2016/8/12  7:06

続報 >kan.さんの半日ワーク  2016年

7月9日にアップした記事(↓)の続報です。

kan.さんの1000人規模のワークショップ、満席になったそうです。
スピリチュアル系で1000人規模のワークショップというのは、
なかなかあるものではありません。
すごい、というか、さすが、というか、やっぱり、というか。

引き続きキャンセル待ちを受け付けるようなので、
間に合わなかった方は、諦めずにそちらに登録するのがいいようです。

kan.さんが日々、準備を重ねているように、
私も私なりに日々之精進の毎日。
3歩進んで2歩下がる、くらいならまだしも、
3歩進んで10歩下がってないか!? と思うこともたびたび。
それでも進んでいくしかない。私の人生なのだから。

いつかそういったことも含めてシェアできるといいのだけど、
いったい誰がそんな話、聞きたい?と自分にツッコミが入ることたびたび。

まずは10月15日。
楽しんでその日を迎えられるように、
今日も私を生きていきます。ときに悪戦苦闘しながら。

   *   *   *

来る10月15日(土)に、
kan.さんの半日ワークが千人規模で開催されます。
主催は、船井フォーラム2016。

毎回、秒殺でチケットが売り切れてしまうkan.さんのセミナーですが、
今回は、さすがに行きたい人がほぼもれなく行けるはず。

せっかくの機会なので、見逃してほしくなくて、ご紹介しました。
詳細は、次のURLの頁をご覧ください。

http://funai-forum.com/2016/news/2609/

とりいそぎ!

<2016年7月9日記>

2015/8/25  18:08

彼女の、終わりも始まりもない体験  2015年

ロングロングインタビューは、
クライマックスを目前にして、
ぱたりと動きが止まってしまった。

いったい、何が???

というほどのことでもなく、
本という形態にするにあたって、
そこの部分はどうしてもご本人に
書いてもらうしかない箇所(核の部分)があって、
その原稿待ちの状態が、思いの外、長びいているのだ。

たぶん、ご当人にしてもそれは想定外のことだったと思う。
物理次元を超えたものを
物理次元の器に入れて表現しようというのだから、
文字通り雲をつかむような作業が
そこにはあったということだろう。
なにしろ、プロの文筆家ではないわけだし。

年明けには何とかなるのではないか。
3月中にはいくつかを見せてもらえるのではないか。
さすがに7月にはそれなりのものをもらえるのでは?
と、期待を内包したタイムリミットを
うしろにどんどん倒す自体がやってきて、
現段階では、年内にはなんとか……、
となっている。

とりあえず、辛抱強く待つしかない。
そして、ただ待つだけではなく、
私も先へと進んでいかないと。

というわけで、ブログを再々開します。

本当は、別の表現手段を模索していたのだけど、
インプットばかりが多い今日この頃、
アウトプットがないと、相当につらくなってきた。

ここはもう自分の気持ちに正直になって、
別の表現手段の模索は続けつつ、
ブログ記事の更新を続けたいと思う。

      *

春もまだ浅い日のことだった。
一通の封書が届いた。

「お久しぶりです。
話したいことはたくさんありますが、
それほど多くの時間を割いてもらうのは申し訳ないので、
完結に近況をお知らせしますね」

そこには、一時期よく目にした文字で、
軽快な文章が綴られていた。

「私は最近、『終わりもない始まりもない』体験をしました。
それはものすごい体験でした」

明るい語り口ながら、私の心境は複雑だった。
手紙の送り主である彼女は、今幸せなのだろうか? と。

その少し前に、
「終わりもない始まりもない」体験をしたという
女性の手記を読んでいた。
それは非二元の体験書として
わりと古典の部類に入る一冊だったが、
その3分の1くらいが、
「終わりもない始まりもない」体験によって
些末な事柄の数珠つなぎのような日常を送ることが
どれだけ困難になるかが書かれてあった。
(しかも、そこ止まりで完読していないので、
その先があるのかどうかもわからずじまいときた)

その体験とは相当な違いがあるとは思うけど、
私もかつて、とんでもない意識の広がりを体験したとき、
日常生活に戻るのが相当に困難だった。
当時は、そのとんでもない意識の広がりのまま
日常を生きることが覚醒した生き方だという
これまたとんでもない勘違いをしていたので、
意識が広がっては、狭く窮屈な日常に入り込み、
再び意識が広がっては、狭く窮屈な日常に入り込む、
というチャレンジを、それこそ果てしなく続けていた。
そのときは近くに“仲間”がいたので、
なんとかめげずに続けたけれど、
正直、生きている意味がわからなくなった
(まあそれは、今に始まった話ではないけれど)。

だから、手紙を読みながら真っ先に浮かんだのは、
彼女は大丈夫だろうか? ということだった。

私は先の本を引用しながら、
彼女が今幸せかどうかを訪ねる手紙を書いて投函した。
それが到着しただろう頃に、彼女からメールが届いた。

「私は幸せです。
日常生活に大きな変わりはありませんが、
その体験の前とあととでは、
私の中の安心感が大きく違っています」

携帯メールだというのに、相変わらずの長文、
しかも返事を返すと速攻に長文で返信が届くという神業は、
先へ先へと読むこととを促す彼女の
軽快で力強い魅力的な文体とともに、
今もなお健在だった。

そうして、私はしばらくの間、
彼女の体験に耳を澄ます(正確には“目で読む”)という
心ときめく充実した時間を過ごすことになった。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/4/7  16:13

唯一無二の「個」  2015年

今、スピリチュアル界では、
「アドヴァイタ」が主流らしい。

「個としての自分がいなくなった」

そう表現している人達は、
ほとんどの場合、アドヴァイタの世界観を
表現しているといってもいいのではないかと思う。

アドヴァイタを日本語に訳すと、
「非二元」あるいは「不二一元」。
その意味するところは、
「すべては一つであり、
 個々に分離した存在というものはない」
というもの。

その境地に至ったことをもって、
一つの「悟り」「覚醒」としている人達もいる。
ただし、終着点としての「悟り」「覚醒」ではなく、
はじまりとしてのそれになるらしいけれど。

「すべてが一つの意識だという経験は、
 それまでの『エゴ』しか経験していない意識からすれば、
 すばらしいものだと思います。
 『エゴ』同士はぶつかり合いますから、
 そこにいては苦しいばかりですけど、
 「すべては一つ」の意識になると、
 ぶつかることなく楽ですし、
 『エゴ』以外の意識も体験できたわけですから。

 でも、そこをもってして『覚醒』と呼ぶのはどうでしょう。
 だいたいの人が体験する『すべては一つ』は、
 『集合無意識』の世界です。
 『集合無意識』の世界を体験したら、
 そこから『個』の世界に向かわなくてはいけません。

 個の自分というものを極めていくと、
 唯一無二の自分に出会っていきます。
 そうすると人は、『宇宙が自分を用いてくれた』
 という瞬間を体験します。

 宇宙と一つに溶けさる瞬間です。
 と同時に、唯一無二の自分、
 かけがえのない自分をも体験する瞬間です。

 そのとき人は、人としてのポテンシャルを
 本当の意味で発揮できる場所に立ったと
 言えるのではないかと思います。

 かけがえのない自分を体験するとき、
 自分にしかできないことを知るとともに、
 自分にはできないことも同時に知ります。
 そのとき、他の人も、自分と同じように
 唯一無二のかけがえのない存在だということを
 あたりまえのように知ります。

 唯一無二と唯一無二の存在同士が出会う。
 それが本当の意味で『人が人と出会う』
 ということではないでしょうか」

私がこの話を聞いたのは、
今ほどに「アドヴァイタ」の話が
巷にあふれていない頃だった。

だから、話の中に出てくる
「集合無意識を体験しているだけ」というのが
何を指しているのか、今ひとつ不明瞭だった。

でも、それ以上に心に残ったのは、
「かけがえのない自分」を体験できるということだった。
「かけがえのない自分」を生きられるということだった。
その自分で、この地球と関われるということだった。

「『すべては一つ』に溶けさって終わりだったら、
 この地球を体験する必要はないんじゃないですか?
 すべては一つ、ああ気持ちいい、で終わっていたら、
 いろいろな問題が山積みしているこの地球に
 今、存在している意味はないんじゃないですか?」

人が本当の自分に目覚めるというのは、
それほどぶっ飛んだ道程を行くわけではなく、
それほどぶっ飛んだ場所に出るわけでもない。
しかし、本当にそこに出たいのなら、
それなりに本気で人生に取り組んでいく必要がある。

そういうことを、その話で教えてもらった気がする。

そして、そこから確かに、私の足場は変わった。

すぐに変わったわけではなくて、
最初は「足場が変わることが始まった」にすぎないのだけれど。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/3/20  15:00

ネイティヴ・ジャパニーズ  2015年

より多くを持つものが、より多くの力を持つ。

人類の歴史は、この法則に則って
繰り広げられてきたといってもいいかもしれない。
領土を奪い合い、領海を奪い合い、資源を奪い合う。
そうして自分の力を強大なものにする。
他よりも少しでも長く生き延びるために。

今から2000年前の日本でも、
すでにその図式は成り立っていた。

人々は、生き延びるために日々を生きていた。
そこでは、持てる者は、持たざる者よりも、優位に立っていた。
ある意味、今と同じように。

この考え方のベースにあるのは、
物理的資源は、使えば減る、という方程式だ。
そこでは必然的に、持てる者のほうが、より長く生き延びられる。
つまり、それだけ力を持っているということになる。

しかし、本当にそうだろうか?
使えば減るものだけしか、
私達は持っていないのだろうか?
使えば減るものだけでしか、
人の価値ははかれないのだろうか?

そのことについて、考えを巡らせた女性がいた。
2000年前の日本でのことである。

女性は熟考に熟考を重ね、気がついた。
体力や気力やエネルギーといったものも含めた
形あるものは、使えば減っていくけれど、
その代わりに、蓄えられていくものがある。

その目に見えないものは、
人としての資質、徳と表現してもいいかもしれない。
やさしさ、強さ、共感力、たくましさとも
表現できるかもしれない。

目に見えるものは、減っていく一方でも、
目に見えないものは、蓄えられていく。

それに気づいた彼女には、普通の人が気づかない、
目に見えないものを見て取ることができた。
それを声高に吹聴したり、
それによって人を諭したりすることはなかったけれど、
彼女の発する何気ない言葉の端々に、部族の民は、
彼女が見ていたものを窺い知ることができた。

彼女は、ある部族の長だった。

この人は、ちゃんと見てくれている。
この人は、ちゃんとわかってくれている。

それが部族を平和のうちに治めていた。

やがて部族内に、
目に見えないものこそが尊いものだ
という空気が漂うようになっていった。
現代のスピリチュアルブームを
思い起こしてもらえばわかりやすいかもしれない。

その段階になると、彼女には、
目に見えないものと目に見えるものが
同等であることが見えるようになっていた。

目に見えないものが、目に見えるものよりも尊いのではなく、
目に見えないものと、目に見えるものが、
両方あって、ともに対等であることが、
同時に見えるようになっていたのである。

物理次元があって、非物理次元があり、それが地球。

彼女には、その「ありのまま」が見えるようになっていた。

あるとき、日本全土を制圧しようと、
ある勢力が、彼女の部族に攻め込んできた。
部族が生き延びるためには、
降伏するか、攻防するかの
二者択一が残されているにすぎない。

しかし彼女には、
AかBかの二元の選択ではなく、
AとBからシフトした先へと出ることができた。

(A)降伏するのでもなく、
(B)攻防の策に出るのでもなく、
攻め込んできた勢力も、自分の部族の民も、
全員が満面の笑みで交流し、平和のうちに
もとのさやにおさめることができたのだ。

それは、彼女がその境地に至っていたから。
そして、それが彼女個人の境地に留まることなく、
部族の民全員が、同じ境地に至ることができたから。

それを「共振」と呼んでもいいだろう。
その共振が、敵陣営にも伝播した。

これは、口伝伝承として残る史実だという。

その女性の名は、「日本書紀」にも納められているが、
しかしそこでは、女性の部族は
制圧されたことになっているという。

歴史というのは、そういうふうに作られているものらしい。

彼女のDNAは私達一人ひとりの中に受け継がれている。
本当の平和を求めるなら、私達一人ひとりが、
自分の中に、その女性を見つけるしかない。

自分の内に、神を見つけ、
ホーリースピリットを見つけ、
ありのままを見れるようになるのと同様(同等)に。

      *

先日参加した「ネイティヴ・ジャパニーズ」の
第2回セミナーの「お話」の部分の骨子をまとめてみました。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/3/9  18:27

やるべきことを淡々と  2015年

仕事がらみにしろ、仕事がらみでないにしろ、
セミナー最優先の生活を手放してから、少し経つ。
だから、そのセミナーへの参加を打診されたときも、
すでに入っていた予定をキャンセルすることは頭になかった。

それは2日間のセミナーだった。
シリーズものの一貫として開催され、
今回で7回目を迎えるという。

「内容が深みを増してきたのと、
 参加された方々の反響がいいので、
 もし書籍化できるのならしたいと思うのだけど、
 それが可能化どうか、意見を聞かせてもらえないかしら?
 もちろん、satocooさんが、
 セミナーのテーマに興味があれば、の前提だけれど」

かいつまんでいえば、そういう話。
考えるより先に、「Yes!」という声が私の中で響いていた。

「ぜひ参加させていただきたいと思いますが、
 残念ながら初日はすでに予定が入っているんです。
 2日目だけの参加でも大丈夫ですか?」

そういう参加のしかたを嫌う主催者も多いが、
その方はあっさりと言った。

「もちろん、構いません。では当日、
 会場でお会いできるのを楽しみにしていますね」

「はい。よろしくお願いします」

電話を切ってから気がついた。
もしかして、途中からなら初日も参加可能かも?
ネットで調べてみると、用事を済ませたあとに駆けつけても、
十分にセミナーを堪能できることがわかった。

その旨をメールで伝えると、
その参加のしかたもOKだという。

いつからだろう?
セミナーというものに、
大きな期待を抱かなくなったのは。
それは少し寂しいことかもしれないけれど、
そのほうが健全だと今は思っている。
そして、セミナ―当日のその日も
そんな感じで会場に向かった。

こっそりと部屋に入って、
空いている席に座ったとたん、強烈な睡魔が襲ってきた。
目がチカチカして、開けていられない。
でも、目をつぶってしまうと、
とたんに意識が別の時空に入って、
セミナーどころではなくなってしまう。

なんなんだ、この時空。

ほどなくして、誘導瞑想が始まった。
声が聞こえていたのは冒頭だけで、
あとはばっさり意識がなくなり、
何がテーマの瞑想だったかも
まるで思い出せない迷子状態に。

なんてこった……。

ようやく睡魔から解放されたのは、
グループワークに入ったときだった。

2日目はもう少しましだったけど、
私が「睡魔」と称したそれを、
「泥酔状態」と表現した参加者もいた。

「初めての領域をテーマにするときは、
 みなさん必ず、そういう体験をされるんですよ」

睡魔体験をシェアすると、
主催者はそんなふうに答えてくれた。

2日間のセミナーは興味深いものだった。
テーマそのものは、わりにオーソドックスなものだったが、
そこで繰り広げられている時空は、
他では体験できないものがあった。

実際、私はすっかり忘れ切っていた
ある意識を思い出すことができた。
それは思いのほか、今、私に力を与えてくれている。

そういったものが、
主催者の真摯な探究心によるものは明確だった。

今回のセミナーは、シリーズもので7回目だと最初に書いたが、
ここに至るまでにすでに12年の月日が過ぎているという。
なぜか――。主催者が実際にそのテーマを生き、
それをクリアしてはじめてセミナー開催に至る
という方式をとっているからだ。

セミナーありきではなく、人生ありき。

これを書籍化できるだろうか?

字面を追っただけの書籍化では、
セミナー会場で繰り広げられているリアルな恩恵を
読者にもたらすことはできない。
このいくつもの層からなる時空を、
紙面という2次元に、どう降ろせばいいのだろう?

なんだか途方もないものを相手にしているような気になる。

でも、主催者は、明確にビジョンを持っていた。
これが書籍になれば、多くの人に恩恵をもたらすことができる。
その波及のしかたは、セミナーの非ではないだろう。
だから、セミナー会場で繰り広げられていることが
そのまま本で実現できるようにしたいのだと。

主催者にとって師である一人は、
25年以上の月日をかけて、
いまだにあるワークの書籍化を試みているという。
そのことも、主催者に力を与えていた。

時間のあるこの領域で、
時間を超えた探求を真摯に続けている人達がいる。

書籍化の話が今後どういう形で進んでいくかは、
現時点ではわからないけれど、
そのセミナーをきっかけに、私の中で、
より精妙な領域への探求心に火をつけたのは確か。

以前、関心をもったことがあるけれど、
実際に着手してみると、現実とかけ離れすぎていて、
それ以上、探求する気になれなかった領域だ。

時期というのは、確かにあるようだ。

そして、それが私のメインテーマではないこともわかっている。

でも、そこを活性化することで、
点と点とがつながり、切れ切れの支流が、
一本の本流へとつながっているのを、
深いところで感知するような感覚が芽生えている。

淡々と、やるべきことをやっていく。
それがいつか、見えなかった扉を見せてくれるだろう。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/2/20  15:35

新しい波  2015年

ランチをしながら、
ちょっとした作戦会議を開く機会があった。
作戦会議といっても2人きり。
しかも策士とはほど遠い2人だから、
すぐに結果を出すみたいな話にはならないだろう、
そう思っていたら、彼女の口から
一人の人物の名前があがった。

映像関係の仕事をしている人物で、
今、注目株らしいという。
変わった名字なので、
目にしていれば記憶に残るはずだけれど、
私はまったくのノーマークだった。
その人物と引き合わせてくれるという人が、
彼女の周りに現れたというのだ。

それが私たちの目論みと
どうつながるかはわからないけれど、
なんだか楽しそうな話に聞こえた。

「いいんじゃないですか?
 その話、進めてみましょうよ」

ネットでその人物の公式HPを見るが、
どういう人なのかが今ひとつよくわからない。
「どうしたもんだかなあ……」と思いながら、
届いて間もなくの「スターピープル」最新号を開くと、
なんと、その人物の名前があった。

個人インタビューから、対談から、
果ては、その人物が考案したという
おまけまでついている。

対談を読んで驚いた。
どこかから借りてきた言葉ではなく、
その人の体験から出てきたことがわかる
リアルな言葉ですべてが語られていた。

こんな話し方をするこの人って、誰?

彼は、俳優業、声優業に携わるかたわら、
監督としてもデビューし、
何作目かになる作品「祈り」は、
海外で賞も獲得しているという。
しかも、その内容は、タイトル通り、
スピリチュアルのど真ん中をいくような作品だ。

しかし、私が最も興味を魅かれたのは、
彼が数年前に脳腫瘍を発症し、
それを自分の意識を変容させることによって
消滅させたという事実だった。

「闘病中の1年間は自分の意識と向き合っていたんです。
 自分の過去に抱いたものを全部受け入れて肯定し、
 ゆるすことを続けたんですね。―中略―
 それを続けたところ、
 出なかった声が出始めるんですよ。
 そのうち肩の筋肉も動くようになって、
 最終的には腫瘍が消えました。
 意識が現実を作っているんだと、
 はっきり自覚しましたね」
(「スターピープル」vol.54)

その闘病中の出来事を記した本がある。
『ギフト――天からの贈り物』

今すぐにこの本を読みたいと思った。
久しぶりの衝動だった。
でも、どの書店を調べても、
取り寄せしか術がない。
だったら、と、その本はネットで注文して、
彼が実践したというホ・オポノポノの本から
読んでみることにした。
私はいまだその本を手にしたことがなかったし、
もちろん、実践したことすらなかったから。

そうして、『ギフト』が届く前の段階で、
ホ・オポノポノの日々を過ごしはじめた。

コンセプトは、以前、どっぷりはまった
イメージワークに似ているかもしれない。
でも、大きく違うのは、
4つの言葉を口にすることで、
丹田に確かな存在を感じられること。

そんなささやかな驚きや発見の日々を
過ごしているうちに、『ギフト』が届いた。
思っていた以上に、彼が、次から次へと
スピリチュアルの手法を試していくさまは、
現実逃避が目的の「スピリチュアルおたく」と
重なる部分があったけれど、
大きく異なっていたのは、
彼が現実世界へ戻るために、
スピリチュアルな手法を試していった点だった。

彼は、病気になった自分の
ストーリーを書き換えたのだと思う。
すべての体験を、今後の創作活動に活かすことを踏まえて。
(『ギフト』には、その経緯が読み取れる)

そして、意識が現実を作っているという知識を、
自らの体験で一つひとつ確認することで、
その因果関係を反転させ(=正常な形に戻し)、
意識を「主」に、現実を「従」として
生きるところに出た。

彼のような経験をした人は、
世の中にたくさんいると思う。
その中で、彼という存在が特異なのは、
自らの体験を踏まえた「スピリチュアル」を、
メジャーな作品として世に出せることだと思う。

新しい幕が上がったのかもしれない。

私は彼から「希望」をもらった。
こんなふうに誰かから
希望をもらうなんて、思わなかった。

彼の名は、白鳥哲さん。

いつか彼の映像作品を目にする機会があるだろう。
その日を楽しみにしたい。

私は私のやるべきことを、
日々こつこつと積み重ねながら。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/2/4  16:35

日本人であるということ  2015年

心痛む一連の出来事がまったく想定外だった、
今からそう遠くない時期に出た話。

「日本人というのは、不思議な民族ですよ。
 原爆で、あれほど悲惨な経験をしたら、
 普通なら、目には目を、核には核を、
 と、報復のほうにいきそうなところを、
 日本人は、この地上から
 核をなくそうという方向にいくのですから」

ごく一般的な市民感情として、
そういうものが生まれ、
そういう活動が生まれるというのは、
世界を例にとると、
それほどスタンダードな発想ではないらしい。

今回、こういう事態になって、
フリーで動くジャーナリストたちを中心に、
「憎悪を増幅させることは、本意ではない、
 本当の意味で、世界に平和をもたらしていこう」
というメッセージが発信され、
それに同意する人達がたくさんいたことに、
心救われる思いだった。

また、ヨルダンの人々が抱く心情が、
日本人と近いように思えたことにも安堵を覚えた。

争いを好まず、平和を望む。
個を主張するよりも、協調を選ぶ。

それは日本人の特徴と呼べるものだが、
前者はともかく、後者については、
欧米主義が社会にまん延するにつれ、
あまりよきこととは言われなくなった感がある。

思いは口にしなければ、伝わらない。
自分の主張を通さなければ、願う現実は手に入らない。

でも、今、思う。

思いは、口にしなくても伝わる。
主張を通すことだけが、現実を創造するツールではない。
何もかもを口にする必要はない。

緊迫した状況が続くなか、ネットでは、
「村上さんのところ」というサイトが開設されていた。
そこに行けば、毎日、村上春樹さんの
日常会話的な文章が更新されていた。
(質問の受付は終了しましたが、
 現在もサイトは期間限定で開設中)

安定した語り口に、
大きなやさしさと見識を見て取ることができた。
それに、どれほど救われたことだろう。

まだ師走の声を聞く前に、
2015年の展望というタイトルで
インタビューする機会があった。

「『受け入れる』ということが、一つのテーマになります。
 世界および自分に起こってくることに対して、
 あまり意味付けをせずに、
 それは起こるから起こるのだと、
 素直に受け入れて、淡々といくことが、
 大きな流れになるでしょう」

まさに年明けからそのとおりになるとは思わなかった。

すべてを受け入れて、
心の井戸を深く大きなものにしていきたい。
それが魂の深さにつながっていくと思うから。
それが、未来を開くことにつながっていくと思うから。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/1/30  12:27

祈り  2015年

ちょうど10日前。
緊迫した事態を知ったのは、
テレビのニュース番組だった。

いったい、何が起こっているのか。
どうして、こんなことになったのか。

胸が痛んだ。
無意識に、祈っていた。
それしか、なすすべがなかったから。

すると、耳ではない聴覚が、
いくつもの音の連なりを聞いたような気がした。
音を聞く、というよりも、
音が身体に響いてくる、というような。

以前、聞いた言葉がよみがえってきた。

「この世界では、24時間、絶えることなく、
 誰かしらが祈りを捧げている。
 ある意味、この世界が保たれているのは、
 そういう存在がいるからといえる」

と同時に、自分の無知(無関心)を思い知った。

この世界では、有史以降、戦争が途絶えたことがない。
自分が住んでいる国が平和であっても、
世界中のどこかで誰かが、戦争に巻き込まれている。

銃撃戦に、血が騒ぐ人間もいるだろう。
だけど、その地にいる全員が全員、そうなわけではない。
少なからぬ人数の誰かしらが、いつもどこかで、
ニュースで流れた局面に立たされているのだ。

そのことにまで思いが至らず、
付け焼き刃でしかない、自分の祈り。

誰かに直接、お願いしたかった。
どうか、どうか、よろしくお願いします、と。

そうして考えあぐねた末、
ちょうどメールを出すタイミングだったという、
ていのいい理由にかこつけて、1本の短いメールを打った。
「もろもろのこと、よろしくお願いします」という、
どうとでもとれる内容のメール。

ふだんは、よっぽどタイミングが合わないと、
返信がくることはない。
でも、そのときは違った。
用件の返事に加えて、
「今やっていることは、すべて、
 今、地球で起きていることとのライブです」
という文面のメールが届いた。

そのとき、その人がやっている
儀式なり、セミナーなり、修行のたぐいが、
すべて、今、地球で起きていることと
有機的につながっていることを知った。

どれも、リアルなんだ。

先の「祈り」にしても、
その人が日々やっていることにしても、
どれもリアルに地球とつながっている。

私のしたことを思えば、
祈りを誰かに頼むなんて、
おかどちがいもいいところだと思う。

だけど、自分が祈るだけでは、足りない気がした。

そのうえで、何ができるか。

自分の日常を生きること。
起きていることを、心で受けとめながら、
それに心を奪われるのではなく、
今、自分がやるべきことに、心を尽くすこと。

地球には、有史以前、
上古代と呼ばれる文明があったという。
その時代、戦争はなかったという。
病いもなかった。
だから、ヒーリングという概念もないし、
神という概念もなかった。

ヒーリングは、必要がなかったからだし、
神は、概念を必要としないほど、
誰もが当たり前に認識していたものだったから。

日本を含む東アジアの地域は、
ちょうど上古代文明があった場所だという。
つまり私達のDNAは、ダイレクトにその系譜を
受け継いでいるということだ。

「この世の中で起きていることに
 無関心でいるのは違うけれど、
 だからといって、そこに心を奪われすぎて、
 人間が本来もつ可能性に
 意識を開いていこうとしないのは、
 あまりにももったいない」

時々刻々と変わる状況に、
心を寄り添いながら、
そこに含まれている大いなるメッセージに耳を澄ませ、
受け取るべきものを受け取っていく。

そんなことが続いている。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/1/16  11:44

くびき  2015年

一通の封書。

それは嬉しいはずのものだった。
でも、その手紙を見たとき、
なんだか開けたくない気がした。
差出人は、訃報を知らせてくれた彼女。
案の定、封を開けると、
そこには残念な内容が書かれてあった。

「憤り」という言葉が目についた。
○○ちゃんがらみのことで、
私に対して憤りを感じているというのだ。

久しぶりに手料理をごちそうになったあの晩、
訃報を耳にした私は、○○ちゃんとの思い出を口にした。
その中に、3人でワークをしたあと、
○○ちゃんの身に起きた
ちょっとした事件についても触れた。

手紙をくれた彼女は、
その事件については知っていたけれど、
ワークが引き金になったことは知らなかったらしい。
それは彼女にとって、相当にショックなことだった。

そして、彼女は思い出した。
私が知っていて、
○○ちゃんが知らなかった彼女の秘密を、
私が○○ちゃんに話してしまったがために、
「どうして直接話してくれなかったの!?」
と、後日、○○ちゃんに責められ、謝ったことを。

その2つのことに関して、
私に対して憤りを感じている、と。
本来なら伝えなくてもいいことかもしれないけれど、
溝をつくりたくないから、伝えます、と。
本当は、会って話をするのがいいと思うけれど、
今は忙しくて時間をつくれないので、
気持ちだけ伝えます、と。

なんともやるせない思いがした。

10年以上も前の出来事を、
今、どうすればいいというのだろう?

私にとってその2つは、単に事実であって、
謝るべき過誤のあるものではなかった。
だけど、実際、彼女は傷ついたのだ。
たぶん、○○ちゃんも。

浅いところで生きていると、
知らず知らずのうちに、
人は人を傷つけてしまう。
その意図はなくても、
傷ついた人がいたということは、
傷つけたということだ。

手紙には、直接会って話をするのがいいと
書いてあったが、私にはそうは思えなかった。
会って話したって、言い訳になるばかりだろう。
言い訳を聞いた彼女は、許すしかないだろう。
そのために会うのは、なんだか卑怯な気がした。

それとも、言い訳を聞けば、
彼女の憤りが収まると?
そこに悪意がなかったことを、
私の口から聞くことで、何かが変わると?

よくわからない。
時間をかけて出したひとつの答えは、
事実を受け入れよう、ということだった。

そして、少し経ってから、私は彼女に手紙を出した。
彼女に渡すものがあって、
それは直接会ったときで構わない
という話だったけれど、
手紙をもらうもらわないにかかわらず、
タイミングを見計らって、送るつもりだったものだ。

手紙には、「憤り」については
さらりと触れるにとどまった。

そうして、彼女との縁は永久に途絶えてしまった。

私は何かしくじったのだろうか?

よくわからない。
だけど、彼女が憤りを感じたという、
その引き金になった出来事について、
今、事細かに説明するのは、私の本意ではない。
それほど複雑なことは起きていなかった。
それを今、わざわざ説明するのは違うような気がする。

訃報を聞いたときのあの真っ暗闇は、
これをも予感していたのだろうか?

彼女は私にとって特別な存在だった。
その存在を再び失うのは、かなり手痛い。

でも、それさえも受け入れて、先へ行く。

言葉は、思いが先にあったものだった。
思い。それはつまり、
何を人と分かち合いたいかということだ。
人生に何を見ていこうということだ。

そこをしっかり捉えていなければ、
いらない言葉を発して、
人を傷つけてしまうことも多いだろう。

彼女という存在の喪失を、
上澄みではないところで生きていく
くびきにしようと思う。
タグ: 宇宙 ワンネス 

2015/1/13  18:13

手つかずの知恵の輪の話  2015年

3人でワークをした当時、
私は、でこぼこだらけの自分の人生を
どう修復すればいいのか皆目わからないところにいた。

○○ちゃんも、ある種、苦しい場所にいた気がする。

東京で一人暮らしをしていたけれど、
これという仕事に巡り会えず、
好きな人への思いも片思いで終わり、実家に撤退。
(……だったかな?)
何かを求めていたのに、その何かは曖昧で、
手にすることはかなわなかった。
(……かな?)

そんな印象がある。
だから、あとになって彼女が
見合い結婚をしたと聞いて、驚いた。

それは結婚すれば解決するものだったの? と。

暗闇の正体がようやく見えてきた。
私は知りたかったのだ。
彼女が抱えていたものが、
その後の人生を歩むことで解消したのかどうか。
家族をもつことで、オールオッケーになるくらい
満足のいく人生を歩けたのかどうか。

それはつまり、私自身が知りたかったのだ。
手つかずのまま持っている自分の荷物を
今の人生の途上でおろすことができるのかどうか。

私は幼少時、気づくとすでに、
磨かれていない知恵の輪を手にしていた。
その知恵の輪は、はずさないことには磨くことができず、
磨かなければ、何の価値もないものだった。

他の人を見ると、みんながみんな、
この知恵の輪を持っているわけではないらしかった。
私は磨きたいと思いながら、はずすすべさえわからない、
その知恵の輪を持て余していた。

ねえ、途方に暮れている間に、人生、終わっちゃうよ?
見つめるばかりで何もできないなら、いっそ手放して、
別の何かを手にしたほうがいいんじゃない?

何度、その問答を繰り返しただろう。

当時の○○ちゃんは、私の知恵の輪に
似たものを持っていたような気がした。

ねえ、○○ちゃん。
あのときあなたが持っていたあれは、どうしたの?
持ったまま、逝ってしまったの?
ただ重たい荷物の一つとして?

そうして、気づいた。
自分が甘い言葉を鵜呑みにしていたことに。
「人は、人生でやり残しがあるうちは、死なない。
 寿命が来たということは、
 今回の人生やるべきことは、
 すべてやったということ」
昔、エセ・スピリチュアルの庭で手に入れた格言だ。
あろうことか、私はいまだにそれを信じていて、
今まさに、その格言が脅かされようとしていた。
○○ちゃんの訃報によって。

やり残しがあろうがなかろうが、
タイムリミットは否応なしにやってくるのだ。

私の中が大きく揺れた。

なぜ、この知恵の輪をいまだ持っているのだろう?
何もできないなら、手放して、
知恵の輪のない人生を生きたほうが、
実のある一生を送れないか?

このままだと、「知恵の輪を持っていました。
でも持っているだけで、何もできませんでした」
で終わるだけで、人生を無駄にするばかりではないか?

私は自分に問いかけ続けた。
たぶん、夢の中でもそれは続いていたのだろう。
朝、起きて支度をするなか、一つの理解が訪れた。

知恵の輪は、意味なくそこにあったわけではない。
私が自ら望んで手にしたもので、
他の何かで代替がきくものではない。
私の今回の人生は、その知恵の輪なくしては、
ないも同然なのだから。

切れ切れになっていた導線が、
バチッと音を立ててつながり、
1本の太いコードになった。
(そんな感覚がした)

目の奥が見開かれたかのようで、目の奥が痛い……。

私が知りたかったのは、それだったのか。
それを知りたいがために、こんなにも長い間、
同じ問いを続けていたというのか。

なんともあっけないような、不思議な心境だった。
しかし、今それに浸っている場合ではない。
その日は午後から例のインタビューが入っていた。

大丈夫か、私? 
こんな状態で、人に会っていいのか?
へんに眼光鋭くないか?
と思うものの、自分ではどうすることもできない。
(血走った目をどうやって落ち着かせられるというのだろう?)

そうして、目の奥のほうで、
目を大きく見開きっぱなしにしているかのような
軽い痛みを感じたまま、
長時間にわたるインタビューを無事終えて、
ICレコーダーを止めたときだった。

「satocooさん、変わりましたね……」
と、ひと言言ったあと、私の目の奥を見透かすようにして、
「別人……まったくの別人だ。すごいですね。
 目の奥から、こう、ぐっと……」。

何もかもお見通し……。
とりあえず、悪いことは起きていないと
思っていいのでしょうか、と心の中でつぶやきながら、
「はい。ここ10日間くらい、私の中でいろいろありまして、
 自分の頭で考えるのが大事と聞いていたので、
 いろいろ考えていたところ、3日くらい前に、
 バチッと回路がつながることが起きました」
といったあと、それが起きたのが
今朝だったことを思い出した。
「すみません、3日前ではなくて、今朝でした。
 3日くらい経ったような気になっていました」

その日を境に、溶けたものがある。
知恵の輪を持っている人生を、
受け入れられるようになったのだ。

知恵の輪は、いまだにほどけていないし、
磨くところまでいけるかどうかもわからない。
だけど、そこから逃げないで、
正面に起き続けることが大事なことがわかった。

知恵の輪は、たぶん、私の開眼ツールなのだ。

○○ちゃんの訃報を聞いてから、
真っ暗闇の中に居続けた、2週間。
ようやく脱出できたと思ったのも束の間、
その余波は、それだけに留まらなかった。
私にとって残念な出来事が待ち受けていたのだ。
タグ: ワンネス  宇宙

2015/1/7  14:24

予期せぬ訃報  2015年

夕暮れどきの駅改札で待ち合わせて、
彼女の食卓にお呼ばれに行く。
テーブルに並ぶのは、心づくしの料理の品々。

彼女の家に遊びに行くのは、久しぶりだった。
もちろん手料理も久しぶりだったけれど、
なにより、ゆっくり飲んだり食べたりしながら、
心ゆくまで話ができる機会がうれしかった。

その楽しい時間が暗転したのは、
食事も半ばを迎えたときだったろうか。

「明日、○○ちゃんの誕生日なんですよね」

そうか、誕生日なんだ。

「初めての月命日でもあるんですけどね」

うん? 今、聞き慣れない単語を耳にしたような。
月命日……。月命日? 月命日!

「先月亡くなったんです。
 数年前に一度、克服していたんですけど、再発と転移で」

私はその瞬間、真っ暗な穴蔵に落ちてしまった。
状況はつかめたけれど、心の中はどこもかしこも真っ暗。
それに気づくことなく、彼女は穏やかに話し続けた。

「そんなに長くないと本人も気づいていましたから、
 最後に何をしたい?と聞くと、
 子ども達においしいご飯をつくりたいって。
 5歳と8歳の男の子がいたんです。
 そうしたら、お葬式のときに、
 『ママの作るお弁当がおいしかった』って。
 ○○ちゃんの願いは叶ったんです。
 それはすばらしいお葬式でした」

○○ちゃんは、彼女の友人だった。
職場で出会ったという2人のつきあいは、
私よりも長いものだった。

私はほんの数回しか会っていないが、
今でも顔を思い浮かべることができるほど、
○○ちゃんは印象深い存在だった。
彼女が個性的だったというわけではない
(むしろ常識的なごく普通の女性だった)。
出会ったタイミングが印象的だったのだ。

スピリチュアルに傾倒していた私たちは、
3人でイメージを使ったワークをしたことがあった。
そのワークは思いのほかパワフルで、
後日、私も○○ちゃんも同じタイミングで、
エネルギーのバランスを崩した。

私は一人で過ごして、なんとか事なきを得た。
○○ちゃんは家族の前でそれが露呈し、
やや大事になってしまった。

私はそれを、○○ちゃんの口から直接聞いていた。
そう、確か、電話口で。
それほど親しくもないのに、なぜ?

記憶の糸をたぐり寄せ、
一晩あけて、かろうじて思い出したのは。

そう、確か、お礼の品が届いて、
電話をかけたのではなかったかな?
ワークをしたその日は帰りが遅くなり、
他県に帰るには電車がなくなって、
○○ちゃんは我が家に泊まった。
お礼の品は、少し時間が経ってから届いた。
時間があいた理由を話すには、
大事に至った顛末を打ち明けるしかなかった……。

たぶん、そんな感じ。
驚くほど心もとない記憶だけど、
私の家に○○ちゃんがいる光景に見覚えがあった。

しかし、この真っ暗闇は何だろう?
なぜ、束の間知り合っただけの○○ちゃんの死に、
こんなにも衝撃を受けているのだろう。

○○ちゃんよりも若くして逝った
従姉妹の訃報も突然だった。
でも、こんな真っ暗闇に
突き落とされることはなかった。

○○ちゃんの死と、従姉妹の死と、何が違う?

短くはあったけれど、
私は従姉妹の人生を大団円ととらえていた。
両親、ことのほか父親の愛情をたっぷり受け、
自立心旺盛ながら、甘えっ子の部分も持ち合わせ、
小さい頃から亡くなるまで、
大勢の友人、知人に囲まれ愛された。
好きな仕事の道につき、ご主人との仲もよく、
才能豊かな、美しく可愛らしい女性だった。

じゃあ、○○ちゃんは?
○○ちゃんの人生が大団円ではなかったと?
私は○○ちゃんが結婚して以降の人生を知らない。
よく知りもしない人の人生を、
勝手に判断するのは失礼ではないか?

確かにそう。
でも、ここで大切なのは、
私が彼女の人生に何かを投影して、
それを暗闇として受け取っていることだ。
私は自分が何を見て、何を感じているかを知る必要がある。
そうでなければ、この暗闇の恩恵に授かれない。

すでに1週間ほどが過ぎていた。
タグ: ワンネス  宇宙

2014/12/29  12:55

この世界の成り立ちについて  2014年

モノをつくったり、買ったり、
モノを輸入したり、輸出したり、
そんなシステムが主流の社会に生きていると、
世界は経済で回っているのではないかと
勘違いしたりする。

でも、この世界の芯の部分は、
見えない世界の力で成り立っているという。

知らない人は、知らないまま終わる。
知っている人は、
知っている人達の気配を感じながら、
知らない人主流の世界で、自分の役目を果たす。
知ることになった人は、
知ったことを内に秘めながら、
それまで通り自分の人生を生きることで、
自分の役目を果たす。

この世界にはそういう仕組みがあると
聞いた当初は、雲をつかむような話でしかなかったが、
今は少しだけ具体性を帯びてきた。

「知らない」から「知る」への移行は、
本人からの歩み寄りが必要だという。

「知らない」は「催眠状態」に、
「知る」は「覚醒」に、置き換えてもいいかもしれない。
歩み寄りは、情熱といってもいいだろうし、
研鑽といってもいいだろう。

でも、何に情熱を傾け、研鑽を積めばいいのだろう?

そういう仕組みがあると聞いたとき、
たぶん、私はそういう思いを抱いたと思う。
同時に、意識の奥のほうで、
自分にはもう遅すぎると思った。

そこにおける情熱と研鑽が、
生半可なものではないことを察知したからだ。
それ相当の月日を費やしてもなお
たどり着けるかどうかわからないほどのことだと
目の前の人を見て思ったからだ。

それを教えてくれた人は、
今ではない、他の生で、
いいところまでいったのに、
あと一歩というところで肉体の寿命が
尽きてしまったことを話してくれた。

あの頃よりも理解が深まっている今、わかるのは、
大切なのは、日々の生活だということ。
心を尽くして、毎日を生きていく。
それがベースになっていく。
そこで要求されるのは、どう心を尽くすかさえも、
自分に問いかけ続け、研鑽を積んでいくということ。

最初は心もとなくても、
それしか術がないと腹をくくるしかない。

そして、そういう歩み寄りに対して、
この世には、見えない世界からの救いの手が、
システムとして用意されているという。

こんな話がある。

「そんじょそこらの遠隔ヒーリングを頼むくらいなら、
 自分で日時を決めて、
 ヒーリングを受け取ると決めるのがいい。
 この世界には、祈りに人生を捧げている人達がいる。
 いってみれば、24時間、
 絶えず誰かしらの祈りが飛び交っている。
 ある意味、その人達の存在によって、
 この世界が保たれているといっても過言ではない、
 その祈りにアクセスできれば、ヒーリングは受け取れる」

こちら側に意志があれば、
それを受け取り、フィードバックしてくれるシステムが、
この世にはあるということだ。
タグ: ワンネス  宇宙

2014/12/26  13:08

揺り籠をあとにして  2014年

仕切り直しのインタビューを境に、
話は核心に触れ続けると同時に、
これまで目をつぶってきた
この世の営みの表と裏といったことにも
意識が及ぶ話題が増えてきた。
世界中で起こる出来事へのまなざしが
シャープにならざるをえない類の話だ。

「『すべてはひとつ。私たちは愛そのもの』
 確かにそうなんだけど、
 今、現実に起きているいろいろな問題が、
 その言葉で解決できるかといえば、そんなことはない。
 でも、今のスピリチュアル界は
 そうしたことに目をつぶってしまう甘さがある。
 そんな甘さではやっていけないところまで
 地球は来ているというのに」

では、何ができる? と思うと、
具体的な解決策という点において、
自分には何もできない、という壁にぶつかる。

自分には何もできない、というその事実を
しっかり受けとめることが大事なのだと思う。

「いや、そんなことはない!
 私の愛がすべてを救う。
 だって、私たちはひとつなんだから。
 私が愛を選択すれば、
 やがてすべてが愛を選択する日がやってくる」

確かに、それもそう。
一人ひとりが始められることというのは、
まず、そこからだし、もっといえば、
それは一人ひとりにできる最低限のことだから。

だけど、そう思う心に「アバウト」はないだろうか?

宇宙は、
愛のエネルギーそのものであると同時に、
あいまいさの余地のない、
緻密な数学の世界でもあるという。

つまり、今現在のこの1点から、
確実に、未来の1点が見通せる世界。

それほどの確信をもって、
今の自分を捉えられていたら、
今の自分の選択が、
どれほどの可能性を秘めているかを知るだろう。

でも、そうでないのなら、
現実をもっと見る必要がある。
自分が生きている世界で、
何が起こっているかを見る必要がある。

覚醒するということは、
ありのままに見えるということでもあるという。

眠っている私たちには、
ありのままに見えることはないだろうけど、
ありのままに見る努力はできる。

解決のために何かをするというよりも、
まず、見る。まず、知る。

今の日常を振り返れば、
かつてのほうが幸せ感を
感じられていたのではないかと思う。

あのエネルギーワークをしていた頃、
私はどこかに行けると信じていたし、
私の中には確かに満ち足りた感があった。
その感覚が薄まれば、瞬時に、
広々とした満ち足りた場所へと出ていけた。

だったら、あの頃に戻ったほうがいい?

内なる問いかけに、私は首を横に振った。

偽りの幸福の中で眠り続けるよりも、
私は、真実を知りたい。
真実の自分に目覚めて、
自分にできることをやっていきたい。
もしかしたら、この人生で、
そこまで出ていけないかもしれないけれど、
その礎となる人生としたい。

だからといって、
幸福な人生をあきらめたわけではない。

すべてひっくるめて、幸福な人生なのだ。

ナチュラルにそう感じられるほど、
目覚めたいと思う。
タグ: ワンネス  宇宙

2014/12/16  18:35

暖簾の向こう  2014年

覚醒は、覚醒を目的に起こるのではない、
というのはスピリチュアル界でもよく聞く話だ。
スピリチュアル界に傾倒する人達も、
「そうだよね」といいながら、
その副産物を視野に入れて、探求の旅を続けている。

でも、覚醒は、本当に、副産物でしかない。
何の副産物?
自分の人生を生きるうえでの副産物。

だったら、もっと覚醒者が増えてもよくない?
みんな、自分の人生を生きているじゃない。
みんな、自分の人生を生きているはずなのに、
覚醒しないというのは、
生き方そのものが間違っているからじゃないの?
だから正しい生き方を求めて、
スピリチュアル界に入っていくんじゃないの?

それは、しごくもっともな意見。
ここは眠りの惑星・地球だ。
自分の人生を生きていると思いながら、
人生をまだ始めていない人だっている。

その人生は、本当に自分が望んでいる生き方?
日々翻弄されているその思いは、
本当に自分由来のもの?

私達は、本当の自分にかすりもしないものを、
自分のものと思い込んで生きている。
社会や時代によって植え付けられた価値観を
そっくりそのまま自分のものとして生きている。

地球を体験するために
道具として身につけた着ぐるみを
自分だと思い込んで生きているうちは、
本当の意味での人生は立ちのぼってこない。
本当の意味で生きるということもできない。

真に生きたいと願うのであれば、目を覚ます必要がある。

みんな、目を覚ましたくて、
スピリチュアル界に足を踏み入れる。
その鍵が、自分の日常にあるというのなら、
その日常をどう生きれば、目を覚ますことができるのか、
そのヒントを見つけたくて、誰かの教えに傾倒したりする。

でも、そこで繰り広げられているのは、
自分のものではない色眼鏡をもう一個手に入れて、
それ越しに世の中を渡っていくことを学ぶ処世術講座。
あるいは、自分の人生と、本気で取り組まずに
生きることを学んでいく厭世術講座?

それではだめなのだ。

その色眼鏡は、
それを見つけた人には真実だけど、
他の人にとっては、ただの色眼鏡に過ぎない。

他の人のものの見方ではだめなんだ。
他の人のやり方ではだめなんだ。

目を覚ますヒントは、
自分が生きる人生・日常にあり、
そのヒントさえも、誰かの色眼鏡を使わずに、
自分で見つけ出すしかない。

「自分にしか見つけられない」
「自分にしかわからない」
ということを、とことん受け入れるのに、
どれほどの時間がかかっただろう?

「私には無理」「私一人では無理」
と書かれた暖簾(のれん)を
どれほどかいくぐっただろう?
自分で目を覚ます気なんて全然ないじゃない!
と思うほど、それは幾層にも連なっていた。

こうして私は、眠り続けてきたのだ。

同じ轍(わだち)を踏まないためにも、
私は自分の頭で考え続けた。

「私には無理」って、
じゃあ、誰なら大丈夫なわけ?
チャネラー? 感覚派の人? 抜群に勘のいい人?
でも、みな同じ存在だって、聞いてきたよね?
みな、同じ土壌にいるって、教わったよね?
だったら、そこで立ち止まっているわけにはいかないよね?

当たり前に答えを外に求めていた癖を
手放せたのは、いつぐらいだったろう?

ちょうどそれと時期を前後して、
私は、自分の中にかつてあった
静けさが戻ってきているのに気がついた。

私にしてみれば、閉口するくらい
私の中が雑念だらけになったことのほうが
異例の事態だったのだけど、
自分ではどうにもできないでいたそれが
いつのまにかやんでいたのだ。

そうして、少しずつ、
自分の中がよく見えるようになってきた。

たとえば、袋小路に入り込んだように苦しくなるとき、
自分の中で何が起きているかといえば、
希望や光といったものが感じられず
もがいているときだった。

では、私にとって、
何が希望であり光なのかと見ていけば、
広がりだったり、深みだったり。

その広がりだったり深みだったりは、
具体的に何を指すのかといえば、
シンクロニシティが増えて、
意味ある出会いが増えて、
まだ知らない自分の才能に出会えたりすること。

それに行き当たったときは、びっくりした。

なんだそれ!
そんな絵に描いた餅を、私は欲しかったんだ!
だったら、私が足を踏み入れるべきは、
スピリチュアル界じゃなくて、普通の社会じゃない?

まだまだ前途多難は目に見えていたけれど、
とりあえずスタート地点には立てたかもしれない。

その最中にいるとき、
インタビューの合間に、言われたことがあった。
「satocooさん、変わりましたよね?
 最初に出会った頃からすると、別人ですよね」

自分の中の静けさを見て、確かに、と思った。
でも、それはまだ私自身も想定内の変化だった。
この程度の変化はこれまでも経験したことがある。

「知らないうちに当事者を巻き込んで進んでいく本づくり」
は、いってみれば、私がスタート地点に立てて、
ようやくスタートを切れたようなものだった。

そう、これはまだほんの序の口。
タグ: ワンネス  宇宙

2014/12/3  14:16

開かれた扉  2014年

光と闇が交差するような
一連のことが起きはじめた頃、
ロングロングインタビューは
一時休止の状態になっていた。

先方のスケジュールが過密になって
時間を捻出してもらうのが難しかったのだ。

すでに十分な時間を積み重ねてきたし、
刊行予定と目してきた日も近づいている。
そろそろインタビューは打ち止めで、
書いてもらう約束になっている
手書き原稿を用意してもらえば、完成?
本当に?

今までのインタビューを起こした
すべての原稿に目を通してみた。
なんとなく、流れは見えた。
でも、なんとなく、スカスカな感じ?
肝心要の手書き原稿の部分がないから?
そこが埋まれば、完璧?

どうにも判断のしようがなかった。
何かが足りない気がするけど、
何が足りないのかわからない。
それが手書き原稿で埋まるかどうかもわからない。

そうして、ようやく次のスケジュールが決まり、
久しぶりに顔を合わせたその場で出た話は
意外なものだった。これまでのインタビューが
無駄になるわけではないけれど、
そのステージを一段シフトしたところから
新たに始めることになる、というのだ。

出版社社長は難色を示したけれど、
私は内心ほっとした。
当初打ち立てた本のコンセプトを思えば、
この地続きで完成しても、
それを満たすことはできないから。

変容を促す本をつくっている当事者が
変容を経験しないまま、
どうしてその本を完成できるというのだろう?

その日は、方向性の確認と雑談に終始した。

再び、音信不通になった。
その間、私は、光と闇の山と谷を
何往復もするような日を送ることになる。
そして一連のことがほぼ収束しかけた頃、
次のスケジュールが決まった。
これまでずっと3人体制で
おこなってきたインタビューだったが、
この日に限って1人が欠けることになったのは、
何か意味があったのだろうか?

その日の話はすごかった。
これまで聞いてきたことの、さらに先をいく話。

人間の可能性はそんなふうに開いていくものなの?
そんな仕組みがこの世の中にはあるの?

核心中の核心が、冒頭から紡ぎ出され、
私は耳を澄ませ続けた。
どのくらいの時間が経ったときだったろう。

「え? だったら、
 スピリチュアルに傾倒している人が、
 一番遠いじゃない!」

ごく普通にそう思っている私がいた。
インタビューが始まった1年前には、
その意味さえわからなかったというのに。

まっとうな場所に戻ってこれた感じがした。

ロングロングインタビューの開始から、
すでに1年以上が経過していた。
タグ: ワンネス  宇宙



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