○谷間の街
人々のざわめきが夜の谷間を満たしていた。
「へぇ、こりゃあ……」
赤龍進は感心したように大きな目をさらに見開いた。
強く青い光に包まれた場所に辿り着いてみると、そこには石畳の簡素な街並みと昼間のような喧騒があった。人々はまるで夜であることを忘れたかのようにひっきりなしに道を行き交い、大声で怒鳴りあって商いをしたり、若い女性をからかったり、木の板に駒を載せて遊ぶゲームに興じていたりした。小さな集落であるのに飲食店が多いらしく、銀の盆を抱えた若い女性が大きな肉の塊だの、焼きパンに魚と野菜を挟んだもの、揚げた芋を山盛りにした皿などを外にしつらえた机に運んでは料金を受け取っていた。野外に設置されたテーブルだけで五百以上はありそうだった。客と店員と呼子はひっきりなしに動き回り、その間を荷物を満載した馬車が大きな音を立てて行き交っている。あまりにけたたましいので昼間とまちがえそうだが、実際は夜も更けた、深夜の時間帯なのだ。
「那古みたいだな」
赤龍進が赤茘の横顔をチラリと見ながらいった。狗の国の国主であり、那古をだれよりも愛していた赤茘の表情は変わっていなかったが、幼き日に濃に人質として取られ、神州のどこの土地とも違う故郷を想い続けてきた赤茘の、那古に対する執着は余人には計り難い大きなものがある。
その街は、まさに那古のようであった。そもそも神州の多くの地域では、獣の肉を食す習慣がない。これは、古くよりキマイラの感染を恐れたことによるものだ。はじめは生食のみが禁じられていたが、エマ教の普及によって全面的に獣肉を喰らうことが忌まれるようになった。ただ清浄な大地であった那古においてのみ、家畜が育てられ、鶏、豚、牛、猿、犬などが食されていた。実際、葡萄酒を生産していた那古では、獣肉は野生であれ家畜であれ盛んに食べられていた。「血の滴る肉を食い、血のように赤い酒を呑む」と他地域から敬遠されてきた狗の国は、征夷大将軍家の家柄ながらどこか差別的に扱われることが多かったのだ。蝦夷の防衛壁の外側にある奇怪な国、それが一般的な神州人が持つ狗の国の印象であった。それは、同じように清浄な大地に属しながら香や湖などの国と接してきた濃の国でさえそうだった。
だが、ここは狗の国ではなく、以前の紀の国の南部地方である。ここは狗より文化的に関西に近く、伊勢とはまた文化的にも違うはずで、このような小さな谷間の街で狗と同じような風習が残っているはずもなかった。
赤龍進が街の入口にしつらえてある馬留めに鼻先を結わえていると、ひとりのほろ酔い加減の男が近づき話しかけてきた。
「この一角、ユニコーンじゃないか。どこのバルディアでこさえたもんだ?」
赤龍進は男の言葉にぎょっとした。
「バルディア? んなもの知らねぇな。これは業者から買ったものだ」
「業者から買っただと? はん! じゃあ、その業者がバルディアンだったってことだな。バルディアンの業者からものを買えるんだから、あんたらもバルディアンってわけだ」
「あんたが何を言いたいのかさっぱりわからねぇよ」
赤龍進は大げさに首を傾げてみせて、赤茘がゆるりと馬を降りるのを待ってから、馬留めを管理している男に尋ねた。
「揉み手なんかしやがって、金が要るのか?」
「そりゃもう!」中年で前歯が飛び出した小男がしきりに両手を揉みしだきながら近寄ってきた。「その馬はユニコーンの改良型でやんしょ? ユニコーンの角とペガサスの翼を持つ……、もっとも翼は普段は見えないようにしておいて、必要なときだけ電気的に発生させる。しかも、白馬! そのようなすばらしい馬をお持ちのお客さまは初めてでございますよ! バルディアのお方であられますね? どちらのバルディアから来なさった?」
「バルディアなんてもんは知らん!」赤龍進が一喝した。「金はいくらなんだ? ……、まったくこの程度の金を受け取るのにわけのわからん御託を並べやがって! この馬は賢くてな、後ろの荷物を少しでも触ると蹴り上げられて死ぬことになるから用心するんだな」
「そんなことはもう、まったくございませんので安心して楽しんでください。楽しまなきゃ生きてるってことになりませんからな」
「旦那ぁ、どうもおかしいな、この村」赤龍進は赤茘の小さな身体に覆い被さるようにして伝言した。「バルディアや、馬のこと知ってるみたいだぜ? なぁ、そんなことってあるのかい? ふつうの神州人がさ、バルディアのことを知ってるなんて」
「わからぬでもない」赤茘は応えた。「紀の国の遊馬一騎は、キマイラの発生母体、桐生葉子自身だったはずだ。紀の国はもっともキマイラに汚染されていた地域でもあり、なんらかの形で過去の、そしてバルディアの記憶が流出した可能性はある。しかし、ではないのであろうな」
「ではない? キマイラからの情報流出じゃないってのかい?」
「だろうな」赤茘は不敵に凶暴な笑みを浮かべた。「ああ、なんと煌々と明るい夜であろう。星がまったく見えぬではないか」
夜とはとても思えない雑踏を、ふたりは並んで歩いた。いたるところに白熱灯があり、通りを昼間のように照らしている。呼子に何度も呼び止められながら、ふたりは通りを歩いていった。にぎわっていると思えた谷間の街であったが、メインストリートを抜けてしまうとそこから先は住居すらなく、細い街道が山中へ延びている光景になっていた。ここは紀南街道の宿場町。かつては高野一族が根城にし、合法的にしのぎを得ていた場所だった。もっとも、羽振りのよさそうな客はこの先の山中で身ぐるみをはがされることになったのだが……。いずれにせよ、これほど栄えるいわれはなく、また、白熱灯やそれを灯す電気などあるはずもない場所であり、時代なのである。
「どうしてここだけこんなににぎわっているんだろう?」
という疑問は赤龍進だけのものではなかったはずだが、赤茘はそれに応えず、しばらく星の見えぬ夜空を見上げてから踵を返した。肩の辺りで切り揃えられた髪がふわりと揺れ、心地よい香りがひろがった。その姿は、優美を絵に描いたような美しさだった。
にぎやかな通りにふたりがふたたび姿を現すと、先ほどつれなく袖にされた呼子たちが群がってきた。
「だからいったろ?」赤い紅をつけた女が赤龍進にしなだれかかっていった。「この先なんて何もありゃしないのさ。紀南街道をどこまで行っても、たとえ京まで行ったところでこれほど楽しめる場所はないよ。飲んで食べて、抱いてさ、楽しんでってよ」
「ここは高野一族の縄張りじゃなかったのかい?」
と、赤龍進が女に尋ねた。
「あら? 旦那、知らないの? 高野一族は狗を追われ、紀を追われ、とうの昔にここを立ち去っていったよ。あいつら、狗神赤茘という男を見込んで、仕官しようとしたのさ。狗の国がよほど恋しかったんだろうね。水軍の高久満永さまは話のわかるお人だって聞いていたしね。ところがさ、ほんのわずかなすれ違いで仕官できずに、元の悪い癖が出て追剥のようなことをしながら機会をうかがっていたんだけど、そこに現れたのが、青い眼をした白髪の老人でさ、その男に襲い掛かってみたらそれがとんでもない不思議な業を使う男で、しかも、老人には剣士がついていて、それがなんとまぁ、湖の国の御大将の廓氏雅だったのさ。散々にやられていまじゃみんなちりぢりになっちまったよ」
「詳しいのだな」
ふいに赤茘が口を挟んだ。
「そりゃもう……。あら、この子、かわいいわね。いくらなら一晩貸してくれるの?」
「この方はオレの主人だ」赤龍進が血相を変えた。「オレさまの主人を買おうなんてふてぇアマだな! さっさとあっちへ行きやがれ」
「冗談よ、まぁ、そんなに血相変えてさ! そんなことよりあたしのところの料理は世界一おいしいわよ。そこの席に腰掛けて、好きなだけ食べてってちょうだいよ」
女が指差す先にはとうどふたり掛けのテーブルが置いてあった。まだ相手を警戒していた赤龍進をよそに、赤茘は勧められるままその席の方向へ歩いていき、静かに腰掛けた。

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