2015/10/31  0:36

Oiyanの 独り言  


最近、何やかんやと忙しくて、中々ブログに書き込みが出来ないのである。
ところが、そんな時に限って、書き込みを”おねだり”する御仁がいるのだ。

プロの物書きだって、書けない時があると言う。

Oiyanはプロの作家では無いし、普通ぅ〜の凡人だから、変にプレッシャーを掛けられると困るじゃん・・ と思う。

男はつらいよ ではなくて、凡人はつらいよ なのだ。


10月の某日、夕日を撮りに行った。 山辺の道である。

山辺の道を歩いていると、西に二上山という山がよく見える。 おっぱい山と呼ぶ人がいるそうだが、Oiyanはそんな事は、知らない。

その二上山に、悲劇の皇子”大津皇子”の墓所があることを知る人は、少ないと思う。

日本書紀に、幼年にして学を好み 博覧にしてよく文を属す 中略 法度に拘らず 節を降して士を礼す これによりて 人多く付託す 

( 幼いころから学問を好み 書物をよく読み その知識は深く 見事な文章を書く 中略 その人柄は自由で規則に拘らず 皇子で有りながら 謙虚な態度で人士を厚遇した その為皇子を慕う 多くの人々の信望を集めた ) という記事が見える。

本来ならば、父である天武天皇の跡を継いで、天皇になるべく秀でた皇子であった。

ところが、突然の悲劇が皇子を襲う・・・。

西暦686年の9月、父である天武天皇が崩御すると、天智天皇の第二皇子であった”川島皇子”の讒言による密告よって、謀反の罪を着せられたのである。

皇子は捕えられ、10月3日、磐余にある訳語田(おさだと読む)の自邸にて自害。

正妃であった山辺皇女(天智天皇の娘)は、自害の知らせを聞き、髪を振り乱し、裸足で走り、皇子の遺骸に取り縋り、殉死す、人々は皆、嘆き悲しんだ、と書紀は伝える。

姉であった大来皇女(伊勢斎宮の斎王)は、同年11月に斎王を退下(今で言う解職)し、磐余へと向かったのだが、すでに皇子はこの世の人では無かったのである。

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 ( 二上山 落日 )


亡骸は、黄泉の国の入り口とされた二上山に移され、葬られた。


その二上山に、真っ赤に染まる紅蓮の夕日が、落ちてゆく・・・。

Oiyanは、そこに非業の死を遂げた大津皇子の怨念を、垣間見るのである。

悲劇の皇子、大津皇子・・・。


御陵は、二上山 雄岳 山頂近く、”二上乃峰 山ノ上ノ陵(みささぎ)” である。


”うつそみの人なる吾や明日よりは 二上山を弟背とわが見む” (大来皇女)


合掌


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2015/10/13  9:30

Oiyanの 独り言  


先日の事である。 Oiyan さん、これ・・・ と言われて、会社のフロントから封筒をもらった。

何だろう・・ と思って見ると、健康診断の案内である。
これって、いつもの健康診断じゃん・・ と思いつつ封筒を開けると、別枠で診断を受けて下さい、とあった。

はっと、気が付いたのである。 今年の春に、胸のレントゲンで引っ掛かっていたのだ。
再検診とあったのだが、めんどうくさいので、ほったらかしにしていたのである。

別枠と言っても、予約をしないと行けない。 やれやれ、予約かぁ〜 と思いつつ、会社の総務から指定日に予約してもらった。


当日、会社指定の●和病院に行った。 健診センターと言うのがあって、いつもはそこで会社の健康診断を受けるのである。

今回は別枠なので、一般健診の人と同じ扱いなのだ。 問診票を受付に出して、健診用の服に着替えて、順番を待つのである。

中はほぼ満員、老若男女、取り合わせて50人くらいかなぁ・・ 以外に静かである。

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Oiyan さん〜 と、呼ばれた。 アッと、名前でよばれるんだ、と気が付いた。 ( 当たり前か・・ )

いつもの会社の健診なんて、がさつだから皆、バラバラに好きな項目の所から、検査を受けていくのである。

最初が、採血。 ちょっと年配の看護師さんだったが、針を刺すのが上手いのである。

次は心電図、次がレントゲン・・ と、順番に進んでゆく。 順番待ちの時間が程々にあって、時々眠くなる。

そのせいか、血圧なんてまるで正常、聴力検査も、バッチリ聞こえた。

会社の健診のように、野卑で加齢臭 ( くっさいなァ〜 ) のする健診とは、大違いなのだ。 一通り回って、最後に先生の診察である。

呼ばれて、ドアを開けた。

「 えっ・・ 」 と一瞬、たじろいだ。 女医さん・・ しかも、若くて美人なのである。

「 どうぞ〜 」と言われて、椅子に座ったのだが、あとはうわの空・・・。

会社の健診では、絶対に無いお腹まで触診されて、終了。 (;^^)♂ ビンゴ


都合、1時間40分ほどである。 久し振りに、ていねいに診てもらったぁ〜、という感じがするのだ。
こんな健診だったら、年に一回は受診してもいいと思う、Oiyan である。

たばこも吸わず、お酒も程々で、中々良いですよ〜ww とは、先生の言葉・・・。


健康って、いいなぁ〜。


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2015/10/10  9:30

邪馬台国を行く おまけ  


古代、中国の戦いは、戦車戦である。 1台の戦車を、乗と呼ぶ。

1乗の戦車は4頭立て、後ろに把車という引車をつけて、それに甲冑を着けた兵士が3人乗り込む。 ( ベン・ハーという映画の中の、戦車レースを見た方は、よく分かると思う )

1人は手綱で戦車を操り、脇の2人が弓矢で攻撃をしながら敵兵を蹴散らし、撃破するのである。 この戦法を編み出したのは、秦の始皇帝であった。

その兵制では、1乗の戦車に兵卒72名、輜重25名が付く。 都合、1乗100名の戦車で、100乗の戦車隊と言えば、1万人の兵力なのである。

魏の甘露元年(256年)、この年は、蜀漢の延熙19年、呉の太平元年、と中国に3つの元号が公布され、人々は3国の打ち続く騒乱に、世の無常を深く感じるようになり、次第に仏教が国内に普及しつつあった。

その9年前の正始8年、倭国では邪馬台国の女王”卑弥呼”が亡くなり、宗女の”壱與”が女王として擁立されて、朝貢が行われたのである。

時代はまさに、三国志の舞台であった。

天下は、魏 ・ 呉 ・ 蜀 の3国に分かれ、互いに攻伐を繰り返しながら、覇権を狙っていたのである。

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 ( 蜀の名将 諸葛亮 ”字は孔明” )

3国の内の蜀漢は、国内に辺境の地が多く、富国強兵もままならず、度々魏の侵攻を受けていた。

宰相であった諸葛孔明は、蜀漢皇帝”劉備玄徳”に、蜀を守るべく北伐を進言する。 玄徳亡き後、蜀漢皇帝を引き継いだ”劉禅”に、孔明は有名な”出師表”を奉呈して、北伐を開始するのである。

魏の青竜2年(234年)、卑弥呼が最初の朝貢を行う5年前、五丈原に於いて、魏の名将”司馬仲達”と孔明は激突する。 世に名高い ”五丈原の戦い” である。

しかし、戦いの最中に不幸孔明は亡くなり、双方の傷み分けに終ったのであった。

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 ( 蜀漢皇帝 劉備玄徳 )

孔明亡き後の蜀漢は、度重なる魏の侵略と北伐に疲弊し、魏の景元4年(263年)に滅亡する。

一方、残る南方の呉は、孫権から続く孫氏の政権を維持していた。

しかし魏は、南征軍を組織し、建威将軍であった王戎(竹林の七賢の一人)は、王都”武昌”に進軍しこれを攻略する。

魏の咸寧6年(280年)、南征軍は約20万の大軍で武州を攻め、呉の皇帝”孫皓”は降伏、天下は魏によって統一されたのである。

だが、曹操一族の魏王朝も長くは続かなかった。

宰相として曹操に仕えた司馬懿(字は仲達)は、老獪な人物で、自身の一族が皇帝の玉座を手に入れるべく、着々と布石を打っていたのである。

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 ( 大将軍 司馬昭 ”皇帝以上に実力者であった” )

仲達の子”司馬師”は、不幸病死したが、その弟の司馬昭がその意を継いで、正元2年(255年)に大将軍となった。

すでに漢王朝の”献帝”と同じく、政治の実権は司馬氏に握られていて、14歳にして皇帝になった”曹髦”は、まさに傀儡だったのである。

魏の咸熙2年(265年)、晋王の位にあった司馬昭が亡くなり、その子の”司馬炎”が元帝(曹奐)の禅譲を受けて、宿願の皇帝の玉座に就いたのであるが、もちろん、禅譲という名の乗っ取りであった。

これが、晋王朝初代皇帝の武帝である。

司馬一族は、仲達より始めて3代目の司馬炎で、ようやく野望を成し遂げたのである。

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 ( 晋王朝 初代皇帝 武帝 ”司馬炎” )

倭人伝には、間違いや誇張が多いと学者や研究者は言う。

確かに、戸数や距離を表わす里数に、疑問を抱かせるものが存在する事は、事実である。
それでは、すべての記事に疑問符が付くかと言うと、それはあり得ないと筆者は思う。

当時の史書と言うのは、皇帝の命により編纂される正史であって、その中に虚偽の記述があると分かれば、編纂者の首が飛びかねないのである。

これは、著作郎 (今でいう文書課の課長クラス) の罷免と言う事ではなく、本物の首が飛ぶことを意味するのだ。

従って、魏志を編纂した著作郎の”陳寿”が、倭人伝のすべてに誇張や虚偽の記述をしたとは考えにくいのである。

かと言って、すべてが事実とも認め難い。 卑弥呼に言わせれば、よく衆を惑わす”魏志倭人伝”なのである。

さぞかし卑弥呼も陳寿も、あの世で”衆を惑わす”倭人伝を楽しんでいるのではないのだろうか。


本当に おしまい。

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2015/10/7  9:30

邪馬台国を行く 最終回  


邪馬台国は、いずこに在ったのだろうか?
或る者は、畿内大和(奈良県)と言い、ある者は、北九州という。

古来諸説多く、現在に至るまで、未だに決着を見ない謎の国なのである。

一説に、記紀の中に邪馬台国の暗号が隠されていて、天孫降臨の神話を九州の日向に持って行ったのも、3世紀の九州南部の豪族の子孫が、記紀の編纂された7〜8世紀頃にも残っていて、畿内では何らかの理由で、これを無視出来なかったのかも知れないと言う。

つまり、日向を倭人伝の投馬国として、北部九州を含めた中規模の部族国家連合の盟主が、邪馬台国と考えるのである。

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 ( 魏志倭人伝 紹熙本 原文 )

一方、畿内では巻向遺跡が今日、邪馬台国の1つの比定地として脚光を浴びているが、これとて確実にそうであるという確証は、発見されていないのである。

畿内説を支持する学者や研究者は、盛んにここが邪馬台国の跡であると声高に唱えているが、確証を得られない限り、断定する事は非常に危険だと思われる。

最近のマスコミの報道や、世論の高まりに押される余り、今後疑問を抱く発見や遺物が出土したとしても、それらを公表することが憚られ、以前考古学界を揺るがした、石器ねつ造事件の再来になりはしないかと危惧するのである。

あまりに欲張って比定を急ぐと、返って間違いの起こる可能性は大きくなると言う事を、忘れてはいけない。

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 ( 奈良県 桜井 巻向遺跡 )

邪馬台国論争と言っても、それほど難しい事では無く、権威ある偉い学者が、学閥に分かれて勝手な事を言いあっていると思えばよく、中には随分こじ付けと思われる学説や、強弁を有するものも有って、中々面白いのである。

筆者は、大変大雑把な様だが、邪馬台国は北部九州の何処かに存在していた、と思う。
畿内説には、やはり比定に無理があると考えているのだ。

さて、これから先は、よほど強い考古学上の発見があるか、もしくは決定的な資料でも見つからない限り、畿内説・九州説のどちらも、水掛け論に終始しそうな気配である。

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 ( 大和国中 大和三山を望む )

女王 卑弥呼の君臨した邪馬台国・・・

その謎は、倭人伝の作者 ”陳寿” だけが、知っているのかも知れない。

おしまい

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2015/10/2  9:30

邪馬台国を行く I  


景初2年、魏の明帝(曹叡)は公孫淵を討ち、帯方郡を含む朝鮮半島を制圧している。

明帝が遼東の公孫淵を討伐したのは、朝鮮半島にある楽浪・帯方の両郡に於いて、魏に対する大規模な反乱(黄巾の乱に代表される)が、起こるのを恐れたからなのだ。

当時、高句麗が朝鮮半島の東半分を支配していた事を考えると、当然の結果であったとも言えよう。

3世紀、朝鮮半島の南半分は、いわゆる三韓(馬・弁・辰)に分かれていて、互いに対立し合っていたのだが、間接的には魏や高句麗の影響を多分に受けていたのである。

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 ( 3世紀の朝鮮半島 )

この様な事から、高句麗を除く朝鮮半島の大部分は魏の勢力下にあって、楽浪・帯方の両郡は、実質的に魏の植民地政庁であった。

従って、倭人伝にある ”郡より倭国に使せしむるに 〜 差錯する事を得ず” という文書の主体性と言うのは、帯方郡の使者と一大率と考えられる。

つまり、一大率という大官のバック(後ろ盾)には、魏の勢力があって、この一大率も帯方郡から派遣された、女王国の監察官であったと思われるのである。

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 ( 島根県 土井ヶ浜遺跡出土 弥生人女性の頭骨 )

倭国において、3世紀半ばに統一国家は存在していなかったとするならば、30余国が畏怖するような”一大率”を、邪馬台国が単独で伊都国に駐留させる様な実力があったとは考えにくい。

前回にも述べたように、各国王が権力に服属するのは、実力による征服か屈服しかないのである。

30余国が畏怖する理由には、一大率の後ろに魏の力が見え隠れしているからなのだ。

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 ( 島根県 荒神谷遺跡 埋納された銅矛と銅鐸 )

即ち、卑弥呼と言う呪術的統一者に支えられた邪馬台国は、政治的にも軍事的にも30余国を従える程の実力は無く、魏の政庁である帯方郡の管轄下にあったと考えてもおかしくはない。

とすれば、一大率は帯方郡から派遣された邪馬台国の監察官であり、そのバックには魏の勢力が存在していたのである。

この状態は、戦後のアメリカ占領下の日本に認める事が出来る。

つまり、国内の政治は日本政府が行い、アメリカはGHQという組織を通じて、その後方から監視・監督するという関係によく似ているのである。

それが良いか悪いかは、あえてここでは述べないでおこうと思う。

続く・・

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