2015/10/2  9:30

邪馬台国を行く I  


景初2年、魏の明帝(曹叡)は公孫淵を討ち、帯方郡を含む朝鮮半島を制圧している。

明帝が遼東の公孫淵を討伐したのは、朝鮮半島にある楽浪・帯方の両郡に於いて、魏に対する大規模な反乱(黄巾の乱に代表される)が、起こるのを恐れたからなのだ。

当時、高句麗が朝鮮半島の東半分を支配していた事を考えると、当然の結果であったとも言えよう。

3世紀、朝鮮半島の南半分は、いわゆる三韓(馬・弁・辰)に分かれていて、互いに対立し合っていたのだが、間接的には魏や高句麗の影響を多分に受けていたのである。

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 ( 3世紀の朝鮮半島 )

この様な事から、高句麗を除く朝鮮半島の大部分は魏の勢力下にあって、楽浪・帯方の両郡は、実質的に魏の植民地政庁であった。

従って、倭人伝にある ”郡より倭国に使せしむるに 〜 差錯する事を得ず” という文書の主体性と言うのは、帯方郡の使者と一大率と考えられる。

つまり、一大率という大官のバック(後ろ盾)には、魏の勢力があって、この一大率も帯方郡から派遣された、女王国の監察官であったと思われるのである。

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 ( 島根県 土井ヶ浜遺跡出土 弥生人女性の頭骨 )

倭国において、3世紀半ばに統一国家は存在していなかったとするならば、30余国が畏怖するような”一大率”を、邪馬台国が単独で伊都国に駐留させる様な実力があったとは考えにくい。

前回にも述べたように、各国王が権力に服属するのは、実力による征服か屈服しかないのである。

30余国が畏怖する理由には、一大率の後ろに魏の力が見え隠れしているからなのだ。

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 ( 島根県 荒神谷遺跡 埋納された銅矛と銅鐸 )

即ち、卑弥呼と言う呪術的統一者に支えられた邪馬台国は、政治的にも軍事的にも30余国を従える程の実力は無く、魏の政庁である帯方郡の管轄下にあったと考えてもおかしくはない。

とすれば、一大率は帯方郡から派遣された邪馬台国の監察官であり、そのバックには魏の勢力が存在していたのである。

この状態は、戦後のアメリカ占領下の日本に認める事が出来る。

つまり、国内の政治は日本政府が行い、アメリカはGHQという組織を通じて、その後方から監視・監督するという関係によく似ているのである。

それが良いか悪いかは、あえてここでは述べないでおこうと思う。

続く・・

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