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なむあみだぶつ
2006/8/27
お坊さんも法衣を脱ぎ、普段着(「俗服」という)に着替えて外出することがあります。理髪店や病院にも行くし、飲食店も行けば各種ショップにも顔を出すなど一般の方々とさほど大差ありません。
そんな中、ちょっと店員さんと顔が知れたりすると・・・
「木村さん、仕事何してはるんですか?」とよく聞かれます。私はこれが非常〜に不愉快なのです。特に理髪店や飲み屋のカウンターなど、他のお客さんがいる場合などです。車のディーラー(販売店)などでもよく聞かれます。一対一ならまだしも他の客から耳を立てられて、興味本位でお寺の内情などを知られたくないし、僧侶に反感を持つ人がいないとは限らないからです。
確か西洋の格言に「酒場と理髪店では政治と宗教の話はするな」というのがあったと思います。けだし、名言だと思います。
我々は土・日・祝日は身動きが取れないので、平日の午後に外出の機会が与えられることが多いのです。先日、車屋に行ったら「こんな時間になんですか?」みたいなこと言われたので速攻で出てきた上、本社に抗議しました。
更には飲食店では「ボウズの癖に酒飲むのか?」というイメージが世間では根強いですから、「そうじゃなくて〜・・・私のウーロン茶ですし・・・」みたいな説明をするのもめんどくさいし、中には自ら「ワシ、坊さんやねん」などと自ら公言して飲みまくるのも、坊さん業界全体のイメージの点から問題があると思うのです。そういう人とはもう飲みに行きませんが・・・。
世間の方々は「お坊さんは凛としていてほしい、俗世にまみれないで欲しい」という願いを持ってらっしゃるのですから我々はそれに応えなければならない、と思います。楽しむのならば足が付かないような遊び方をする、これ大人の鉄則だと思います。外で仕事の話をするのは二流のすること、仕事中に遊びの話をするのは三流のすること・・・。
【親しみのあるお坊さん】と【俗っぽいお坊さん】とは全く違う人種ですからねえ・・・。ま、坊さんが職業かどうかは別として、そもそもプライバシーの侵害だと思うのです。私たちはそれこそ何百という門信徒を抱えておるわけで、決して個々に職業のことや家庭のことはこちらからお尋ねすることはありません。いろいろ家庭の事情もあるでしょうし、守秘義務のある仕事もあるだろうからです。
【親しみを求めるのならば、秘密厳守と礼儀から】だと思います。僧侶や営業に従事する方、よく覚えておいて頂きたいものです。
尚もしつこく職業を聞かれたら「カメラマン」ですとか、うっとうしいときは「ソコの事務所のもんやァ」といいます。あまり信じてくれませんが、効果はあります?!

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2006/8/24
趣味、と言うわけではないですが、ワタシはお茶が大好きです。いわゆる茶道などの作法モノよりも、素直に美味いお茶を飲みたいだけなのです。アルコール類は宗教上の理由?によりほとんど口にしません。タバコなんて論外です。本堂での会議のときにタバコをバカスカ吸う人がいますが、地獄に落ちるといっても過言ではありません。・・・過言ですね、ハイ。でも命の大切さを説くべき僧侶が人前でタバコを吸うのは慎んでほしいという意見が出ています・・・。

近頃、水道水の質が大幅にあがっており、わざわざミネラルウォーターなんか買わなくとも冷やせばすごくおいしいですよ。そこで今年の夏から始めたのが【水出し緑茶&紅茶】です。スーパーに行けばご丁寧に「水出し用」として販売されています。でも普通の茶葉で問題ありません。ティーバッグ式が最も便利です。抽出後3〜4時間で飲めます。紅茶を沸かして冷やすと嫌な苦味・渋みが気になるところですが、水出しだと雑味がせず、とても美味です。分量は適当です。ミントの葉を浮かばせたらお客にも出せるのではないでしょうか?

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2006/8/18
いや〜今年は猛暑猛暑でお参りがしんどかった。
業界(?)関係者の方々、お疲れ様でした〜。
今回は、ちょっとした「お盆の小話」を一つ。
◆ ◆ ◆
7月の某宅の月命日でのお話・・・。
「ご先祖さんは8月13日に帰ってきはるんですよね?」
「え、ええ〜、そうですね(ちょっと返答に詰まるワタシ)。お父さんが帰ってこられると嬉しいですよね?」
「そりゃあ、もう。父は私の作る春巻きが好きでしたから、お仏壇にお供えしようと思いますが、よろしいですか?」
「ええ、結構ですよ。真光寺サマの分もお忘れなく!!」
そして14日ころ、初盆としてそのお家に伺う。
家族親族一同がたくさん集まっている。
おつとめが始まるちょっと前。ガタガタと2階の雨戸の音がしたと子供らが騒ぎだす。
「え〜?何の音?昨日も音がしてた」とは、娘さんの言(かなりカワイイ子だった)。
奥さんいわく。
「ちょっと、縁起でもないこと言わんとってや、気持ち悪いやんか!」
「・・・オイオイ、あんた先月帰ってくるのを待ってたんと違うんか?」と喉元まで出かかるのを抑える。そして案の定、春巻きのオコボレは頂けず、手ぶらで帰った万年平僧・木村世雄32歳であった・・・。
「ご先祖が帰る・戻る」という考え方は根強く残っています。これを真宗の教えと上手く整合させることはできませんかね?どなたか妙案を!

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2006/8/14
今日は真光寺において門信徒と共に【全戦没者追悼法要】を朝の7時30分よりおつとめをいたします。遺族のみならず、追悼の志ある方にご参拝を頂くのであります。
テレビを見ておりますと、靖国神社のA級戦犯の分祀が可能か・不可能かといった議論が深まっておりまして、神主さんらはロウソクの火にたとえて、いったん大きな火(御霊)に移った霊魂は分けることができない、という考えを示しておりました。
一方、生存していたのに間違って祀られていた(【霊璽簿(れいじぼ)】に記載されていた)場合はその間違いを認めて祀られていた御霊を外すという事実があります。
どうやら祀る・祀られていないという目印は【霊璽簿】という、我々でいうところの大きな【過去帖】みたいなものへの記載か否かによって区別されているようなのです。
・・・それならば、神主のいう「ロウソクの火」のたとえは、全然たとえになっていないではないですか!!!単に【霊璽簿】からA級戦犯の名だけを除外すればいいのです。とても簡単なことですよね。それをしないというのは靖国の神主に何らかの政治的意図がある、ということになりませんか?
実のところはよく分からないが、もはや神道は聖域(議論を受け付けない領域)に止まることができなくなってきているのは間違いないでしょう。神主さんに論理的にきっちり答えていただくしか、靖国問題解決はないでしょう。このままだと本当に宗教法人格を外されるおそれがありますヨ・・・
我々仏教僧侶は、各時代において数々の論難を受けながら、時代社会に受け入れられ、生きてきたのです。いかなる宗教であっても社会からの問いに答え続けなければならない。それが出来ないならば、もはや時代社会において存在する意味を失うのです。つまり寺院や神社は観光スポットとしてしか生存の道がなくなる、ということですね。
祀るとか、祀らない、とか・・・その行為の主体は時の人間の都合にあります。つまりいい加減なもので、そこに宗教の持つ崇高性なんて無いのです。実に世俗的。
対して阿弥陀如来の救いは時空を超えて【十方衆生(すべてのいのち)】と誓われている。私がお参りしようが、しまいが、A級戦犯であろうがなかろうが、人間の損得や立場を超えたところで、一人一人の尊いいのちを見つめておられるのです。それが浄土真宗の立場です。これ以上の何も無いのです。人間の思慮分別を寄せ付けない。・・・だから尊いのであって、私たちは心から合掌礼拝の念が生じるのであります。
仏教は特定の故人を祀るも祀らないも、そんなことは関係ないのです。大体、祀るべき「霊魂」みたいな非実体的な存在を想定していないのですからねえ・・・【過去帖】【位牌】も単なる記録媒体ですしね。【霊璽簿】にしろ【位牌】にしろ、そういうモノに奇妙な思いを重ねていく、これこそが人間の迷いなのです。それを正していくのが、坊サンの仕事のはずです。

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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