「世界に生じている問題の根源は自己愛にではなく 自己嫌悪にある」
(E・ホッファー)
このことばに、意表をつかれる思いと、妙なうなづきを覚える。
それは、ことばの上では、苦の根源を我愛と見て、穢土・穢身を厭えと教える
仏教と、一見矛盾するように見えるものの、考えてみれば 自己嫌悪の根に
あるのは 深い我執であり、また「利他をもって自利とする」のが大乗の菩薩
という存在だから。
「自利に由るがゆえにすなわちよく利他す」等と言われるように、
自利を離れて利他というものがあるわけじゃない。
本当に自分を愛せないとき、私は自暴自棄になる。
そして自己嫌悪から出てくるのは自他に対する破壊と暴力。
また現代社会は「努力しても報われない」という感覚が襲う、
「希望がもてない時代」といわれる。
しかし絶望の底にあるのも深い我執なんだろう。
キリスト教では絶望こそもっとも深い罪とされるが、それは神の愛を
疑うものだから、と教えられた。
『歎異抄』にも「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、
罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とあるように、
絶望は宿業の身を知らない自らの「はからい」から起こる懈慢だろう。
「勝ち組」の居直りも「負け組」の絶望も、資本主義社会の「評価=お金」
の価値観にとらわれて自他を評価することから起こってくる。
その時「南無阿弥陀仏」という、自利利他成就し願に報いた世界からの
呼びかけは、たえず自己嫌悪と絶望のうちに閉じこもろうとするこの懈慢
な私のはからいを、どこまでも破ってくる智慧のはたらきとしてある・・・、
・・・そう思える。

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