邪馬台国を行く 番外編  


今から約6000年前の縄文前期、奈良盆地には巨大な淡水湖が存在していた。

その名を、「 大和湖 」 と言う・・・

盆地の西側、生駒山地と二上山から金剛山地へ続く、低い地峡部に ”亀ノ瀬” と呼ばれている場所がある。

太古の昔、この場所から湖水が大和川となって河内湾 (当時の大阪湾) へと流れ出し、少しづつ大和湖の水位は下がり始めたとされているのだ。

大和湖の水位は、湖水の流出により約6000年前は約70m、2500年程前には、約50m位にまで低下し、やがて広大な湿地帯の湖底平野が出現するのである。

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 ( 大和湖の推定図 )

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 ( 同じく大和湖の推定図 邪馬台国研究会より出典 )

湖底が干上がるにつれて、古代の人々は平野部へと移動し始め、弥生時代後期には、唐古・鍵遺跡に代表される、集団的稲作農法を営むようになったと考えられている。

その証拠として、弥生時代から古墳時代へと続く古代の遺跡や上古の宮跡伝承地の殆どは、標高50〜70m以上の地域に存在しているのである。

この大和湖説を最初に提唱したのが、考古学者の樋口清之氏であり、その中で樋口氏は、神武東征の伝承地が標高60m付近に存在する事から、その時代の奈良盆地は、まだ湖水の残る沼地や湿地帯であった、と解説している。

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 ( 約6000年前の大阪湾と上町半島 )

この仮説は、我々に一つの重要な手掛かりを教えてくれている。

記紀の神話に、神武天皇東征の神話が載っている事は、よく知られている。

もし仮に、この神武東征が事実に基づいた話とするならば、それは朝鮮半島や九州の動乱に始まる ”倭国大乱” により、大和へと東遷して来た人々・・・ つまりは俗に言う、天孫族になりはしないだろうか。

その天孫族が、湖水の引いた三輪の巻向を定住の地と定め、やがて大規模な土木造成と農耕祭祀を執り行い、この大和の地の支配に乗り出したとも考える事が出来る。

裏を返せば、巻向遺跡は邪馬台国では無いとも取れるのだ。
その巻向遺跡は、発掘調査の進展から3世紀に入り、突如として大集落の形成が成された事が判明している。

もしも、巻向遺跡を邪馬台国の痕跡だとするならば、これは非常に奇妙な事実なのである。

果たして、邪馬台国の様な国家が何の基礎も無しに、突如として形成されるものだろうか。

万葉集の中に、舒明天皇の詠んだ奇妙な歌がある。

「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」

この歌に詠まれる情景が、まだ飛鳥時代にも存在した可能性は大いにあるのだ。

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