2018/2/13  22:33

三国時代と邪馬台国  其のC  (不定期連載 書き下ろし)  


春秋戦国時代、6つの大国の中で、最後まで秦に対抗したのは燕であった。

戦国も末期、強大となった秦は次々と大軍を持って諸国を攻略し、統一への基盤を固めていたのである。

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そんな中、燕王”太子丹”は、日に日に迫りくる秦の圧力に焦っていた。
燕の臣君は戦々恐々として、禍の至ることを恐れていたのである。

「日を虚しゅうして、久しきにわたる」 と、太子丹は記す。

遂に太子丹は、自身の食客で侠士の”荊軻”に、秦王”政”の暗殺を持ち掛けるのである。

「燕が国を挙げて抗戦しても、もう大国の秦に勝つ望みはありません。 同盟を結ぼうにも、斉も楚も三晋も秦に下り、相手が無くなりました。 

こうなったからには、天下の勇士を使節として秦に使わし、その機会を捉えて秦王を討ち、諸侯に蜂起を促せば、秦を打ち破る事が出来ます。
荊卿、何卒、この丹の願いを聞き届けてはくださらぬか。」

いったん荊軻は断った。 しかし、これは食客の礼儀で、謙遜したのである。

燕に食客としての待遇を受けながら、太子丹の宮殿にまがり出たからには、もう断る事は出来ないのだ。

忠義・・・ それだけであった。

「野蛮が天下を牛耳るのか・・・。」 荊軻はそう呟き、天を仰いだ。

( 風蕭々として 易水寒し 壮士 一たび去って また還らず )

有名な、荊軻易水の別れである。


暗殺が失敗した経緯は、司馬遷の ”史記・任侠列伝” に詳しい。


秦王”政”は、国賓を迎える最高の儀礼をもって、荊軻の使節を引見した。

荊軻は秦王の前に進み出て、樊於期将軍の首級と督抗の地図を差し出す。

秦王”政”は何よりも、樊於期将軍の首級をよろこんだ。 (樊於期将軍は、元秦国の将軍だったのだが、後に秦王を裏切って燕に亡命したのである)

さて、もう一つの督抗の地図は、荊軻が手渡した。
巻物になったその地図を、秦王はくるくると開いて行く・・・。

”図極まりて、匕首(あいくち)あらわる” と、史記は緊迫したこの場面を一行で、簡潔に書き記している。

その現れた匕首を右手で掴むや、荊軻は秦王の左袖を捕り、力まかせに突き刺そうとした。

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しかし、如何せん刀身が短い。

刃先が秦王に届かず、宙を泳いだ・・・。

秦王”政”は、驚いて身を引く! ちぎれた袖が、荊軻の左手に空しく残った。

秦王は腰の長剣を抜いて防ごうとしたが、慌てているので抜けない。 宮殿の中で剣を持つことが出来るのは、秦王だけなのである。

早く抜こうとすればするほど、焦っているのでうまく行かない。
荊軻は匕首を持って、秦王を追う。 秦王は、宮殿の柱を巡って逃げ回る。

臣下の者が、取り押さえようとするのだが、刃物を持った相手に素手ではかなわない。

あわや! と思われたその時、侍医の夏無且(かむしょ)が、懐にあった薬嚢を投げつけた。

それがうまく荊軻の眼に当たり、間一髪たじろいだ所で、秦王は匕首をかわすことが出来たのである。

「剣を負いなされ!」 と、左右の臣下の者が叫ぶ。 秦王は咄嗟にその通りにして、長剣を抜くことが出来た。

こうなれば、短剣よりも長剣の方が断然有利である。 怯んだ荊軻の左腿を、秦王は長剣で払った・・・。

倒れこみながら、荊軻は手にした匕首を秦王めがけて投げつけたが、秦王はそれを外し、素手になった荊軻に切りつける事8回に及んだ・・ と、史記は伝える。

8回目に秦王の剣は、荊軻の眉間を割った。 流れ落ちる血が床を染めて、荊軻は目を閉じた。


激怒した秦王”政”は、将軍王翦に命じて燕を追撃、紀元前222年に燕は滅亡する・・。

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秦国将軍 王翦 の肖像


翌年、紀元前221年に秦が天下を統一し、戦国時代は終わりを告げるのである。


ただ、仮にと言う言葉で表すならば、燕の太子丹が侠士であった荊軻を秦王の刺客として差し向け、首尾よく暗殺が成功していたなら、後の歴史は大きく変わったかも知れない。


続く・・・。


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