序
「そのとき」何があったのか……、それは紀の国の若き海賊、黄泉の脳裏にくりかえし浮かんでは消える想念であった。
「そのとき」かれは炎のなかにいた。まだ幼かった。…………はずだ。幼子は両親の救いをもとめて泣き叫んでいた。遠くで、かれの名を呼ぶ母の声が聞こえた気がする。母…………、母の記憶があるのか…………、このオレに…………。ああ……だれか教えてくれ、だれか答えてくれ……、オレの……母…………? 黄泉は、夢の中で手を伸ばす。力の限り…………。
「そのとき」はまだ、かれは「黄泉」ではなかったはずだ。別の名を呼ぶ母の声を、自分への呼びかけだと理解していた。炎は激しかった。炎は、怒り狂った龍のように壁を伝いやってきた。逃げろッ!! ここにいてはダメだッ!! だれかこの子を…………。せめてこの子だけは…………。白乳色の壁に囲まれた狭い空間は、白い煙で充たされていた。朦朧とする意識のなか、かれは力づよい腕に抱きかかえられ、閉じ込められた。狭い場所だった。窮屈だった。ブシュッと音がして身体が冷えていくのを感じた。カプセル…………、そう、カプセルだ…………。カプセルの窓はいきなり白く凍った。泣き叫んでもカプセルは開かなかった。泣き叫んでも、だれも手を差し伸べてはくれなかった…………。不安を、冷気が包んでいった。意識もせずに、呼吸が止まり……………………。そこで、「そのとき」の記憶は途絶えている。どんなに夢の中ではっきりと再生される夢であっても、目が醒めてしまえばそれは、わずかな、かすかな記憶である。記憶が遠ざかる。いってしまう。母の面影が、忘却されていく…………。オレはまた、すべてを忘れ、青竜島の海賊・黄泉として生きねばならぬのか? 本当のオレがいた、あそこはどこなのか? オレは黄泉ではない。名がある。黄泉ではない。地獄など知らぬ……。冥界など…………知らぬ!!…………。
「そのとき」何があったのか……。目覚めは近い……。遠い遠い、獏とした記憶……。夢が遠ざかる……。火災の記憶……。もう……ダメだ……。恐怖に彩られた記憶…………ではあったが、「そのとき」のことをかれは忘れまいとしていた。しかし、記憶は新たな何ものをも与えなかった。ただかれは、くりかえし同じ場面を夢に見るだけである。何度も何度も、くりかえし…………。
かれは、土から生まれた子供であったという。ある修験者が紀の国のとある霊山の洞窟で、頭の一部だけが土くれのなかから出ているのを偶然に発見したと、後に育ての親から聞かされた。修験者の話では、その霊山とは近隣の子が立ち入るような場所ではないから洞窟遊びをしていた里の子が岩盤の崩落によって埋まったとは考えられず、それに、かれの身体の半分は粘土質の土に固められていたのだという。修験者は掘り出した子を遠くの里まで運び、子のいない夫婦を探して、子と「黄泉」という名を残して立ち去ったと、年老いた育ての父が話してくれた。育ての父、育ての母……とうに名は忘れてしまった。
それからずっと、かれは「黄泉」と呼ばれている。
イラスト:浅見楽人→
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1
夜の海を一艘の船が滑るように走っていく。
波はちいさく、穏やかだ。天の星たちの運行が、船の地図であった。東へ、東へと、船はゆく。細く、白い船体。わずかな風を捉え、ピンと張りつめた帆。甲板が軋む音。藍に染められた世界。無数の星々と満月が、夜の海に輝きを落としていた。
コトコトというかすかな音で、黄泉はめざめた。海賊船にのりこむようになってから身につけた習性だった。すぐに眠れ、すぐに起きることができねば、船の上で生活はできない。
覚醒と同時に潮の香りに包まれた。つめたい風を感じた。寝汗をかいてはいるが、快適な目覚めであった。身体をくるんでいた上掛けに袖をとおして、甲板へと降りる。
黄泉……。不思議な夢の、あるじであった男だ……。
かれは痩身の、背の高い、美しい若者になっていた。かれは黄泉であり、黄泉であることを受け入れていた。甲板に降りる。潮風が顔を洗った。腰まである長髪が風にまたたくので、両手でぐっと押さえて後ろにしばった。黄泉は、顔の左側から耳にかけてわずかな火傷の痕がある。かれを特徴づけ、女を惹きつける模様である。同時に、夢のかすかな記憶と現実をつなぐしるしであった。黄泉は自分の正確な年齢を知らないが、訊かれたときは十九だとこたえるようにしていた。土のなかから掘り出されてから14年が経っていた。
海は凪いでいた。死んだような凪であった。しかし、少し風が出てきたようだ。上着の裾が、風を含んでなびいた。ぐっと視線を上げる。満月に照らされたちいさな島影が見えた。水平線の先に黒く盛り上がったそれは、みごとな龍の形をしていた。青竜島……。かれら、船の乗組員の故郷だ。島は、全体の山の形が海をのたうつ龍を思わせるところから、青竜島の名がある。紀の国から遥かな南の島であった。南海の孤島である。わずかな数の海の男にしか存在を知られていない島だった。島には森があり、真水が湧いている。小規模ながらも田畑もあり、南の斜面には段々畠も整備されていた。青竜島は、黄泉が所属する海賊、美輪一族の根城であった。普段はさらってきた女や海賊団の子供たちが暮らしていた。
海賊の船は、月明かりと星の位置を頼りに青竜島へと向かっていた。帆はわずかな風を捉えて、凪の海を進んでいる。細く、美しい船である。2ヶ月前に、異国の者から奪った船であった。巧みに帆を操っているのは、肌の浅黒い異国の者だ。黄泉は、たった10人の手勢でこの船を奪った。初めての大きな成果であった。積荷は薬草類とわずかな銀しかなかったが、船は神州にはない足の速い船であった。これは使える、と、黄泉は思っている。南海に面した神州の各国が水軍の整備を計画していることは、すでに耳に入っている。これまでの船では太刀打ちできない恐れがあった。足の速い船は貴重である。自前で同じ船を作り、乗り手を養成する必要があった。黄泉の頭の中にはだいたいの人選ができているが、首領の美輪玄光が首を縦に振るかはわからない。年老いて、跡取りに恵まれなかった玄光は、日に日に気難しくなっていた。
「……ヨミ」
自分の名を聞き、ふとわれに返る。話しかけてきたのは、黄泉の補佐を努める青竜島生まれの蜘蛛丸であった。がっしりとした短躯に意思の強そうな眼が光っている。
「こちらからの合図に返信がない。島の頂上の火明かりも見えない。おかしいと思わないか? まさか……」
「検視?」
神州の各国は、内陸のいくさばかりでなく、海上の島々もおのが範図に加えようと必死であった。どのような小さな島も例外はない。青竜島は比較的大きな島であったから、発見されればたちまち他国の領土になってしまう。
島の検視は水軍の仕事であった。まず、その島がどこの国にも属していないことを確かめ、測量をし、石高を算出する。そして、京の帝皇家へ知らせ、自らの土地であることを宣言するのだ。測量することを検視といい、もっかのところ、黄泉がいちばん怖れていることであった。青竜島の住民は、他の南の島々のような先住民ではない。海賊なのだ。水軍の検視が来たならば、たちまち全員捕らえられ、打ち首になるだろう。先住民であれば、神州の人間は教化の義務を負うが、海賊はその限りではない。
島に明かりがない。様子がおかしいという。蜘蛛丸は嘘をいうまい。そういう男だ。
「迂闊に島へは近づけないな」蜘蛛丸がいう。「やられたと思うか?」
「そうだな」黄泉はひっそり静まり返った島を見やる。「2ヶ月も島を離れていたのだから、どんなことでも起こりうるだろう。検視の際に抵抗して虜囚になったか、殺されたか……」
「どちらにせよ、沖に船が一艘も見当たらないのは不思議だな。占領し、兵を島に残すならば、それなりに備えも必要であろう。食料などを詰め込む運搬船が同行していても不思議ではない。隠しの洞窟には多くは停泊させられないぞ」
「ああ」
「どこの国だと思う? 黄泉」
「さあな。検視だとすれば、紀の国か狗の国だろう。狗の、狗神赤西はバカだから、紀の遊馬一騎かな。西国ではあるまい。火国の隼の国あたりも、流れ着くことはありそうだが」
「親父たちは大丈夫だろうか?」
「さあな」
黄泉のいらえは短い。わからぬことは追求しないのが黄泉の流儀であった。想像でものを言って、予断に囚われるのがいやなのだ。
蜘蛛丸は船室へと急いだ。
「みんなを起こしてくるよ」
「ああ」
船室では8人の仲間が眠っていた。2ヶ月ぶりの故郷を前にしても、無理に起きることは黄泉によって禁じられていた。故郷といっても、海賊の島である。お尋ね者を家族と呼び、いつか他国によって奪われる運命のちいさな島にこだわって欲しくないと、黄泉は思っている。まだまだ自分たちは若い。死にぞこないの首領や、犯罪の垢に染まった連中とは一線を画して欲しいと願っていた。
それにしても……。
青竜島に、本当に検視がやってきたのだろうか? もう少し待ってくれれば、黄泉は忸怩たる思いだ。もう少し時間が欲しかった。その時間で何をやりたいのか、それは想念にまとめることなく霧散した。
もう一度、黒い島影を見る。たしかに山の上の灯台に明かりがない。船が島を出ているあいだは、火を絶やさぬのが決まりである。海賊ではあるが、首領の美輪玄光は規則に厳しい。忘れるはずがない。10年来暖かい年が続いたおかげで、どこの国も国力を強めている。軍事力の拡大は水軍へも及んでいた。内海を根城にする海賊のほとんどは組織を解体させられ、いずれかの国に吸収されてしまっている。独自に活動している組織はわずかで、それも遠からずなくなってしまうだろうと寄航する先々で噂になっていた。
(玄光のおやじは、島に閉じこもっているから世の中のことがわからぬのだ)
黄泉には年老いた首領への不満が鬱積していた。だからこそ、自分の船を手に入れたことが幸いでもあった。

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