2016/10/31  18:35

長長忌  文学

第35回小熊秀雄長長忌のお知らせ
ー小熊秀雄、木島始、玉井五一の世界 池袋モンパルナスの集いー


詩人小熊秀雄の命日を追悼する長長忌(じゃんじゃんき)が次の予定で行われます。どうぞご参加ください。

今年は例年の池袋「豊島区勤労福祉会館」から上板橋の玄団銅鑼アトリエへ場所を移して開催します。

【日時】2016年11月26日(土)14時〜17時 13時開場
【場所】劇団銅鑼アトリエ 板橋区中台1−1−4
    電話 03-3937−1101
    電車 池袋駅より東武東上線 普通15分 上板橋駅下車
       北口より徒歩10分


【主催】小熊秀雄協会 池袋モンパルナスの会
【参加費】 1000円

【プログラム】

   司会  宮川達二 (小熊秀雄協会世話人)
   開会あいさつ 梶慶一郎 (小熊秀雄協会世話人)
   

第一部 劇団銅鑼と池袋モンパルナス
    お話 小関直人
    俳優による小熊秀雄の詩朗読など

第二部 来場者よそれぞれにしゃべり捲くれ
    進行(閉会挨拶含む) 佐相憲一 (小熊秀雄協会代表)


    会場来場者から時間いっぱいに自由にどうぞ!!
    どなたでも話してください(朗読も歌も宣伝PRも歓迎!)


連絡先 小熊秀雄協会 佐相 080-2015−9969
池袋モンパルナスの会 小池 090-6499-8979


 *前日の11月25日(金) 小熊秀雄一家墓参り  多磨霊園
         希望者にて 14:00に 多磨霊園正門集合


     
      

0

2016/10/23  17:13

三星-関根正二作-  

クリックすると元のサイズで表示します


三星ー関根正二の絵に寄せてー

                 -宮川達二-

不思議な光を放ち
紫色に輝く薊を前に
三人が横並びに立っている
ロシアの古きイコンのように

中央に若き画家が立つ
彼の視線は絵を見るものに向けられ
首に赤い布が巻かれ
その布は両側に長く垂れている

ゴッホが自らの耳を剃刀で切った時
それを想起させるように
彼の耳から顎は縦に包帯で覆われ
修行僧のように
頭には細い布が締められている

左に彼の恋人がいる
柔らかくウエーブした髪
唇を赤く染め、意志的な視線は
絵を見る者の背後へ向かっている

右には画家の姉が寄り添う
弟をやさしく包み込み
慈しみに満ちた表情で
彼女はさらに遠くにまなざしを注ぐ

冬の夜空高く
オリオン座は垂直に昇る
中央の闇に浮かぶ横並びの三つの星
この絵はこの星から名づけられた

画家の二十歳の死は迫っている
信仰の悲しみを知り
幻影と神秘を知り
己の希求するものを知るものは
百年の時を経て此処に永遠に留まる


  



4

2016/10/23  9:24

湘南へ  

9月末に、北海道から神奈川県藤沢へ引っ越しをしました。これを機会に長く休んでいたブログを再開します。
昨日は東京へ行き、落合の佐伯祐三アトリエ、中村彜アトリエ訪問。、その後、竹橋の近代美術館へ行きました。二人の芸術家のアトリエ、そして近代美術館へ納められた作品のすばらしさに驚かされました。ひさびさに中村彜の
「エロシェンコ氏の像」
を見て、絵画の深さに触れました。夭折した日本の芸術家たちはなかなかすごいです。
佐伯祐三と中村彜については、近々エッセイを書き、ここ5年ほど関係している詩誌「コールサック」に投稿します。
2

2015/6/8  14:56

玉井五一さんの死  

6月4日(木)の朝刊を開いて、社会面を読んでいると訃報欄に

「玉井五一さん 元創樹社編集長 5月28日死去、88歳。葬儀は親族で
 営まれた」

という文章が目に入った。玉井さんとは、6年前の2009年7月に共にサハリン(旧樺太)
へ共に旅し、10日間の旅をした。目的は詩人小熊秀雄の足跡をたどることであった。その後、
上京するたびに泊めていただき、親交を深めてきた。

最近では今年(2015年)3月下旬に上京した際にお会いし、彼の自宅のある北区上十条から銀座まで同行した。
共通の友人の新潟の女性画家が銀座で個展を開き、それを見に行ったのである。足元がおぼつかなく、かなり苦労されたがどうにか無事に目的を果たし帰宅した。私は、これがお元気な姿で会える最後になるかもしれないという予感はあったが、一方では90歳までも、いやそれ以上に生きてまだまだお会いしたいと思っていた。

玉井五一さんが創樹社時代に二度の「小熊秀雄全集」を刊行する事なしに、私の小熊への接近は此処まで至らなかっただろう。玉井さんのご冥福を心から祈りたい。

サハリンへ同行していただいたもう一人の方、ロシア文学者の中本信幸さんへメールで玉井さんの訃報をお知らせしたところ、今日(6月8日)午後に電話を頂いた。この事実をご存じなく、
「小熊秀雄をこの世に知らせる大切な役割をされた玉井さんが亡くなったこと残念です」
という温かい言葉を頂いた。感謝!!
1

2014/9/20  21:15

刊行  文学

私の著書「海を越える翼」が、9月18日に刊行となりました。

クリックすると元のサイズで表示します


なお、お問い合わせは下記コールサック社までお願いします。

http://www.coal-sack.com/

まもなく全国の主要な書店でも取り扱いが始まります。どうぞよろしくお願いします。



1

2014/8/28  0:25

詩人論の刊行迫る!  

遅れていた「海を越える翼ー詩人小熊秀雄論」が9月中旬に刊行となります。
副題は

ー詩は時代の闇を照らすー

と、なりました。著者作成の小熊秀雄人物・事項辞典、詳細年譜を巻末に収録しています。昭和初期を抵抗精神に満ちた詩を書き続けた詩人小熊の示した光は、いまだ闇を照らしています。

       クリックすると元のサイズで表示します
2

2014/6/23  13:46

海を越える翼  文学

しばらく、原稿の件などで多忙がつづきブログを休止していました。このブログの主なテーマである詩人・小熊秀雄に関する本をこの夏に出版する事になったのでブログを再開することにします。

本のタイトルは
「海を越える翼―詩人・小熊秀雄論」
です。出版元はコールサック社です。8月中には刊行予定です。

コールサック社 http://www.coal-sack.com/

目次は次のとおり。

   序章 
         青年の美しさ
   第1章 憧憬
         焔に立つ青馬―憧憬のロシア―
   第2章 彷徨
         韃靼の海―樺太―
         カムイの光―旭川―
         都会の飢餓―東京―
   第3章 邂逅
         心の虹―歌人・斉藤史―
         巡りあう人々―二人の女流文学者―
   第4章 群像
         詩人群像−1
         詩人群像−2
         芸術家群像
   第5章 異国
         海を越える翼―ロシアとアメリカの翻訳者―
   最終章 航跡
         若き僧侶と詩人の妻

   小熊秀雄に捧げる詩 
        「冬の光」

   参考資料
        初出誌一覧
        参考文献一覧
        小熊秀雄 人物・事項事典
        小熊秀雄 年譜

   あとがき
   著者略歴


   現在、初校チェック中ですが、この作品に関する情報、刊行時期は追ってお知らせします。


クリックすると元のサイズで表示します


なお、友人のやまおじさんが以下のブログで私の本の出版予告をしてくださった。

「やまおじさんの流されゆく日々」 
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7c69.html
1

2009/10/5  15:09

小熊秀雄とマヤコフスキー  文学

詩人小熊秀雄の詩に

「マヤコフスキーの舌にかわって」

という詩がある。

マヤコフスキー(1893〜1930)は、ロシアの詩人である。グルジアの寒村に生まれた彼は、19歳で未来派の中心的詩人となる。やがて、1917年のロシア革命を迎え「芸術左翼戦線」を結成。代表作には「ズボンをはいた雲」「背骨のフリュート」などがある。しかし、ロシア革命による再編成期にさしかかったレーニン死後の文壇左右両翼からの風当たりが強く、これに恋愛の挫折感を加え、1930年(昭和5年)4月14日、マヤコフスキーは遺書を残してモスクワで拳銃による自殺をした。

この自殺に反応した日本の詩人が唯一人いた。マヤコフスキーへの追悼詩を残した小熊秀雄だった。私は、この詩の最後の四行込められた小熊の激しくも鮮烈な詩精神に、青年の頃から、心を揺さぶられ続けてきた。

「私は君のような自殺はできない
 死よりも、生きる責任の強さのために、
 よし、たといその生が
 死より惨めなものであっても」

小熊がこの詩を書いたのは1933年(昭和8年)9月である。1930年(昭和5年)のマヤコフスキーの自殺から3年余りが過ぎてからのことだった。この詩が書かれた同年の2月、小林多喜二が東京で検挙され虐殺されている。

当時日本では、マヤコフスキーの詩がロシア語から日本語へと翻訳されていなかった。では、なぜ小熊秀雄はマヤコフスキーの詩を理解し、その死に対するこのような強い意志を込めた詩を書けたのか?

小熊秀雄の童話「焼かれた魚」を大正13年(1924年)に雑誌「愛国婦人」に掲載したのは、当時この雑誌の編集を行っていた湯浅芳子だった。小熊と湯浅芳子はこの童話掲載を契機に、この年と翌年にも、旭川から上京していた小熊と会っている。

湯浅芳子は、この後の昭和2年、作家宮本百合子(当時は中條百合子)と共にロシアへ留学し3年間を過ごす。

ロシア留学中の昭和3年(1928年)、湯浅と宮本は旅先のレニングラードのホテルで憧れの作家ゴーリキーに会見する。
また、留学最後の年である昭和5年(1930年)4月には、モスクワでマヤコフスキーの自殺の報を聞き、二人は彼の告別式に参加する。

この時のゴーリキー会見とマヤコフスキーの自殺と告別式の様子は、宮本百合子が後年、長編小説「道標」で書いている。ゴーリキー会見はもちろん、マヤコフスキーの告別式の様子は、「道標」の中でも特に印象的な描写となっている。

湯浅芳子には、マヤコフスキーの死に関する直接の文章は残されていない。しかし、帰国後に、すでに旭川から東京へ移り住んでいた詩人小熊秀雄と出会った時、湯浅がロシア滞在中にマヤコフスキーの死と告別式に立ち会った事実を伝えなかったはずはない。

湯浅芳子は、小熊が亡くなった時の追悼文で次の事実を書き残している。

「私がマヤコフスキーの詩集を出してきてその中の一篇を直訳すると、あなたがそばからそれを詩らしく直して云ってなかなか楽しかった」

(「小熊さん」現代文学1935年小熊秀雄追悼号)

湯浅と小熊の二人に交わされた友情の証、そしてロシア文学がその友情を結ぶ大きな要因となっていたことが、ここに示されている。

湯浅と小熊には、マヤコフスキーだけではなくプーシキンの詩についても同じようなことが行われ、一冊のノートにまとめられた。しかし、残念なことに、その後、友人たちの間を回覧されているうちに、そのノートは見失われた。

小熊に

「マヤコフスキーの舌にかわって」

という詩を書かせた原動力は、やはり湯浅芳子だった。もちろん、そう書かれた文章は誰の手によっても残されてはいない。しかし、私を強く揺さぶり続けた一篇の詩は、このようにして、小熊と湯浅の友情の末に生まれたという確信が、長い時間を経て、今の私に生まれている。

16

2009/9/22  8:41

湯浅芳子  文学

湯浅芳子という女性のことを知った最初は、小熊秀雄の年譜に数回その名が記されていることからだった。

創樹社版小熊全集の年譜によると、二人が出会った最初は、大正13年(1924年)。小熊が上京し湯浅が編集者として勤めていた「愛国婦人」に童話「焼かれた魚」を持ち込み、湯浅の判断によりこの童話がが掲載されたことに始まる。翌大正14年(1925年)には、再度上京した小熊が、湯浅と中條百合子(宮本百合子)が二人で住んでいた高田老松町を訪ねて二人と懇意となる。その後、湯浅と宮本はロシアへ旅立ち、続いて小熊は上京、様々な経緯を経て湯浅と小熊は友情を保つ。さらに昭和14年に湯浅が口訳し小熊が即興で詩に仕立てたプーシキン訳が完成した。

湯浅芳子は、1896年(明治29年)、京都生まれ。上京して「愛国婦人」の編集に従事しながらロシア語を学ぶ。野上弥生子の紹介で、作家中条百合子と出会い、1924年から(大正13年)から百合子と共同生活を送り、1927年から1930年にかけて二人でソビエトで生活した。帰国後、宮本百合子は湯浅とは別れ宮本顕治と再婚、湯浅とは縁を切る。
湯浅は、その後、ロシア・ソビエト文学の翻訳に打ち込み、現在まで読み継がれる名訳を残している。

私は、この数年、湯浅のことを徹底的に調べようと思った。
主なものは、次のようなものだった。
瀬戸内晴美「孤高の人」、沢部仁美「百合子.ダスビダーニャ-湯浅芳子の青春」、湯浅芳子「百合子の手紙」、宮本百合子「二つの庭」「伸子」「道標」、湯浅芳子の翻訳チエーホフ「妻への手紙」「退屈な話」「ゴーリキー全集」ツルゲーネフ「処女地」シチェードリン「ゴロヴリヨフ家の人々」
浮かび上がるのは、明治の女性としては珍しいほどの強い個性、人への愛着だった。特に彼女自身の二つのエッセイ「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」にそれがよく表れている。

それにしても、湯浅芳子の中条百合子、後の宮本百合子という同性への愛憎の深さにはつくづく驚かされた。そして、革命後のソビエトへ二人だけで行き3年を共に暮らす大胆さ・・。

湯浅芳子に詩人小熊秀雄を回想した文章がある。

一つは、昭和15年11月に小熊が亡くなった直後に出た「現代文学追悼号」に掲載された

「小熊さん」

という文章である。この「現代文学追悼号」には、小熊の近くにいた友人たちの友情に溢れる文章がいくつも掲載されているが、女性はただ一人湯浅芳子だけであり、しかもその文章は男と女を越えた深い友情と哀惜に満ちたものだった。

「その死にあってもう一度会いたかったのにと思うひとはそう滅多にはいないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに会いたかった。
   
    半生は満足するほど負けたから
    残りの半生を満腹するほど勝ちたい

と歌うあなたに、せめてもう十年生きていて貰いたかった」

詩人は、残された詩だけを読んでいればいいのだろう。しかし、日本の知性を代表するといってもいい湯浅芳子という女性にここまで書かせた詩人と徹底してかかわっていこうと私に思わせたのは湯浅芳子である。


11

2009/8/22  4:53

小熊とプーシキン  文学

クリックすると元のサイズで表示します


2009年7月、サハリン(旧−樺太)へ旅をした。主な目的は、小熊が少年時代の十年余りを過ごしたトマリ(泊居)を訪ねることだった。

旅の二日目に、ユジノサハリンスクで図書館を訪ねた。ここでは、私と同行した中本信幸さんの友人であるロシア人アナトーリー・マモーノフによる

「ロシア語訳小熊秀雄詩集」
「日本におけるプーシキン」

という二冊の本を見せて頂いた。図書館の女性に、ロシア語訳小熊詩集から

「マヤコフスキーの舌にかわって」
「馬車の出発の歌」

の二つの詩を朗読して頂いた。小熊の詩をロシア語の朗読で聞いた感動は大きかった。

帰国後、小熊とロシア文学について詳細に調べ始めた。小熊をより深く理解するためには、ロシア文学を避けてはならないことを痛切に感じたのである。彼は、プーシキン・トルストイ・ドストエフスキーはもちろん、マヤコスフスキー・エセーニン・そしてチェーホフも読んでいた。

また、マモーノフの「日本におけるプーシキン」の一部を翻訳した

「プーシキンと詩人・小熊秀雄」(沓澤章俊訳)

を読んだ。小熊という詩人をよく理解した優れた論文である。

さらに、小熊自身の書いたプーシキン論

「日本のプーシキニストの一人として」
「プーシキン再認識」
「愛国的と進歩的といふことに就て」
「詩聖プーシキンに就いて」

などに目を通した。昇曙夢、湯浅芳子等のロシア文学者と小熊秀雄との関連も含めて、小熊のロシア文学からの影響は、想像以上に大きい。

最近、岩波文庫「プーシキン詩集」を読んでいた。ふと次の詩の一節に目がとまった。

「日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
 悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
 悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
 きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。

 こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
 いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
 ひとのよのなべてのものはつかのまに流れ去る。
 流れ去るものはやがてなつかしいものとなる。」

私のこころに、深く響く何かがある。そしてどこかで、このフレーズを聞いた気がする。すぐに思いだした。

「阿弥陀堂だより」(南木佳士原作、小泉尭監督作品)

という映画の一シーンで朗読されたものだった。

小熊秀雄の詩魂は、彼がかつて住んだサハリン、ロシア、そしてプーシキンにつながる。そして、プーシキンは日本映画の素晴らしい一シーンにつながっていた。

私は、当分、ロシア文学から離れられそうもない。



5

2009/7/3  9:03

小熊秀雄の樺太  文学

詩人小熊秀雄が少年時代を過ごした樺太。その時代を歌った詩として明確になっているのは三篇だけである。

その一つに、大正時代の樺太の冬の夜に、夢遊病のように寝ぼけて外へ出て街を歩く妹を尾けて行く兄の気持ちを振り返る

「白い夜」

という詩がある。その中に、次のような表現がある。

「戸外は昼のように明るかった、
どこにも月が出ていなかった
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のような光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしていた」

樺太は、まるでオーロラの立ち上る北極圏のように「水銀のような光」が、冬の夜を「白い夜」へ変え、少年だった詩人の記憶にこのような光景を残している。おそらく、小さな町とは、一番長く住んだ

「泊居」(トマリ)

という西海岸にある小さな町である。



まもなく、私は、樺太(現在のサハリン)への旅出る。もちろん、この詩の背景となった泊居を訪ねる。

しかし、残念ながら、季節は夏である。小熊の詩にある冬の夜に特有の

「水銀のような光り」

を見ることはできないだろう。しかし、一生訪れることは出来ないと思っていた樺太の風景と空気を吸うことは、私にとっては大きな意味がある。


詩人小熊秀雄は、明治34年(1901年)小樽生まれである。少年時代を、小樽、稚内、秋田、そして10歳前後から樺太で過ごす。

小熊は、大正初期に父と継母の住む樺太豊原へ移り住む。そして両親の移動した西海岸の泊居へ移住する。泊居の高等小学校を卒業以来、この地で漁師、養鶏場番人、炭焼き手伝い、農夫、伐採人夫、パルプ工場職工などの労働に就き、大正10年の徴兵検査までこの地で過ごす。

樺太での約10年の少年時代。小熊は、東京で39歳で亡くなったが、彼の短い生涯の四分の一を、樺太で過ごした計算になる。樺太という土地が、彼の詩の根底に流れる詩精神に与えた影響の大きさは、計り知れない。

アイヌ民族と日本人の交流を描いた長編叙事詩「飛ぶ橇」は樺太の生活がなければ、決して生まれなかった詩である。この詩の最初の部分に

「雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪
山峡の村は一時ポッと暖かくなり
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎えたように瞬間感謝の気持ちになる」

この表現をするためには、樺太での10年の少年時代が、詩人にはどうしても必要だった。

やはり、樺太を舞台とした詩

「トンボは北へ、私は南へ」

という詩は、自然と少年の交感が、大人になった詩人の目で優しく、そして時には激しく歌われる。

「トンボよ
君は北へ揃って行き給え
僕は南の方へでかけてゆこう
そういって私の少年は南へ向かって出奔した
最初の反逆それは
私は故郷を捨てることから始まった」

大正10年、小熊は徴兵検査の時、戸籍謄本を見て自分が父によって長男として戸籍に入っておらず、3歳の時に亡くなった母小熊マツの私生児となっていることを知った。

なんと、我々の知る小熊秀雄は、20歳まで「三木秀雄」という名で生きていた。それが、一気に崩れ去り、怒りに打ち震え、自ら、生母の姓を選びとり

「小熊秀雄」

として、残りの人生を歩むことを決めたのだ。「私の少年」という優しくも懐かしい、小熊特有の表現。そして、この詩の最後に現れる「故郷」という表現は「樺太」であり、「反逆」とは自らの20年にわたって使ってきた「三木」という姓を姓を捨て去ることだった。

我々が、当然のようにして受け止めている

「小熊秀雄」

という名は、彼の前半生では

「三木秀雄」

であったことを、私は、樺太を訪れる今こそ、心から受け止めるべき時が来ている。

樺太の旅の夜、同行する三人の方々の前で、私は「白い夜」と「トンボは北へ、私は南へ」という二つの詩を朗読しようと思っている。

私は、幾つかの例外を除くと、人の前で詩を朗読することは経験のない人間である。しかし、樺太という旅に際して、これだけは、どうしても実行しようと考え、薄い新書版の「小熊秀雄詩集」をバッグに忍ばせている。



6

2009/6/23  6:49

アカシアの街に寄す  文学

詩人小熊秀雄は、昭和13年(1937年)6月、十年ぶりの旭川への帰省の後、札幌を訪れた。旭川時代の友人で北海タイムス記者である中家金太郎の誘いを受けたものである。

小熊の生まれは小樽である。少年の頃、小樽から汽車に乗って札幌へ行き、北大構内や街をうろついた事があったらしい。

つまり、札幌は、小熊にとって初めて訪れた街ではなく、印象深い追想の街だった。

この滞在中、小熊は札幌植物園、道庁、北大、大通り公園などを歩き、絵を描き、歌を詠んだ。それらは

「札幌詠草」

として、6月26〜30日に北海タイムスに連載された。歌は出来不出来がある。しかし、札幌を描いたデッサン、

「時計台」

「大通り公園」

「北大構内」

「藻岩山」

は、実に伸びやかな筆致で描かれ、札幌を小熊は好きだったのだなということを感じさせる。

大通り公園西2丁目では、第二代道庁長官をした永山武四郎の像を描き、

「あぶなかしく望遠鏡を手にせるは鉄の将軍永山武四郎」

と、ユーモアと風刺に満ちた、小熊らしい歌を詠んでいる。

しかし、この永山武四郎像は、今はどこを探しても見ることが出来ない。その理由は、小熊の死後に激しくなった太平洋戦争のさ中の昭和18年、金属回収が徹底的に行われ、小熊が

「鉄の将軍」

と詠んだ永山武四郎像も供出されたのである。

今では、この像は写真が残されるだけであり、小熊の残した歌とデッサンは、一人の詩人が見たものとして貴重なものとなった。


この札幌滞在は小熊にとってはいいことばかりではなかった。

北海タイムス記者で友人の中家金太郎の根回しで、北大新聞部主催で明治製菓階上で小熊の講演と座談会を持つことになっていた。しかし、北大新聞部から中家あての電話が入り、小熊の講演と座談会が中止となった。

この中止は、小熊が左翼的な詩人であり北大学内から中止を命ぜられたか、もしくは、翌日来札予定の高名な作家横光利一と川端康成の二人の講演となったということらしい。

屈辱的な話である。

小熊は、憤慨したことだろう。しかし、この件に関しては文章を残してはいない。ただ、札幌では

「北大構内にて」

という背広姿の、印象的な一枚の小熊の写真が残されている。



この小熊の札幌滞在から82年が経過した2009年6月20日、私は札幌へ出かけた。小熊の札幌滞在に関する資料と、迫ってきた樺太関連の資料を集めるためである。さらには、1937年の小熊の札幌滞在と時期が同じということもあった。

札幌へ着くと、歩いてまず旧道庁へ出かけた。82年前にこの道庁の池に立ち寄り、小熊が次の歌を詠んでいたのを知っていたのである。


「道庁の池の睡蓮白ければ官僚主義に染むなかれ花」

まさに、小熊の歌に登場する睡蓮が池に浮かんでいる。小熊もこの同じ睡蓮を見たのだと思うと、大きな感動が私の心に生まれた。

次いで、中島公園の「北海道文学館」へ行った。

特別展「アイヌ口承文学の世界」

で、さまざまな刺激を受けた。

その後、常設展で小熊のスケッチを二つ見た。札幌詠草で描いたペン画とは印象がかなり違うものだが、印象的な二枚だった。

帰りに、北海道文学館で2つの資料を見つけた。

一つは

「札幌市地図復刻版-昭和11年版」

だった。小熊が札幌へ来た昭和13年当時の札幌中心地の様子がそのまま復刻されている。小熊があるいた足跡がそのままたどれるのである。

さらに、

「樺太文学の旅」(上下 木原直彦著)

という、大部の2冊が置かれていた。この二冊は、以前からその存在は知っていたが、なかなか高価なものであり手に入れるのは、まだ先だろうと思っていた。値段を見ると、何と定価4000円の半分の2000円となっている。

なぜ半額なのかは分からない。

本とは巡り合いである。7月中旬に樺太を訪ねる私にとっては、大きな贈り物だった。

帰宅して、全集で昭和14年に小熊が小樽新聞に書いた

「アカシアの街に寄す」

という文章を読んだ。

十年ぶりの故郷。旭川、小樽、札幌への想いが晩年の詩人の心をいかに和ませたかがよく分かる文章である。

その最後に、札幌を小熊はこう語っている。

「昨年、私は大通りの芝生に半日寝転んで、その前を通る電車を見て暮らした。そうして、自由に市民が休息できる街というものは、札幌以外に日本にはないのである」

小熊の訪れた昭和13年のアカシアの街札幌のイメージはすでに失われている。しかし、現代の札幌への私の小さな旅は、詩人の心を幾分なりとも掴めた意味あるものだった。

5

2009/6/19  9:23

詩人菊岡久利-小熊の友たち-1  文学

2009年3月11日、東京への旅に出ていた私は、大学時代の友人と鎌倉で会った。彼と話をしながら、大町、釈迦堂切通し、小町と歩いて最終地点の寿福寺を訪れた。

寿福寺の参道で、そこに墓のある人名の書いてあるプレートを見ていると

「菊岡久利」

という名が目に入った。

彼は詩人である。しかし、その名を知る人は少ない。私は、旅の目的である詩人小熊秀雄の友だったということだけで彼の名を知っていた。友にも聞いてみると、文学の好きな彼でさえ菊岡久利の名を認識していなかった。

しかし、私がかつて住んでいた鎌倉で、しかも、数年ぶりに偶然に訪れた寿福寺で菊岡
久利の墓に巡り合うということは、小熊を通した何か大きな縁があると思った。

私が、菊岡を知ったのは小熊の死後の昭和15年12月に出た「現代文学-小熊秀雄追悼号」という雑誌の

「白樺の俗謡」

という追悼文を読んだことによる。菊岡は、近しい友を失った悲しみを、情に流れない豪放な筆致で描き、印象的な詩を書いている。白樺というタイトルは、小熊の出身地である北海道を意識したものだろう。


旅が終わり、北海道へ戻って、私は文学辞典で菊岡久利の項を調べた。

菊岡久利(きくおかくり) 1909〜1970

詩人。本名高木陸奥男。青森生まれ。少年時代から社会運動に関心を寄せる。詩集に「貧時交」「時の玩具」「見える天使」があり、戯曲に「野鴨は野鴨」。詩は、野性的なエネルギーの横溢に特色があり、日常的な言葉を駆使し解放的な詩風である。

その後、私は、彼の三冊の詩集の復刻版を手に入れた。

昭和13年12月に出版された「時の玩具」のなかに

「色の衣裳」

という詩がある。この詩は、旅をしている青年が、下関に近づく列車の中で出会った朝鮮人の父と少女のことを書いたものである。

青年は、その少女の異国的な雰囲気の美しさに目を奪われる。しかし、それは一時の事であり少女と言葉さえ交わすことなく別れざるを得ない。

この詩は、その時の朝鮮の少女の印象を描いた美しい詩だった。野性的でも、解放的でもない、菊岡の繊細で詩的な感情がここに表現されている。


さらに発見があった。

昭和15年3月、作家壷井栄が小説「暦」を出版し、その出版記念会が新宿寶亭で行われた。その際の記念写真に数多くの人々と共に、詩人小熊秀雄と菊岡久利が写っている。

主役だった壷井栄はもちろん、夫の壷井繁治、深尾須磨子、宮本百合子、佐多稲子、中野重治、秋田雨雀、原泉、高見順、平野謙らの友人も写っている。なんと、興味深い豪華なメンバーの集まりだろう。

写真の小熊は頬がこけ、見るからに死が迫っていることを感じさせる。旭川時代の精悍な若者の雰囲気はすでにどこにもない。

その中で、菊岡久利は堂々とした体躯、豪放な面構えをして立っている。詩人というよりはスポーツ選手のような風体である。

おそらく、小熊と菊岡が同じ写真に収まったのはこれが初めてで最後ではないかと思われる。

その後も、菊岡の人生を調べた。詩からは離れ、新宿で隆盛を誇った

「ムーランルージュ」

脚本部で活躍していたこともあるらしい。

その後、菊岡は、東京四谷の住まいから、鎌倉へ移り住んだ。妻が、小町通りに「社頭」という和紙専門店を開き、今も、菊岡の娘二人が引き続きこの店をやっていることも突き止めた。

私は1990年代初頭に、鎌倉に4年ほど住んだ。この「社頭」という店で買い物をしたこともあった。しかし、この店が小熊秀雄の友であった菊岡久利の妻が経営していた店であることを知らなかった。

詩人小熊秀雄の人生を調べるということは、その周辺の、知られざる友たちの人生を知ることでもある。




7

2009/6/9  9:03

歌人のこころに触れて  文学

古本屋へ行くたびに、手に取るけれど本棚へ戻す・・・。もちろん、自分には高価な本だからである。

しかし、1年、2年と時が過ぎても、誰にも買われることなく、そのままになっていることがある。

そんな本を、あることが契機となり、手に入れた。

歌人山名康郎(やまなやすろう)の

「冬の旗」

という歌集である。

山名康郎は、大正14年生まれで現在83歳。現役の歌人であり、現在北海道新聞日曜文芸

「北のうた」

というエッセイを担当している。北海道に関連あるうたの数々を取り上げながら、その歌人たちの歌の背景や人生まで踏み込む見事な文章である。

先日の「北のうた」(2009年6月7日)では、山名薫人、つまり本人の父の次の歌を取り上げている。

  この谷の底ひに冷ゆる陽のいろの青白くしてこぶし咲くなり


谷底の太陽の光が陰り、白い辛夷が青みを帯びて見える光景を捉えている。この歌は、1979年、南富良野町のかなやま湖の湖畔展望台に歌碑が建てられたという。私は、その湖を訪ねたことがあるにも関わらず、この歌の存在さえ知らず、まだ見ていない。

私は、北海道新聞を購読していない。だが、ある方の好意でこの記事を見せて頂き、読むことが出来た。つまり、この記事を読んだことが、山名康郎「冬の旗」を手に入れる契機となった。父と子につながる歌のこころを明確に認識するために、どうしても、読む必要があると思った。

この歌の入った父山名薫人の歌集「山峡の湖」もいつか手に入れることができるだろう。

山名康郎の「冬の旗」を手に入れた後、帰り際に、別な本棚で、歌人斎藤史の

「ひたくれない」

という小型の美しい歌集を見つけた。数々の歌の最後に


つゆしぐれ信濃は秋の姨捨のわれを置きさり過ぎしものたち 

という、私の愛する歌の入ったものだった。

結局、この斎藤史の歌集も手に入れて家へ帰った。

家で、じっくりと二冊の歌集を読んだ。山名康郎の「冬の旗」の後半に次の歌があった。


<信濃のひと 斎藤史さんを訪ふ>

激動の日を淡々と語りをり藍色のめがねときどきはずし

山の緑ひたひた胸をひたし来ぬあくがれ遠くこの信濃路に

こころ餓えていたる戦後に君のうた読みてより執し来し四十年

目に見えぬ世界を詠ひくれないにかがやく生を愉悦とするや

若き日の父のえにし訪ふひとは信濃の国の願人
の姥


昭和2年3月、当時の旭川第七師団参謀長であり歌人だった斎藤瀏は、熊本への転勤が決まる。旭川の歌人たちはそれを惜しみ4条7丁目無尽会社楼上で送別会を行った。

その時の記念写真には、斎藤瀏はもちろん、娘の斎藤史、そして山名薫人、酒井広治、飯田佳吉、さらには当時旭川新聞記者だった小熊秀雄も写っている。彼らの間でどのような会話がなされたのか、その写真を見ながら私にはいろいろな想像が浮かぶ。

消え去った時が、この写真に残っている。また消え去った時が歌となって残っている。


かりそめの別れと思へど向かいいて寂しさついにきわまりにけり 酒井広治

歌によき霧華の街のうすぐもり春に先立ちいゆく人かな     小熊秀雄

深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別かるる時となりにけるかも   斎藤史

こよいがぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどいなるかも   斎藤瀏


残念ながら、山名薫人の歌がまだ確認できないが、彼は、この日旭川歌話会の幹事となった。



山名薫人と斎藤史は、こうして旭川で交流があった。この時点では、息子山名康郎は4歳であり、斎藤史への記憶はほとんどなかったと思われるが、後年彼は、こうして斎藤史をたずねて歌を詠んだ。

大正末期から昭和初期の旭川で出会った斎藤、山名の二組の父と子、そして康郎と史へと繋がる歌人たちを結ぶ心を、古本屋で得た二冊で知った日だった。


旭川歌話会-斎藤瀏、斎藤史送別歌会記念写真

昭和2年3月19日-旭川無尽会社楼上

クリックすると元のサイズで表示します


一列目 左から三人目 斎藤史、四人目 斎藤瀏

二列目 左から三人目 小林幸太郎、六人目 酒井広治

三列目 左から六人目 飯田佳吉、七人目 鬼川俊蔵

四列目 左から四人目 山名薫人

最上段 右から二人目 小熊秀雄

1

2009/6/7  16:54

熊の牙-小熊とアイヌ  文学

2009年4月から5月にかけてNHK教育TVで

「ヴィクトル・スタルヒン-野球がパスポートだった」

という番組が4回にわたって放映された。

スタルヒン(1916-1957)は、ロシア革命が勃発とともに両親が日本へ亡命し、北海道旭川へ住んだ。スタルヒンは、旭川で少年時代を過ごし、旭川中学時代に巨人軍へ入団。その後、さまざまな経緯を経て300勝を超える勝利数を得、日本のプロ野球史に永遠にその名が刻まれることになる。

その番組の第2回で、スタルヒンが旭川を出たとき、

「木彫りの熊」

を抱いて出発、その後も先発の時には必ずこの木彫りの熊を持って現れ、ベンチに置いていたという事実が、写真入りで紹介された。それは、旭川のアイヌによって彫られ、スタルヒンに贈られたものだったらしい。スタルヒンにとっては、その「木彫りの熊」は、少年時代をすごした旭川そのものであり、心の支えだったことだろう。

9歳の少年スタルヒンが両親と旭川へ着いたのは1925年(大正15年)だった。

詩人小熊秀雄は、当時25歳、旭川新聞社記者。前年結婚し、その年の初めに樺太で長男焔が生まれている。

旭川の町を闊歩する小熊が、ロシアの少年スタルヒンとすれ違わなかった筈はない。何か言葉を交わしたこともあったかもしれない。

スタルヒンの両親が作ったロシアパンは、当時の旭川では評判が高かった。好奇心の旺盛な小熊は、ロシアパンを、少年スタルヒンから買い、話をした事もあったに違いない。

後年、スタルヒンの両親はミルクホール「白ロシア」や喫茶店「バイカル」を旭川に開くが、それは、小熊が旭川を去ってからのことになる。

詩人小熊秀雄は昭和3年に上京し、詩人としての出発をする。この時、アイヌから

「熊の牙」

を、餞別として貰った。

この事実は、昭和12年10月26日の北海道帝国大学新聞に発表された、小熊自身のエッセイ「望郷十年」で明らかになっている。

その文章の冒頭は、次のようである。

「北海道から東京へ来るとき、旧土人×××さんの家を訪ねた。彼は餞別の意味で一本の熊の牙を私にくれた。牙は家の後ろに立てられた塀の上に突き刺してあった大きな熊のシャレコウベをはずし、それを地面の上に置いて、鉞(まさかり)を持ち出してきて強く顎を一撃してとつたものだ。彼は牙を私に手渡す時に「特別に-」といふ意味をいった。アイヌ人と熊との関係は、熊の霊の中に残忍に鉞を加えるほどに殺風景なものではないことを知っている私は、彼が私のために、熊の顎を砕いてそこから牙を取って私の餞別にした好意をいまでも最大なものだと思っている」

熊は、アイヌにとっては神である。その神の牙を、別れに餞別として渡すことは、そのアイヌと小熊の友情の深さを推し量って余りある。

昭和3年、小熊秀雄は「熊の牙」を、昭和9年にスタルヒンは「熊の木彫り」を持って、同じ北海道旭川から東京へ旅立った。その時、二人は、符号を合わせたようにアイヌ民族の心からの信頼と友情を胸に抱いていたのだった。

6



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ