2015/9/7  16:08

邪馬台国を行く D  


景初2年、邪馬台国の朝貢に対し、魏の明帝(曹叡)は、銅鏡百枚を含む色々な采物を下賜し、その後に答礼使を送った と倭人伝にある。

景初2年は、明帝が遼東の公孫淵を討伐する為に、この年の1月〜8月にかけて朝鮮半島を含む各地で、大規模な戦いを繰り広げていた時期であった。

その最中にあたる6月に、卑弥呼が朝鮮半島を経て魏の明帝に朝貢した・・ などと言う事はありえない とするのが、これまでの通説である。

景初二年六月、倭の女王 大夫 難升米等を遣わし、郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む 以下略

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 ( 3世紀の朝鮮半島 )

景初2年8月、魏は司馬懿(字は仲達)を総大将に、4万余りの軍勢を以て公孫淵を討ち、楽浪・帯方の両郡を置いて、朝鮮半島を制圧する。

倭人伝の一節に、使を遣わし 将って送りて京都(けいと)に詣らしむ とある。

これは、邪馬台国の朝貢使節に護衛をつけて、魏の洛陽まで送りとどけた と言うことなのだ。
つまりその2ヶ月前、6月に朝貢した邪馬台国は、戦中遣使だったという事になる。

ところが景初2年12月、魏の明帝は急病となり、翌、景初3年正月に崩御となった。
従って景初3年は、魏王朝の服喪に当たり、諸々の儀礼はすべて中断となってしまったのである。

邪馬台国の朝貢使節は、この急変に驚き、下賜品を受け取ることが出来ず、急遽邪馬台国へと帰国したものと考えられる。

景初3年12月、斎王の詔書により諸行事の再開、年号の改定が決定され、翌年は正始元年と改められ、欠礼となっていた邪馬台国へは、明帝の下賜品を携えた答礼使の遣使が行われたのである。

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 ( 三角縁神獣鏡 椿井大塚山古墳 出土 )

魏の明帝は、景初3年1月に急死している。

したがって、景初3年6月に魏の明帝に朝貢した などと倭人伝の原文を改定するのは、非常におかしな話になるのだ。

それだけではない。
その下賜品の中にある銅鏡百枚が、問題となってくるのである。

倭人伝の記述が景初3年の間違いならば、各地で出土した景初3年鏡は、卑弥呼に与えられた銅鏡百枚の一部ではないか という仮定が成り立つ。

しかし、その下賜品の事を述べている詔書は、景初2年12月に発せられたものなのである。
そしてその詔書には、銅鏡百枚をすべて装封して、卑弥呼に授けると書かれている。

とするならば、景初2年に用意された銅鏡百枚の中に、景初3年の鏡が入るという事は、絶対と言って良いほど考えられないのだ。

果たして卑弥呼が、すでに亡くなっている魏の明帝に対し、朝貢と言う儀礼を行うものだろうか。

続く・・

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