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なむあみだぶつ
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2007/5/29
本堂平成大修復工事の足場の第1段階が終了した。
「何とかと煙は高いところに上る・・・」ということで、カメラを携えて間近に屋根を見る。傷みは思った以上に激しい。なおかつ何種類もの時代や形の異なる瓦が混在しているため継ぎ接ぎだらけである。・・・しかし崩壊することなく今日まで本堂を護りきったわけであるから、瓦の強さを再認識した次第だ。

このコミカルな瓦は【留蓋瓦(とめぶたがわら)】と言うらしく、向拝の角を対で以って美しく飾る目的がある。真光寺本堂の留蓋瓦は、阿吽(あうん)の獅子である。阿吽とは、神社の狛犬のように、片方は口を少し開けて、もう片方は閉じているものだ。

獅子は麒麟のように空想上の動物であり、ライオンに近い。仁王さんのように激しいにらみを利かせているというわけでなく、ややコミカルな表情で幾千人もの参詣者を迎えてきたわけである。
そういえば『重誓偈』には、
「衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、法を説きて獅子吼せん」とある。
実に聞法の道場である真宗本堂に相応しい留蓋瓦である。

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2007/5/25
本堂修復工事のため、先日来ご本尊様には遷座(せんざ;仏像を移動する)いただいている。各種御影とともに、意外と上手く収まり、さしずめ【簡易御内陣】といったところか?

修復期間中、阿弥陀さまには少し横になって休んでいただこうかと思った。しかし阿弥陀さんはずっと立ちっぱなしでいい、と言われる。
仏像には大別して2種類ある。一つには奈良の大仏さんみたく「座(坐)像」と、立像である。(ちなみに阿弥陀如来像は全て立像かというとそうではなく、他宗では座像を用いる例もある)
なぜ立っているのか。・・・それは阿弥陀如来の慈悲心を形に表現しているからである。長い旅に出ている我が子を案じる親は悠長に座っていられるだろうか。心配で仕方がないから立って遠くから見守っているのだ。・・・もし何かが起ったときにはすぐに出動して救いに出るのである。これを「救急の大悲」というのである。
ご本尊といえば浄土真宗では【名号本尊;南無阿弥陀仏・帰命尽十方無碍光如来など】も忘れてはならない。前例がないだろうが修復なった本堂内陣の宮殿にはご本尊と共に背面壁に御名号をお掛けしようと思っている。
我々は阿弥陀如来の姿・形の如何によって救われていくのではない。名号のはたらきによって救われていくことを決して忘れてはならない。名号なくして親鸞浄土教はまったく語りえない。お念仏(称名)は信心獲得後の報恩行である。大切なのは信心獲得に直に関わる【聞名(名号を聞く)】なのである。
【ハトは平和の象徴】、というがハト自体が平和なのではない。あくまで平和を象徴するハトである。ご本尊も同じで御木像自体が阿弥陀如来なのではない。阿弥陀如来の慈悲心を象徴するのが、立っておられる形なのである。そこんとこ間違えうといわゆる「偶像崇拝」になりかねない。
形なきものをいかにして形に表すのか?この点に先達は数々の苦労を重ねられた。親鸞聖人は形をも超えたとも言いうる「名号」に弥陀のお心が詰まっているといわれた(全徳施名)。

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2007/5/20
5月21日は親鸞聖人のお誕生日です。この21日をご縁にして真光寺では門信徒会・聞法の集いと称する法座を開催しています。
【門信徒会】というのは、現在の寺院の組織でいいますと異色の組織のようで、前住職が現役のころ、本山の【門信徒会運動のすすめ】という指導にしたがって、都市化時代に対応し、旧来の門徒組織のみならず、新興の信徒の教化拡充を目指した宗門の一大ムーブメントでした。スローガンは【あなたのお寺を強くしよう】でした。
※注;当寺では、いわゆる“檀家”を門徒と定義し、それ以外を信徒と位置づけ、門徒と信徒の有志が会費を支払い「門信徒会」を組織しています。檀家という名称は江戸幕府が用いた言葉で、宗門の法規上では「檀家」なる語は一言も出てきません。ゆえによく檀家総代といいますがこれは×で、門徒総代が○です。
この運動は時代に即応し、旧来の門徒組織を大きな基盤にしつつ、真光寺の発展強化に大きな力を得ることができました。旧来の組織と近代的な門信徒会組織の力が一つになれば、おたがいの負担も減り、余力を持って寺院護持運営・教化伝道に集中することが可能となるのです。これを自動車みたいに【ハイブリッド・シナジー効果】と呼びたいくらいです。
どこの寺院にもあるであろう婦人会・壮年会組織は男・女が別れています。しかし、宗門では【男女共同参画の徹底を】といいます。大いなる矛盾です。門信徒会は当初より男女合同で、僧侶の一方的な法話だけではなく、参加者のいろんな発言を交えて、正信念仏の聴聞の道をともに歩んでおります。
宗門では【門信徒と僧侶の課題の共有】と叫んでおりますが、そんなことは浄土真宗寺院では太陽が東から昇るように当たり前の話で、そういう次元から訴えかけていかねばならないのかと思うと、とても情けない。
ともあれ、門信徒会・聞法の集いは楽しい。お世話してくださる方がおいしい軽食を作ってくださるし、歌も歌うし、ビデオも見る。外部から講師も招聘する。バザーもするし、消防士を招いて防災の話も聞く。聴聞が目的で無くってもお寺に足を運んでくださる方がいる。
僧侶と門信徒は課題を共有しうるが、その違いはプロかアマか、だ。
課題解決のプロセスや手段が全く違うのである。門信徒の方に宗門・寺院の行く末を心配させるわけにはいかない。

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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