三国時代と邪馬台国  其のB  (不定期連載 書き下ろし)  


戦国後期、戦国七雄と呼ばれた7つの大国の中で、後進国であった秦は着々と力を蓄えて、大国になりつつあった。

あとの6国は、互いに連盟を結びあい、合従して対抗したり、あるいは秦と連衡して、同盟を結んだりと腐心していたのである。
(合従連衡という言葉は、ここから来ている)

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秦が強大になったのは、宰相として政治の中核を担った ”商鞅” の力が大きかった。

紀元前356年、商鞅は変法と呼ばれる国政改革を断行、抵抗する反対派を一掃し、富国強兵を推し進めるのである。

商鞅の有名な言葉に、「疑行は名なく、疑事は功なし」 と言うのがある。

 ”何事であれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。 あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ、名誉も得られない” という意味なのだ。

この言葉は、後において 「故事成語」 となった。

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秦国 宰相  商鞅 の肖像


しかし不幸商鞅は、後の政変に於いて謀殺されてしまうのだが、彼の残した功績により、秦は他の6国よりも早く強大となり、中国統一への道が開かれるのである。
(商鞅の事は、後の史記列伝に詳しい)


中国の戦国時代も、日本の戦国時代と同じで、各国の君主は造反をしないと言う証に、王子や王族を互いに人質として差し出していた。

後の秦の荘襄王(始皇帝の父親)も、王子時代に趙の国の人質となっていたのである。

趙の都”邯鄲”の呂不韋という商人が、もしやこの荘襄王は、後に秦の国王になるやも知れない・・ と思い、そばに仕えて大層世話をしていた。

その荘襄王がある時、呂不韋の美しい愛妾(めかけですな)を見て、是非譲って欲しいと所望したのである。 (一説には、呂不韋が愛妾を差し出した、とも言われる)

この愛妾の生んだ子が、”政”と名付けられ、後の秦の始皇帝となる。

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秦王朝  初代皇帝 始皇帝


荘襄王が秦に戻って亡くなった後、政は13歳で秦王となった。

当時の秦は 斉・楚・趙 を攻略し、破竹の勢いで諸侯の領土を併呑して、天下統一に向かいつつあったのである。

紀元前225年、秦は大軍をもって魏を攻め、これを滅ぼす。

趙に人質の子として生まれた秦王”政”が、始皇帝として中国全土を統一するのは、これより約4年後の事であった。


続く・・


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