幽霊街 〜ゆうれいがい〜
○ 雨雲が赤き空を覆う
幾日も幾日も雨は降りつづいていた。増水した河が田を飲み込み、植えたばかりの苗の根を腐らせようとしていた。蓑と笠で厳重に身体を包んだ農民たちが、角を突き合わせて水を流す算段に明け暮れていた。龍之介のところに溜めるしかあるめぇなぁなどとちいさく口にしてぼんやりと遠くを眺める。農民たちの視線の先には水しぶきにかすんだ小さな影がみっつ。龍之介とその妹たちが竹筒を細工して自分たちの田に流れ込んでくる雨水をどこかへ流せはしないかと工夫しているのだった。龍之介の田は水はけの悪いこの土地の中でもいちばん低い場所にある。一時は前国主の狗神赤茘から知行を得る身分となった男だが、遥か北方へ旅に出ている間に国主はその座を追われ、彼は小さな兄弟を連れたままこの土地へやってきたのだ。あいつは強ぇえぞ、ひとりがいうと、農民たちはまたぞろ口を閉ざし、ただただ困った顔をつき合わせるのだった……。
雨にけぶるあぜ道を、ひとりの僧が歩いていくことに、気づく者はいなかった。その僧は笠を目深にかぶり、全身をぐっしょりと濡らしながら、木の錫杖で泥を突いて歩いていた。誰かがその姿を見つければ、哀れみをかけるところだったろうが、あいにく外へ出ている者はわずかで、遠く離れたところにいた。
坊主は、わざわざひとけを避ける道を選んでいたのだった……。
ドンドンドン。
村外れにほっそりと佇む庵の扉を叩く音がした。小さな庵の主人は、囲炉裏にかけた雑炊をひと混ぜすると、鍋に蓋をして、そっと立ち上がった。庵の主人である男は、物陰に隠したものを右手で掴むと、その手を背中に回し、大きな声を張り上げた。
「このような雨の日にどなたかな?」
「旅の僧でございます」表よりいらえがあった。「朝より続く雨に手も足も悴んでおりましたところ、そちらさまの屋根がけぶっておるのを目にし、たまらず暖を求めに立ち寄りました」
声を聞くなり庵の主人は閂を外して僧を部屋へと招き入れた。
「災難だったな」
僧を招き入れた庵の主人は、先ほどとはうってかわった小さな声で僧に話しかけた。
「災難続きは那古城を追われてからずっとでございますよ」僧は雨に濡れた笠を土間に立てかけた。「諸井さまはおかわりなく?」
諸井さまと話しかけられ苦笑いを浮かべた庵の主人は、貧しいあばら家に棲む身としては分不相応な木綿の布を取り出し、僧の身体にかけてやった。
「諸井夕庵(もろい ゆうあん)とは懐かしい名前だ。いまでは村の小僧相手に手習いを教える木村甚平。迂闊な話はなしにしてもらいたいものだな、友房」
袈裟を脱ぎ去り、ふんどし一枚となった僧は、特徴的な細い垂れ目を破顔させ、ドンと囲炉裏端に腰掛けた。彼は囲炉裏にかかった鍋の蓋をちょいと持ち上げ、催促するような顔つきをした後、探るように話しはじめた。
「満永の幼なじみと申す龍之介という男がこの村にはおりますな。あの者は仲間に引き入れましたか?」
「いや」諸井夕庵は首を横に振った。「あの男はひとり勝手にやるのが好きな男だ。それに、わざわざ見込みのない仕事に巻き込むこともなかろうとおもうてな」
「てだれと聞き及びますが」
「強いのだろう。だが、人ひとりがいかに強ようても、国には勝てん。まして、相手は帝皇だ。那古もあいつが仕切っている以上、こちらに勝ち目はほとんどない」
味噌の香ばしいかおりを立たせた雑炊を椀によそってやりながら、夕庵は戸棚の奥から一巻の巻物を取り出して男に手渡した。
「帝皇家について調べ上げたものをそこにまとめておいた。やはり、おぬしが前に申しておったように、帝皇はどうやら代替わりをしておらぬようだ。信じられん話だが、元号こそ定期的に替えてはいるし、大葬の礼も予算こそついてはいるが、執行された痕跡はない。だがな、わしにはどうしても人が死なずに永遠に生きる、不老不死などというものは信じられぬのだ。だからな、まこと自分がやっていることが滑稽に思えてならぬことがよくあるよ。不老不死などという力を持ちながら、また帝皇という最高権力の座にありながら、なぜ帝皇家はいままで不遇に甘んじてきたのだ? そして、なぜいまになってこれほど短期間に全国を掌握した? ありえぬ話ばかりではないか?」
「その答えを真に知るのは狗神時士のみ」僧は応えた。「もしくは赤茘さまが知っておるやもしれませぬ」
「おぬしは何も知らぬのか、任那友房(みまな ともふさ)よ」
「永遠に死なない身体に、さまざまな人物が入れ替わり立ち代わり入ることができれば、一夜にして帝皇の人が変わったようになったのも頷けますが……。それに、わたしは那古を占領されたとき、少しばかり帝皇の姿を遠くから見ることができましたが、あの男は、わたしの知る人物によく似ておりましたな」
「誰だ、それは?」
「龍の国国主、時渡黄泉」友房はよどみなく応えた。「遠くからなので断言はできませぬが、あの顔立ちはなかなかおるものではありませぬ。いえ、わたしは京へ行っておりましたのでさほど彼のことを詳しく知ってはおらぬのですが、那古に戻ってから赤茘さまや満永より詳しく話をききました」
「時渡黄泉ならわしも知らぬではない。だが、あやつは顔に大きな痣があったはず。幼き頃、酷い火傷を負い、その傷が青い痣となって残ったと記憶している。なに、わしだって那古でかの狗神赤茘さまの右筆をしておった身。諸国の国主の似顔絵には眼を通しておったものだ」
「それはそうなんですが……」
「高久満永とは会ったか?」
「いえ」友房は首を振った。「どこへ逃げたのやら、隠れているのやら、見当もつきませぬ」
「よもや、すでに討たれたということは……」
「それはないと断言できましょう。満永が率いているのは、狗の国水軍の三分の二、渚の国水軍の半分、それに龍の国水軍の二隻、都合で八十を超える大艦隊です。それほどの戦力を壊滅させるだけの船はどこにもありません。彼らが逃げているわけは、ひとえに赤茘さまとの合流を望んでいるからです」
「もう五年になるのだなぁ」
五年という年数を聞いた友房は、深くため息をついて椀を置いた。
「五年ということは、赤斗(せきと)さまは、御年よっつ。父の顔を知らぬまま、どうお育ちであるのか……」
「スクスクとお育ちであれば良いが。いまとなっては、我ら狗の残党唯一の希望は、赤茘さま、お豪さま、赤斗さまだけじゃ。あの日……、まさにあの日のことだ……。空が赤く染まったあの日、バルディアという場所へ向かっていたはずの笠松道心が、全軍を率いて那古へ押し寄せてきたあの日、まさにあの日から世の中はすべて変わってしまったのじゃ。十万の大軍に襲われ、火の海になった那古の街のことを思い出すたびに胸が痛んでならぬ」
「はじめは、道心の企みと高を括っていたのでしたな」
「そうとも! わしらは高を括っておった。まさか、道心などという古臭い男が、不可思議の城である那古を統治することなどできるものではないと高を括っていたのだ。ところがどうだ! あの帝皇というのが! あいつは那古の秘密を我がことのように知っておったではないか! なぜだ? なぜ我らとてすべてを知っておるわけではなかった那古のことをずっと京にいたはずの帝皇が知っておる? それに、なぜ笠松道心ともあろう男が錯乱して果てねばならなかった? わしには合点のゆかんことばかりだ。帝皇の瞳に見つめられると人格が変わって何でもいいなりになると聞き及ぶが……。白鳥音戯もその不思議の技にやられたか?」
「白鳥音戯……」
友房は苦虫を噛み潰した。
「くそ、忌々しい雨め!」
諸井夕庵は憎々しげに吐き捨てた。友房はそれにこう応えた。
「身体が凍るのはたまりませんが、わたしは雨は好きですよ。だって……、あの赤い空を見なくてすみますからな。あの赤い空が人を狂わしておるのでございます。いまや世は狂人ばかり。世直しは……、遠くございますなぁ」
日がくれるころ、元狗の国侍従長任那友房は、元狗の国右筆諸井夕庵のあばら家を出た。
彼が、那古城を追われるように出てから五年の月日が流れていた。
かつての家臣たちはちりぢりとなり、息を潜め、人目をはばかり、貧しく生計を立てながら、決起の時を待っていた。
彼らが捜し求める主は、神州の英雄、狗神時士の血を引く、狗神赤茘(いぬがみ せきれい)であった。バルディアンによって拉致され、北国へ連れ去られていた赤茘は、狗神時士とともに天より降臨するところを目撃されて以来、行方不明となっている。しかし、彼の特徴的な赤い瞳は、幾度となくさまざまな地域で目撃され、その不可解な行動とともに人々の口の端に上っていた。それによると、狗神赤茘らしき美しい少年は、巨大な供回りひとりを引き連れ、一角の馬に乗ってどこからともなく現れては何処となく去っていくのだという。友房は、諸国を歩き続けながら、赤茘の消息を辿り、歴史ある狗の再興に立ち上がってもらうよう説得するのが役目である。
一方、赤茘の妻、お豪は遠く南海にあるとも、外国に落ち延びたともいわれ、その愛息赤斗とともに、消息は庸としてしれない。しかしながらこちらには元狗の国水軍司令官である高久満永が同行し、赤斗の守役も同時に務めているとされている。彼らはバルディア攻略戦以降、狗、渚、龍の水軍が合同して一国をなしているとも伝えられるが、詳細は不明なままであった。
神州は、首都を京から那古へと移し、暗黒を持って支配されようとしていた。
暗黒の神はふたたびこの地に降臨した。その名はラゥル。遥か古代からの記憶を引き継ぐただひとりの男であった……。

0