を過ごしたサハリンを旅するのが目的であるが、私にとっては先輩である方々の様々な経験を聞くことも大きな楽しみである。
さて、マイケルさんとはこの次はどこで会うことになるのだろう。ひょっとしたら、彼が北海道を訪ねてくれるかもしれない。
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