今日は、この人が、仕事半分、遊び半分で御来店?
会話の中で、会社の話(人々)になり、参考になればと記載する。
タイトルは「悪者ぞろいの家」ある町の話である。
二軒の家が隣合わせで暮らしていた。一軒の家は、七人家族であったが、七人はいたって仲むつまじく、争い事一つ起きなかった。
もう一軒の家は、三人家族でありならが、毎日喧嘩が絶えず、皆が面白くない日々を送っていた。
ある時、三人家族の主人が、七人家族の家を訪ねて聞いた。「お前さん家は、家族が大勢いるのに、喧嘩一つしたことがないと聞く。私の家は、たった三人だというのに、毎日、喧嘩が絶えず、ひどいものだ。どうしてあなたの家は、そう仲良く暮らせるのですか?」
七人家族の主人は、「それは、こうなんでしょう。私どもの家は、悪者ばかりの寄り合いですのに、あなた様の家は善い人ばかりのお集まりだからなんでしょう」と言う。
三人家族の主人は合点がいかなかった。「どうもわかりませんね、七人も悪者が揃っていれば、喧嘩が起きるでしょう。悪者ばかりだから、喧嘩が無いとは、どういうわけですか?」
「いや、何も難しいことはありませんよ。例えばですね、コップが割れても、バケツを蹴飛ばしても、皆が、それは私が悪かった、不注意だった、いやいや私が軽率であったと、お互いが、我先に悪者になる競争をします。だから、喧嘩の起こりようがないのです。
ですのに、あなたの家では、これと反対で、何か間違いがあると、皆が善い人になろうとなすって、俺は知らぬ、貴様が悪いと、お互いが罪のなすり合いをするのでしょう。バケツを蹴飛ばしても、「貴様がこんなところにバケツを置くから、俺が蹴飛ばしたのも無理はない。」コップが割れても、「棚に置いた俺に落ち度はない、誰が棚に置いた」と叱り立て、自分の罪を逃れようとするに違いない。
だから、喧嘩の絶えることはありません。私の家では、競って悪者になり、あなたの家では競って善い者になろうとする、その結果、私の家では争い事が起きず、あなたの家では争い事が絶えないのでしょう。」
こう言われて、三人家族の主人は、なるほどと合点し、それ以来、互いに譲り合うことに努め、円満な家族になったという。
<解説>
「悪い人が揃った家」は、自責思考の人の集まり。「善い人が揃った家」は、他責思考の人の集まりと言い換えられる。
自責思考とは、「何か問題が起こった時、自分に原因があると考え、自らの言動の改善を試みる思考」のこと。
一方、他責思考とは、「何か問題が起こった時、他人に原因があると考え、他人に対して言動の改善を迫る思考」のことである。
この話を、家族ではなく、会社の話に置き換えてみよう。
自責思考の人が集まった組織は、問題に対して、皆が当事者意識を持つので、強い。
一方、他責思考の人が集まると、皆が問題を他人事として捉えるので、組織としては弱いといえるだろう。
例えば、自分がミスをした時、自責思考の社員と他責思考の社員では、状況の捉え方が異なる。自責思考の社員は、「自分のやり方がまずかった、自分の確認が不十分だった」と考える。反省は、改善の母であるから、必ずや本人は、改善に向けた行動に出る。一方、他責思考の社員は、「自分のサポートやフォローを怠った上司が悪い、マニュアルが整備されていない職場環境が悪い」と考える。結局のところ、「問題の原因は、自分の手の届く範囲になく、自分に出来ることは無い」と考えてしまう。当の本人は、観察する人になり、行動することは無く、問題は解決されない。
基本的に、できる社員は自責的、ダメな社員は他責的というのは、間違っていない。ただし、自責思考は万能ではない。注意点は二つ。一つは、極端な自責思考は有害だということ。行き過ぎた自責思考は、ストレスを生み、うつ病や精神疾患につながる危険性を持っている。もう一つは、自責思考が強すぎると、自分以外の他人事、社会環境などへの関心が薄くなってしまうこともあるので、注意が必要。
自責思考、他責思考は、これを記載している私の中にもあり、これを読む○○さんの中にもある。これは、人間をつかさどるDNA、ゲノムの中に組み込まれており、多かれ少なかれ、言い換えれば、誰の中にもある。
合掌 MAHALO

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