ようこそ真光寺ブログへ。
目指せ1000記事投稿!(2021・11月27日現在941本)
なむあみだぶつ
真光寺公式LINE開設→
2006/10/24
皆さんはホテルに関心をお持ちだろうか?
いやいや、「逆さクラゲ(古っ!)」の方ではなくって【帝国ホテル】とか【ハイアット】とかのホテルです。
ホテルをたまに利用するのならば、飛び切り非日常なのがいい。マクドナルドに3回行くよりも高級ホテルでお茶を1杯飲むほうがよほど豊かな時間を楽しめる。また宿泊しなくとも十分楽しめるものである。私のホテルに対する願いはというと・・・
@ 出入り口やホールが小さく、薄暗いこと。
・・・ホテルはある種の密会に利用される。お互い顔が知れたらまずい。たまたま知人がいても決して声をかけてはならない。
A 玄関前駐車場にフェラーリかベントレーが駐車してあること。
・・・ベンツやレクサスなら2流ホテルだ。
B 調度品が統一されていること。
・・・色や模様がチグハグなのは落ち着かない。
C 従業員の姿勢
・・・「あいにく切らしております、出来かねます」という前に 「こういうものはいかがでしょうか」と言われたい。
@〜Cを満たす、憧れのホテルはズバリ【リッツ カールトン】だ!
Cに関して、高級ホテルには【コンシェルジュ】という特別の接客係が居て、早い話、何でも客のいうことを聞いてくれる。何でも、といってももちろん常識(モラル)の範囲内だが、たとえば客が夜中の2時に「マニキュアがしたくなった」といえばネイリストを手配するし「靴が欲しいから、20足くらいデパートから取り寄せて」とか、極端な話では「窓から見える山手のマンションを1室欲しい」といえば不動産業者をすぐさまホテルに手配する、などといった仕事をする係をいう。
・・・日本ではとんでもない話だが、世界の金持ちは何を考えているのだか・・・。とにかくそういう仕事があるのだそうな。
最近、門信徒の方から「お寺さん、いい植木屋さん知りませんかあ?」とか「腰が痛いんやけど、どないしたらいいやろ?」とか、いろんなことを聞かれます。
「ほいじゃ、僕が腰を押さえてあげるから、脱いでみて・・・」と言うわけにはいきませんから、「ああ、それだったらウチの門信徒の○○さんの兄さんが○×駅のウラで整骨院やってはるから言うときましょか?」「ウチの植木屋さん手配しましょうか?」などと、いろんな業種の方を知っているのに気が付いた。何気ないコミュニケーションの中で人々の輪がつながっていくのが面白い。
お寺・お坊さんには色んな情報が集まっているはずだ。人々が困っていることのわずかながらの手助けができるもんだなあ、これもお寺の仕事なんだなあ、と思ったのであった。これってまさに「コンシェルジュ」ですなあ・・・。
そういえば、お参りのときに電球持参で交換したことがあったなあ。

0
投稿者: 若院★きむらせいゆう
詳細ページ -
コメント(0) |
トラックバック(0)
2006/10/21
毎月21日は門信徒会【聞法の集い】が催され、聴聞の志ある熱心な善男子・善女人が本堂に集ってくださる。
お彼岸などでは外部のご講師をお呼びすることもあるが通常月は住職か私(若院)が法話を取り次いでおります。私が法話に関して何よりも心がけていることは、日常に即した話をするという点である。そのためにはニュースを日々見聞し、ときには『大スポ』や『女性セブン』『anan』などの大衆紙も読んで、皆さんが何に関心を持っておられるのかを研究することが実はとても大事なのである。
今日の法座では下の記事に関連して【和顔愛語】のお話をした。
イジメの末の自殺の原因たる先生の心ない言葉が発せられた背景には、私たち大人の中に【和顔愛語】の精神の欠如が指摘できるのではないか、との内容であった。
【和顔愛語】の語源は私たち真宗念仏者の根本聖典である『大無量寿経』にある。
「・・・三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。」
とあるのがそれである。阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩の修行の姿を説いた箇所にこの言葉はある。
【和顔】とは、文字通り和やかなあたたかい笑顔で接することである。嫌な相手でもニコニコしてみよう。嫌なヤツは世の中には居ない。あいつは嫌だなと決め付けている私が居るだけなのだから。
【愛語】とはアイ・ラブ・ユー、・・・ではなくて相手を慈しみ、思いやり、愛でる気持ちの言葉を発しよう、ということである。「愛」と言う字をよーく御覧なさい。「心」と言う字が真ん中にあるでしょう? 心のこもった言葉は人を幸せにします。
・・・そう「愛は真心」、「恋は下心」なのでありますよ!

0
投稿者: 若院★きむらせいゆう
詳細ページ -
コメント(0) |
トラックバック(0)
2006/10/16
九州でまたイジメによる自殺・・・ああいうニュースは戦争以上にいたたまれないですね。何でも、原因の一つと考えているのが当時の担任による辛辣(しんらつ)な言葉であったといいます。
生徒をイチゴのランクに例えて「お前はジャムにもならない」とか。この教師は人格が崩壊しているとしかいいようがない。99.9%の先生方が教育に命を賭けておられるのに、こういうアホ教師が全体のイメージをくすねてしまう。
・・・私はふと辛い出来事を思い出してしまったのである。
確かにああいう教師は存在するのである。
それは昭和63年頃のH置荘中学校の社会科教師、小笠原の発言である。
話の脈絡は忘却したが、担任でもない彼は私のことを授業中「生臭坊主」とののしったのだ。当然、心ない級友らは先生のからかいに同調して、私をからかった。私個人の事ならグッとこらえよう。しかし父の職業のことや寺のことを笑い者にした奴らは、今も許してはいない。これは間違いなく職業差別・人格侵害である。その時から私は物分りのいい、相手のメンツを立てる心が男前の少年であったため(ホンマか!?)、家族にも報告せず、職員室にも行かず、じっと耐えた。
ちなみに私は祖父から長男・跡継ぎとしての帝王学(大げさ?)みたいなのを受けて育ってきたからあからさまに感情を出す事はないのだ。
悲しきかなや、中学生にとっての学校・先生とは逃げられない絶対的場所なのだ。先生だけではない。悪いのは集団の中の個々人と傍観者でもある。
私が事件のあった学校の校長だったら全校集会で、僧侶の立場をあえて悪用して皆を震え上がらせつつ、こう言おう。
「みなさんも、校長先生も他の先生も彼を殺した犯罪者です。この罪は法律では裁かれませんが、罪自体は一生涯消えません。」と。
そして今頃、どこかの校長先生はすっとぼけたこういう挨拶をしているだろう。
「皆さん、大変な事件がありましたが、改めていのちの大切さを確認しましょうね」

0
投稿者: 若院★きむらせいゆう
詳細ページ -
コメント(0) |
トラックバック(0)