2015/9/29  15:56

邪馬台国を行く 番外編  


倭国が、邪馬台国の時代であった3世紀、中国では後漢の献帝が、表向きには魏王朝の帝位に就いていた。

しかし実際のところ、権力の掌握は、曹操から続く曹一族が握っていたのである。

魏の建安25年(220年)、曹操が亡くなった後、すべての実権はその子である曹丕が、受け継ぐ。

しかしして、曹丕による帝位の乗っ取りが、行われるのである。

乗っ取りは、禅譲という形をとった。

漢王朝最後の皇帝=献帝が、魏王の曹丕に、”天命は我が家を去った 帝位にふさわしいのは、曹丕である したがって、おまえが次の帝位に即け” という詔を出す。

曹丕は、突然の天命に恐れおののき、その詔を受けない。 再度、詔が発せられるが、曹丕はなおも受けない。

亀甲が焼かれて、占いが行われ、曹丕の即位は国民の望みである、という結果が出され、やむなく曹丕は禅譲を受け入れて、帝位に就いた とある。

 クリックすると元のサイズで表示します

 ( 魏の曹丕 後の文帝 )

しかし、事実は違う。

曹丕による様々な強要や讒言・脅迫があり、身の危険を感じとった献帝は、帝位を譲位せざるを得なかったのである。

譲位を受けて、曹丕による魏王朝が始まる。 真っ先に曹丕が行ったのは、粛清であった。

禅譲に反対したという理由で、兄弟である”丁儀”・”丁翼”の2人が殺された。
彼らは、曹丕の実弟である”曹植”を、帝位に就かせようと画策したのである。

古代は、民主主義ではない。

実力で、権力を掌握したものが、治世するのである。

乱世の生き様は厳しく、身内であっても、危険な人物は殺しておかねば、自身の安全を担保することは、出来なかったのである。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 司馬懿 字は仲達 )

景初2年、魏の司馬懿(仲達)が遼東を平定し、魏王朝は朝鮮半島に、楽浪・帯方の両郡を置いて、実効支配に乗り出す。

その半島の政情が安定したが故に、邪馬台国は魏に使節を送ることが、出来る様になったのである。

卑弥呼は、様々な貢物を魏に贈っているが、その中に男女生口と言うのがある。
生口というのは、生きている人間の事で、奴隷と言う”献上品”である。

献上された男女の生口は、魏の朝廷に留め置かれる事はほとんど無く、皇族や臣下の将軍、高級官僚や大寺に下賜されるのが常であった。

卑弥呼の贈った男女生口は、奴隷と言う扱いであったから、それを貰った者は、転売したり、謝礼と言う名目で、贈答したりしたのである。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 阮籍 竹林の七賢の一人 )

晋書・本伝に、倭国生口として、”登眉”と”夷奈”という名前が見える。

この2人は、正始8年(247年)に、邪馬台国女王であった壱與の貢物、生口30人として献上された者であった。

登眉は女、夷奈は男の生口である。

登眉は高級官僚であり、竹林の七賢と謳われた”阮籍”に、夷奈は天竺僧の”竺高座”に、それぞれ下賜された。

その後、晋書・本伝は、この2人がどうなったのかは、詳しく伝えてはいない。

ただ言える事は、古代に於いて国家の存亡を担保しようと思えば、たとえ人間であろうと貢物として、権力の中枢に献上しなければならない、という事実だけなのである。

0

2015/9/27  10:00

邪馬台国を行く H  


倭人伝を読み下して行くと、一大率という聞きなれない言葉が出て来る。

女王国より北には 特に一大率を置き 諸国を検察せしむ 諸国 これを畏憚す 常に伊都国に治す 以下略

解読するに、”女王国の北には 特に一大率と言う大官を置いて 諸国を統治させている 諸国は これを恐れ憚っている その拠点は 伊都国にある” と書かれているのだ。

この一大率については、現在のところ、畿内説・九州説のどちらも、これは邪馬台国が、意図的に伊都国に駐留させて、諸国の取り締まりを行っている官憲である、と大筋で認めている。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 倭人伝 紹熙本 原文 右編中央に一大率の記事が見える )

ところが、以下の倭人伝に、奇妙な事が書かれているのだ。

京都・帯方郡・諸韓国に詣り 及び郡より倭国に使せしむるに 皆 津に臨んで捜露す 文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ 差錯することを得ず 以下略

記載されている意味は、”魏や帯方郡・韓国などからの交易品は すべて港で検査する 文書や貢物を女王の所に送るときの手順は 厳格に決められている” というものである。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 福岡県 糸島市 平原遺跡 方形周溝墓の復元 )

交易品と言うのは、言わば国と国との貿易によって、成り立つものである。

古代において、これは国と国との間で、責任を持って取り引きする品物なのだ。

その交易品を、すべて港で検査し、しかも女王に届ける手順は、厳格に決められているとすれば、これは少しおかしな事になる。

一般には、まだ3世紀半ばに倭国を統一するような国家は、存在していなかった、と考えられている。

古代において、各国王が権力に服属するのは、実力による征服か屈服しか無いのである。

そう考えると、邪馬台国と言えども、実質的に30余国を政治的・軍事的に従える程の実力は無かった、と思われるのだ。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 奈良県 柳本町 中山大塚古墳出土 内行花文鏡 )

これは30余国が、卑弥呼を呪術的なシャーマン(巫女)としての地位に祀り上げる事で、宗教的な統一を図っていたと考える方が、スムーズに理解できると思う。

とすれば、邪馬台国の任命した一大率が、すべての交易品を検査したり、諸国を検察するなどと言う事は、到底考えられない。

その実体は、少し違うところにあると思われるのだ・・・。

続く・・

0

2015/9/22  10:00

邪馬台国を行く G  


古代、日本の青銅器時代は、大きく2つの文化圏に分かれるとされてきた。

1つは、畿内を中心とする”銅鐸文化圏”、もう1つは、北九州を中心とする”銅剣・銅矛文化圏”である。

これらの文化圏は、瀬戸内海沿岸を境界として、それぞれ東西異なる文化を持っていた、と考えられている。

ただ、境界と言っても、完全に分けられている訳では無く、その中間地域では、互いの文化が混ざり合い、双方の青銅器が遺物として出土しているのである。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 井上光貞 著 日本の歴史 I より出典 )

ところが、近年の発掘調査の進展から、九州の吉野ヶ里遺跡で銅鐸が発見されたり、逆に畿内で銅剣が出土したりと、その考察に疑問を投げかけるような状況が見られるようになった。

しかし、そうは言っても、銅鐸や銅剣の分布状況に大差はなく、そこには異なる文化圏としての有意が、やはり認められているのである。

ただ銅鐸については、少しばかり興味深い研究と考察が成されているので、略儀ではあるが紹介したいと思う。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 出土した銅鐸 ”少しづつ形状が異なる” )

銅鐸は、銅剣や銅矛に代表される弥生時代の製作物であるが、「古事記」・「日本書紀」などの古文書には、全く登場しない謎の青銅器なのである。

以下に、その考察の概要を引用したが、銅鐸は邪馬台国との関連性に於いて、無視出来ない存在かと思われるので、長文ではあるが辛抱願いたい。


 銅鐸の出土状況の特徴

@ 畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。

A 銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とくべつな施設もなく埋められた状態で、発見される。

B 銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。

C 古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえ る。

D 新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。

E 新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。

F 銅鐸は、祭器であったといわれている。 しかし、他の祭器といっしょに見出されることは、ほとんどない。

G 徳島県 麻植郡 牛島村 出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわされたとみられるものもある。

H 銅鐸の発見は、予測は困難である。 これまで出土した銅鐸のほとんどは、農耕などのさいに、偶然みいだされている。

銅鐸は祭器と見られている。 しかし、祭りのさいに、古いものも、新しいものもいっしょに埋めるのは不自然である。

銅鐸は、祭りの道具でありながら、祭りの過程で、祭りの目的にそって埋められたとは、みなされないようである。


これらのことについての、元産能大学教授 安本美典氏 の解釈。

@ 銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情が生じた。

そのような事情とは、外部勢力による征服であろうと考える。

A 銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵するほど、はっきりとした、そして、宗教的な意味をもつ製作物である。 それが、古伝承に、痕跡をとどめていない。

これは、古伝承が、銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内において発生したものではないことを物語る。

それとともに、銅鐸をもつ大和の先住民が、三世紀の後半に、九州からきた神武天皇によって減ぼされたのであろうとする推測を、支持するものと思われる。

また、713年(8世紀)、大和の長岡野で、銅鐸が発見されたとき、人々は、これを怪しみ、『続 日本紀』は、「その制(形)は、常と異なる」と記している。

これは、当時の大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかったことを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。


いっぽう、大和朝廷が大和で発生した説をとかれる考古学者の解釈。

@ 個々の村にわかれて生活をつづけていた人々が、そのムラの枠をすてて、より大きな規模の集団を構成するにいたったことのためである。

とされることが、多い。


しかし、このような説明については、次のような疑問があり、銅鐸を忘れさる理由としては弱すぎるのではないか。

@ そのような統一勢力が、畿内からおこったものであるならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを、温存させてよいように思われる。

A 一度に、合計の重量が、260キログラムもある銅鐸がみいだされた例がある。 それは、青銅の素材としても、魅力あるはずのものである。

もし、「個々のムラ」から、「構成されたより大きな規模の集団」ヘスムーズに移行したものであるならぱ、廃棄するよりも、鋳直して利用することを考えるのではなかろうか。 当時、青銅の素材は、貴重品であったはずである。

B 邪馬台国が銅鐸文化圏の大和にあったとするならば、「倭人伝」に記されている北九州の糸島付近からも、とうぜん銅鐸が発見されてよいはずである。 しかし事実はそうではない。

 ( 以上 邪馬台国研究会 より引用 )


クリックすると元のサイズで表示します

 ( 島根 荒神谷遺跡 銅剣 出土状況 )

青銅器を作る為の原料である銅鉱石は、弥生〜3世紀頃の日本では、まだ採掘されなかった と考えられている。

初めて採銅の記録が出て来るのは、元明天皇(707〜715年)の御代であり、埼玉県秩父の山中で、銅鉱石が発見された事を記念して、和銅(708年)という年号を付けたとされている。

とすれば、それ以前に日本の中で、鉱業と云うものが起こっていなければ、金属としての青銅は、中国や朝鮮からの地金の輸入と言う事にならざるを得ない。

倭人伝に、”兵は 矛・盾・木弓を用う (中略) 竹箭は 或は 鉄鏃 或は 骨鏃 (以下略)” とある。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 魏志倭人伝 紹熙本 原文 右編中央寄りに 木弓云々 の記事が見える )

つまり、矢の先端に使う”鏃”には、鉄の物と骨の物がある、と倭人伝は述べている。

これは3世紀において、鉄器が邪馬台国で、すでに使用されている事を示すものであり、当然、青銅器も使われていたと考えてよい。

しかも鏡や銅剣・鉄剣等が、死者の副葬品として埋納されている事を見ても、3世紀では、まだ青銅や鉄といった金属は、相当に貴重品であった と思われる。

果たして、この貴重品であった金属の地金を、何の代償も無しに輸入出来るものだろうか。

もしも、これらの地金の輸入に対し、何らかの見返りを認めるとするならば、その答えは恐ろしく1つしかない。

それは、邪馬台国を中心とする周辺国を”魏の属国”と見做し、間接的に”支配する”という事なのである。

続く・・

0

2015/9/17  9:00

邪馬台国を行く F  


始めて一海を渡る 千余里 対海国に至る

倭人伝の解読では、この対海国が現在の対馬であるという事は、まず疑いの無い事実である。

ではなぜ対馬では無く、対海国なのであろうか。
同じ様に、壹岐の事を一支国ではなく一大国として陳寿は、倭人伝に書き残している。

これでは対海国も一大国も、原文の字面からすれば、とても日本語の意味として読み取れないのだ。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 浅茅湾から望む 現在の対馬 )

そこで、日本語として読めないという事は、本来これは日本語では無いのではないか? という疑問が、ここに生ずるのである。

その疑問を解く一節が、この中にある。

又 南に一海を渡る 千余里 命けて瀚海(かんかい)と曰う 一大国に至る 以下略

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 対馬海峡周辺の 地理図 )

この”瀚海”という言葉が、キーワードになるのだ。

海の名前も「地名」の一つと考えるなら、これは初めから中国・朝鮮の大陸側の呼び名と思われる。

とするならば、この”瀚海”を挟んだ2島も、大陸の呼び名で名付けられていても、何ら不思議ではない。
現代においてもこの様な事例は、世界各地に存在している。

日本の周辺を見渡しても、2つの言語社会の境界(国境)に存在している地名は、相反する2つの呼び名を持っているのである。

例を挙げるならば、日本語で呼ぶ沖縄は、本来の中国語では琉球であるし、北方領土の千島はロシア語でクリルと呼んでいる。

樺太はサハリンだし、日本海を韓国では東海(トンヘ)呼んでいるのである。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 壹岐 復元された一大国の王都 ”原の辻遺跡” )

つまり、2つの異なる言語境界にある地名は、両方の言語で呼ばれていると言う事実が、認められるのである。

この事から、倭人伝にある対海国や一大国は、大陸側の呼び名であって、本来日本語で読めるものでは無いと筆者は思う。

したがって、対海国や一大国を日本語の読みに直して、対馬・壱岐(一支国)と原文を書き改める事は、返って道理に反する事になるのだ。

朝鮮〜北部九州に至る対馬海峡は、古代から交易ルートとして重要視されてきた性格上、親しみのある地名が互いに存在していたとしても、おかしくはない。

それを史料批判の元に、何の根拠も無く、ただ原文の書き誤りだ! として強引に改定するのは、如何なものであろうか。

続く・・

0

2015/9/13  13:52

邪馬台国を行く E  


上表とは、君主に奉る書き付け・意見書 と辞典にある。

「正始元年 (中略) 倭王 使に因りて上表し 報恩に答謝す」 

上記の如く倭人伝には、正始元年 倭の王(卑弥呼)は、答礼使に上奉文を託け、魏の皇帝に対し深く感謝の意を表した と書かれている。

古代3世紀の日本に於いては、まだ文字の使用は無かった と言うのが、これまでの学界の通説である。

これは、本当だろうか・・・。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 古代 ”神代” 文字とされる 出雲文字 )

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 同じく 豊國文字 )

文字と言えば、これまでに ”豊國文字・出雲文字・阿比留文字” 等、古代文字と言われる字体が古くから伝えられていたが、すべて後世の偽作とされて、研究の対象とはならなかったのである。

しかし、この倭人伝にある「上表」という言葉は、すでに文字が邪馬台国に於いて、使用されていた事を暗示している様に見える。

つまり3世紀頃であれば、すでにある程度の文字が、倭国において使われていた可能性は、多分に考えられるのだ。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 大分県 国東町  神代文字である”神宮文字”と”阿比留文字”の組み合わせからなる 巨石に刻まれた 古代文字

”解読文”  そこをやき よきちほれ しもとく ひわのかみのりよ しふきあえす ねつきよだい てむだ 

「この場所を焼き 大地を耕せ 霜害に遭わぬよう太陽神を祀れ これは不合25代天皇の言葉である」 という事らしい )

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 御守に併記された 古代文字の一種 )

学説に言うように、文字としての漢字が、急速に5世紀頃に中国から入って来たとは、俄かには考えにくいのである。

やはり、2〜5世紀頃の朝鮮半島を軸とする交易を通じて、倭国に浸透していったと考えるのが自然であろうと筆者は思う。

元東京大学教授で、中国文学者の藤堂明保氏は、音韻学の研究の中で、万葉集に使用されている万葉仮名の字音は、中国の三国六朝時代の物であると述べられている。

そしてその中で、「余程、時代を控えめに見ても、西暦3〜5世紀には大陸と倭国との間に通行が行われていて、漢字が倭国に入って来た事は確かであろう」 としているのだ。

しかも、7世紀頃の中国の字音と万葉集の万葉仮名の字音とは、古い中国音に基づいているとも述べている。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 埼玉 行田 稲荷山古墳 )

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 同じく 稲荷山古墳出土 金象嵌された鉄剣 ”ワカタケル大王”の漢字が刻まれている 5世紀  さきたま資料館より出典 )

すなわち、文字としての漢字は以外に古く、古代2〜3世紀頃には倭国に伝来し、多分に用いられていたのではないのだろうか。

それが倭人伝の中に、上表という形で表現されている様に思えるのである。

続く・・

0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ