前々回で、1840年のシーボルトの著書「日本」によってほぼ正確な日本地図がヨーロッパに知れ渡ったことをご説明しました。
今回は、アメリカのペリー提督が日本との開国交渉に成功して、帰国後の1855年に部下に命じて作成した地図
「日本列島(Japan Islands)」 を見てみましょう。地図に入る前にペリーの日本遠征について概観しておきます。
1852年3月、アメリカ政府はペリーを東インド艦隊の提督に任命、鎖国を続ける日本を開国させよとの命令を発します。日本に向けて出発するまでの8ヶ月間、ペリーは軍艦の編成、搭乗士官の選抜や日本に関する情報の収集(もちろんシーボルトの「日本」も熟読しました。)に全力を注ぎ、その年の11月ミシシッピ号でヴァージニア州ノーフォーク港を出航しました。
1853年4月、艦隊は香港に集結し、7月旗艦サスケハナ号を先頭にミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号を従え日本に向けて出発しました。ペリーは、長崎へ回航するようにという幕府の要求をはねつけ、久里浜に上陸、応接所でフィルモア大統領から日本皇帝へ宛てた国書を手渡し、来春には回答をもらうため再訪する旨告げ、一旦香港へ引き返します。
1854年1月、ペリーは再度日本へ向かいます。浦賀で交渉したいとする幕府提案を軍事力を背景に拒否、3月8日江戸により近い横浜村で最終交渉を行い、3月31日遂に
日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。この条約によって日本は「下田」と「箱館」を開港することになりました。5月ペリーは箱館港を検分、6月日本を離れ香港に向かい、そこで東インド艦隊を解散、9月帰国の途に着きます。
1855年1月、NYに到着したペリーは政府や市民から大歓迎を受けます。その後、ペリーの「
日本遠征記」が1856年から1857年にかけて3巻に分けて発刊されました。
1858年3月、ペリー心臓発作で死去。享年63歳。
では地図を詳しく見てみましょう。

Lithographer : James Ackerman
拡大した地図のタイトルに、この地図はシーボルトの地図に幾つか加筆修正をして作成したとあります。
日本海は 「
Japan Sea」 と表示されています。
「ラ・ペルーズ海峡」は載っていますが、タタール海峡がタタール湾(何故「湾」としたのか?)とあり、一方カラフトの北部が地図に表示されていないためシーボルトが命名した「間宮海峡」の名前がありません。
江戸末期の国名、地方名、都市名などの表示が、日本(NIPPON)、九州(KIUSIU)、四国(SIKOK)、箱館(HAKODADE)、江戸(YEDO)、伊豆(IDSU)、都(MEACO)などと耳から聞いた音の通り書かれています。
神奈川条約で開港が決まった「
下田」と「
箱館」に下線が引かれています。日本の形状自体は、ペリーの地図よりシーボルトの地図の方がより実態に近いような気がします。
PS ペリーとシーボルトの間の確執
1852年、ペリーが出発に先立ち日本の情報を収集していたところへシーボルトが接近してきます。当時日本から追放されていたシーボルトは、アメリカが日本へ開国要請のミッションを派遣すると聞いて艦隊に乗船させてほしいと申し出たのです。しかし、ペリーは国外追放された人間を連れて行くのは日本側に使節団の動機を疑わせることになり使命遂行の妨げになると判断し、
シーボルトの申出を拒絶しました。
これが遠因となったのでしょう、神奈川条約が締結されたというニュースがヨーロッパに伝わると、シーボルトは 「すべての国の航海と通商のために日本を開国させようとしたオランダとロシアの努力についての記録」 と題する書簡を出版し、その中で 「日本を開国させたことに対して、我々はアメリカ人にではなくロシア人に感謝すべきである。」 とペリーの功績を軽視する見解を披露したのです。
これに対し、ペリーは「日本遠征記」の中で 「シーボルトの書簡は、自分及びアメリカを非難するものであり、彼の利己主義、虚栄心、自尊の現われである。」 と強く反論しています。
その後、シーボルトは、1858年の日蘭通商条約締結により再渡航禁止が解かれたため、ペリー没後の1859年から1862年までの間再び日本に滞在しています。
では、次回は1860年発行のタリス・マップ 「日本と朝鮮」 を検証して見ましょう。(

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