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Kim Jung Mi のこと (1) »
2007/1/7
「Kim Jung Mi のこと (2)」
oto
(1から続く)
「人気スターになったパール・シスターズとキム・チュジャは私の手を離れつつありました。幼い新人歌手キム・ジョンミには私の音楽性を集中的に教え込みやすかったし、彼女はやれと言われればあらゆる誠意を見せてそれに応えようとしました。私が彼女を通じて実現しようとしたことはまさにサイケデリック音楽でした。勿論キム・チュジャやパールを通じてサイケデリック音楽を試みてはいましたが、しかし今度は次元が違った。キム・ジョンミの音楽は、サイケデリックとは何なのかを知った後に創作した本当のサイケデリックだったし、彼女ほどサイケデリックサウンドを理解して消化した歌手はいません」(シン・ジュンヒョン)
キム・ジョンミの舞台デビューは唐突に訪れた。71年12月、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったキム・チュジャのリサイタルが市民会館(今の世宗文化会館)で予定されていたが、当のキム・チュジャは暴徒により焼酒瓶で顔を傷つけられるという事件に巻き込まれた直後で、その包帯だらけの顔ではとても舞台に立てる状態ではなかった。そこでシン・ジュンヒョンが代役として推薦した歌手がキム・ジョンミだった。舞台での彼女の唱法と振りつけはキム・チュジャそっくりで、観客達が錯覚を起こすほどだった。このために彼女は「第二のキム・チュジャ」というありがたくないレッテルを貼られるようになる。舞台は大成功し、大型新人誕生と一気に注目されるようになったが、彼女は意識的にキム・チュジャの陰から脱しようと、新たな独自の音楽世界を作り出すために渾身の力を尽くすようになる。
「あまりに凄い初舞台だったのでどんなに慌てたことか分かりません。四日間の公演は全て夢の中の出来事のようでした・・・女子高を卒業したら他人の真似ではなく私自身の歌を一生懸命歌います」(キム・ジョンミ)
1972年から1974年にかけて、キム・ジョンミはシン・ジュンヒョンのプロデュースにより、計5枚のソロアルバム(「第一集」「第二集」「第三集-Wind」「Now」「1974」)を発表し、次々とヒット曲が生まれる。バックバンドを務めたのは当時シン・ジュンヒョンが率いていた「the men」で、シン・ジュンヒョン(ギター)、リ・テヒュン(ベース)、ムン・ユンベイ(ドラム)、ソン・ハクレイ(サックス・オーボエ)、キム・ジフユ(オルガン)といった面々だった。
「私自身の歌の特徴を捜し出そうと研究しました。踊ることも幻覚的で前衛的な律動になるようサイケデリックを意識して練習しています。これが私の真の姿です」(キム・ジョンミ)
先鋭的なサイケデリック歌手として人気と評価を得ていたキム・ジョンミだったが、そんな彼女を突然の不運が襲う。朴正煕大統領の維新独裁政権下で発令された1975年5月の「大統領緊急措置9号」から始まった「大衆歌謡の放送、公演、販売禁止措置」により、彼女の既発曲を含めシン・ジュンヒョン作詞作曲の曲はその大半が禁止曲となり、アルバムは発売禁止となった。その理由は「低俗な唱法」「退廃的な曲」という名目だった。この禁止処分は12年後の1987年8月に解禁措置になるまで続く。シン・ジュンヒョンは当時の様子をこう語っている。
「1972年でした。政治的には平穏でしたが、突然維新独裁が始まるまさに直前であり、私は一連のヒット曲を飛ばしながら、歌謡界の親分として持ち上げられていた時期でした。ある日、‘大統領府’と身分を明らかにして一本の電話がかかってきました。誰なのかはわからなかったのですが、通話はほんの5〜6分程度で短かったです。‘朴正煕大統領の新しい統治を内容にした歌を作ってくれ’という内容でした。言わば、朴正煕賛歌を作れということでしたよ。私はすぐに‘そのような歌の書き方は知りません。なぜ、わざわざ私に対してそのような注文をするのですか’と反問しました。向こう側にすれば、私の口調が無愛想なように感じたかもしれませんが、自分としては丁重に断ったつもりです。彼らの立場では、そのような拒否自体、有り得ないことだと思っていたようです。その時から、事がこじれてきました・・・特定人の賛歌は私の音楽とは合わないのです。今も昔も私は純粋に音楽をしているだけで、特定の人を称賛したり嫌う手段としては曲を作りません。音楽性を追求する境遇では、そのような歌は作れない筈です。また、私は政治には関心がなかったのですが、内心、朴大統領の統治スタイルが気に入りませんでした。就任初期の約束である民権委譲も守らなかったし。そこに、自分の自負心が作用したことも事実です。‘私はこう見えてもシン・ジュンヒョンなんだ’と、肩に力が入っていた時期でもありましたね・・・電話の一件以後、一言で言えば、音楽をするのが難しくなりました。まず、公演会場に常時警察が取り締まりに出てきました。 独裁が進んだ時期で、政治状況は非常に良くありませんでした。私はむしろ、独裁者ではない我が国の山河と国民のための歌を作ろうと思いました。それが、1972年に"the men"で発表した‘美しい山河’です。その時、私の提案でMBCの土曜日ショープログラムに出演して、この曲を歌いました。その放送でリ―ドボーカルのパク・グァンスは髪を剃り落とし、他のメンバーは耳にヘアピンを刺して長い髪をたくし上げ、長髪をより強調しました。一言で言えば、強圧に対する不満を表明したのです。それがまた憎悪を生みました。これを見た故ユク・ヨンス女史が‘作れと言った朴大統領の歌は作らずに反抗している’と言って怒りを爆発させたという話も聞きました。それからは長髪取り締まりがより激しくなり、自分の曲は継続的禁止処分になりました」
追い討ちをかけるように受難は続く。韓国歌謡史上最大の事件として記録される1975年11月の「マリファナ波紋」である。当代最高の人気フォーク歌手たちがこぞって捕らえられた事件(27人拘束, 9人立件)だが、最大の犠牲者はシン・ジュンヒョンその人だった。当時マスコミが彼に貼り付けたレッテルは「マリファナ親分」というものだった。シン・ジュンヒョンは当時の様子をこう語る。
「その頃、私は米軍ショーで有名人でした。一度はAFKN米軍放送に出演する機会もありましたよ。米軍の間で人気があったため、招請されて録画をしたのですが、終ってから録画テープを見たら、画面デザインがゆがんでいて、むやみに回転し、総天然色であまりに派手なのですよ。一言で言えば、衝撃を受けました。よく聞いたら、それがサイケデリックの手法だというのですよ。‘あ, これは一度習う必要があるだろう’と、ヒッピーたちのサイケデリックロックを探して聞き始めました。それで、その時から外国のサイケデリック曲も演奏してみて、歌謡としても作りました。ところが、我が国の人たちより、むしろ韓国に来ていたアメリカ人たちからの反応がはるかに速かったです。当時、市民会館で公演した時は、とりわけ米国人、特に全世界をさすらって旅行していたヒッピーが多かったですよ。1970年代でしたから。我が国の人々はおかしな目で眺めたのですが、ヒッピーの友人たちは予想外に温和でジェントルでした。何より、私が作るロック音楽が大好きでした。公演が終われば行くところがなくて、私が家に連れていって寝床を与え、肉も食べさせました。彼らが発つ時、感謝の贈り物として渡されたのが、まさにマリファナでした。どれほどたくさんもらったのか、部屋に何本も転がっていました。その時は、マリファナや大麻草という名前も知りませんでした。米国の友人が‘ハッピースモーク’と呼ぶので、そのようなものとだけ思っていました。後になって、周辺の同僚歌手たちがマリファナについて特に意味も無く‘我が家に山のように積まれていた’と言いましたよ。欲しいという人に対して、特に考えもせずに渡したこともありました。その後のマリファナ事件時、彼らが取り調べを受けながら私の名前に言及し、私は突然‘歌手たちのマリファナ供給の責任を負った親分’に変身したわけです。事は、そのようにしてできたのです」
1974年12月、マリファナ調達罪に指定されたシン・ジュンヒョンは、当時の南大門市場女性会館地下の麻薬司法顧問室に連行される。そこで水拷問など、話にできないような苦労を体験した彼は、以後4ヵ月間収監されることとなる。ここで彼の音楽的全盛期は事実上幕を下ろすのだった。それは、シン・ジュンヒョン個人の辛苦というだけではなく、韓国の大衆音楽全体の圧死を意味することだった。以後、1979年12月に活動禁止措置が解けるまでの5年間という長い歳月を彼は沈黙せねばならなかった。
音楽の師を失い、若く幼弱だったキム・ジョンミは隅に追い込まれざるを得なかった。1977年9月に2年あまりの沈黙を破ってアルバムを発表し、初めてシン・ジュンヒョンではない金永光/金傭船の曲で再起をかけるものの、大衆の反応は冷淡だった。結局、このアルバムを最後に彼女は公衆の前から姿を消した。丁度大輪の花を咲かせようと思った矢先に訪れた手に負えない音楽的挫折は彼女から全てのものを奪いとり、彼女の心身を崩壊させる結果となった。
現在、師匠だったシン・ジュンヒョンは地道に独自の音楽活動を続け、同僚だったキム・チュジャは2000年に再びシン・ジュンヒョンとタッグを組んで歌手活動を再開した。一方のキム・ジョンミについては、1970年代末に首都圏の寺院で静養中という目撃情報があった後、現在はアメリカで暮らしているという真偽不明な消息以外には、どんな近況も伝わってきていない。今になって彼女のアルバム「Now」の原盤がコレクターの間で1,000ドル以上で取引されているという事実は、あらゆる意味で皮肉という外ない。
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投稿者: seki
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