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なむあみだぶつ
2007/9/30
夜、近所の書店に赴く。
納骨堂ロビーに置く、女性誌『GRAZIA』11月号・『犬川柳』・『サライ』、自分用の『ゴー宣 暫(しばらく)1(小林よしのり著)』、そして禁断の当書を買う。
禁断、ってことも無いんだけど、私、この人結構好きです。どこか気持ちいいんですよね。善い悪いはそれぞれですが、世の中、みんな善人ばかりで「うんうん、そういう考え方もあるよね」なんて無難な答えよりも「それはダメだ、これはこうだ」とはっきりした答えを大衆は望んでいるんだと感じます。結果、それで悪い方向に転んでも、それは自己責任。

※都合により表紙の一部を加工しています。
《先祖供養イコール宗教行事という大誤解》(32頁)
《檀家制度は日本人の心に何を育てたか》(34頁)
《菊の花は“仏の教えを受け、よく“聞く(菊)”・・・》(143頁)
などは、なるほど、と思い、赤線引いちゃいました!
【浄土真宗は先祖供養はしない!お墓も不要だ、女性の法名に尼はいらない】じゃなくて、なぜ日本人は先祖供養(崇拝)するのか、なぜお墓を大事にしてきたのか、なぜ男女の役割を厳格にしてきたのか、そういう【歴史・文化・風土】を、我々は一から勉強しなければならないと思います。
我々坊さんの業界では、いわゆる「八卦見、占い師」は評判悪いです。痛烈な批判の言が飛び交います。しかし、そういう人の多くは著作1冊も読んだことの無い人がほとんどかと思われます。物事の批判をするにはその分野に相当精通していなければならないはずです。
この作者は【宇宙の法則、人の道】なるものを独自のレトリックで述べられています。ゆえに我々の【仏道】とは“分野が異なる”のです。ですから批判をしても何も始まらないのです。
いや、ひょっとしたら、我々は浄土真宗という純粋無碍なる【仏道】にこだわりすぎていたのかもしれません。混迷の世に生きる市井の人は、まずは【人の道】【私の生きる道】を模索しているのでしょう。いきなり金科玉条の「阿弥陀さんが〜」、なんて言われても「ハァ〜?」て感じになるのです。
自分の耳で聞き、自分の言葉で話せる坊さんにならねば・・・

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2007/9/28
マイクの音声をスピーカーから出すには【PAアンプ】という、ものものしい機械が必要でした(これだけでざっと15万円ほどします)。運動会のテントの下にある放送機械です。このアンプは基本的にモノラル(ステレオではない)ですので、クリアな音楽再生には不向きです。
PAアンプは音質が云々される性質のものではありません、館内放送のように音声が伝わりさえすればよい、との考えに立脚するものです。
本堂音響の難しい点はいろいろありますが、特定のリスニングポイントが無い(=どこに座っていても明瞭な音声が必要)ことが挙げられます。ゆえにステレオ再生はあまり意味がないということになります。しかしモノラルのPAアンプでは不満がある・・・という二律背反の世界なのです。
・・・興味のない人には全然分からない話になっているでしょうね・・・
この矛盾を解決してくれるのがタイムドメインスピーカーです。このスピーカー、何とコーン部(振動版)が真上に向けられるのです。これは噴水のように、放射状に音が空間全体に広がること(=特定のリスニングポイントは問わない)を意味します。

更なる画期的な機械があります。
i-pod はもはや常識ですが、左側のコンパクトな【ミキサー】です。ここにマイク入力が4系統ほどあり、i-podからの音楽とマイク音声を混合(ミキシング)できるというものです。すごいぞオーディオテクニカ社!!電池駆動も可なのでストリートミュージシャンも使ってそう。
ミキサーからの音は通常のステレオプリアンプを経由して、スピーカーを駆動します。つまり、PAアンプはお払い箱というワケ。願うはここに真空管アンプを接続することだが・・・構想は尽きない!

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2007/9/24
本堂、すなわち宗教的空間における音響設備には随分と苦心させられます。空調にはみなさんご熱心なのに、日常使用する音響や照明に関しては、あまり関心が向けられず、相談する相手がほとんど居ないのが残念です。
住職は随分と以前から音響には凝っておりましたが、どうも催し物会場のような音の鳴りようやら、ハウリング(ピーという異音)多発やらで、しっくりこないものがありました。元来、住職と私は機械類が好きなのでケンカしながら理想の空間づくりに邁進してきました。
本堂では音楽よりも法話での音声がもっとも重要なのですが、一般的にいって、人の声は頭上から聞こえてくるのは良くないことなのです、特に法話のシーンでは、高いところから威圧的に鳴ると、まさに“説教”されているかの心理的悪影響が出るように思えます。しかしたいていは長押(なげし)の上や天井板にスピーカーが設置されているようです。
スピーカーの理想の高さはリスナーの耳の高さと同じです。ホームシアターを所有している方なら、セリフ用のセンタースピーカーの設置場所を思い浮かべてください。
今夏、仮本堂用に【タイムドメイン・スピーカー】を新設しました。これは驚きのスピーカーです。以下HPを御覧ください。ページの下に設置例として、真光寺が掲載されています。
http://zerodesign.biz/timedomain.htm?gclid=CPK1_vWRto0CFQufbgodEDhOMA

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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2007/9/21
昨日届いた『本○寺新報』、各寺院の活動の様子等が紹介され、とても参考になりますが、自己批判的な記事は一切掲載しない点は、かの『朝鮮中央日報』や旧ソ連の『プラウダ』紙にも通じるところがあるかも。
そんな中、しばしば意味不明の記事に頭がクラクラすることが・・・。3回ほど読み返すも意味が分からない。
少し紹介しよう。
「障害者という表記について」
と題されたK氏の記事だ。
「障害者を【障がい者】【障碍者】などと表記されるのは何故か」という問いに対して氏は、障害の「害」と言う字が社会に悪影響を及ぼすという負のイメージがあるから、「害」を「がい」と書き換えて、障害ある人への“配慮”を窺わせるものだという。
・・・私は日本語として氏の意見を理解できない。障害の障も“さわり(さまたげ)”という「負の意味」である。なぜ「害」だけが避けられるのぉ?
かつて聞いた、ある車イスに乗った人の意見が忘れられない。
「私を見てもらえば分かりますように、ある程度の制約はあるにせよ、車イスで自由に移動ができます。頼んでもいないのに手を差し伸べたり、哀れみの目で見ないで下さい。あなたはそれを“やさしさ・あたたかさ”と呼んで自身の親切心に酔っておられるのでしょうが、一人の自立した人間としての私を見て欲しいのです。どうかかまわないで下さい。」と。
配慮や優しさ、なんてさりげなくするもので、文言を一部変えて、どうのこうの言う問題では決してないのである。全く偽善者のすることだと思います。
また別のページには、自殺という言葉に関しての意見もあった。
“自殺”という表現はアウトらしいですね。「自死」って言うらしい!!何で?
記事は続く。
“殺という字は殺すという字だから強烈なイメージがある。自ら死を選ぶという自死を使用している”・・・云々 オイオイ
「自分を殺す」という表現と「自ら死を選ぶ」のどちらが刺激的かなんて、人によりけり。文学人ならば「自死」の方がより強烈に読みますけどネ・・・。
自殺は自殺です。見るに耐えない凄惨な事実です。死ぬのなら遺体が絶対に見つからない方法でやってもらいたいものです。また、死は当事者には関係がありません。自己を認識できなくなることが死だからです。死は社会的なものでもあり周囲の者に与える厳しい現実です。
言葉を置き換えて別問題にしようとするのは、自殺された人への冒涜だと私は思っています。「いのちの価値に自分や他者の区別はない」と説くのが仏教ではないですか?・・・それならば他者を殺すことが罪ならば、自分を殺(あや)めることも罪になるのではないでしょうか。自殺した人が美化される風潮があるように思えてならないのですが、先ずは事実に向きあうことこそが大切なのではないでしょうか?

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投稿者: 若院★きむらせいゆう
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