ようこそ真光寺ブログへ。
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目指せ1000記事投稿!(2021・2月1日現在918本)
なむあみだぶつ
2008/5/29
大阪教区のHPに、ようやく府下の浄土真宗本願寺派寺院の名簿が出来上がりました。
http://www.kitamido.or.jp/kyomusho/
HPを持っている寺院の少なさに唖然としてしまいましたが、今後も地道に続けてまいります。HPの性格はそれぞれですが、コンテンツの充実度ではウチが府下No,1だと思います。僧班でいうと顕座5席くらいでしょうか?!?
愛する真光寺を【負け組寺院】に陥れるようなマネは命に換えてもしませんので、真光寺門信徒の方々には今後もご指導のほどよろしくお願いしますっ。

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2008/5/24
本堂は隅木(すみき;角の五角形の木)の取り付けがすみ、垂木(たるき;軒を構成する一本ずつの角材)も取り付け、現在は何だかわからない部材の作業が淡々と続けられております。大工さんのオーラで迂闊に現場に近寄ることができません。

本堂の屋根はこのように優美な曲線が見ものです。
それにしても紙一枚も入らないほどの接合部の工作精度がスゴイものだと思います。
このままいつまでもたっても完成しなければいいなあ、と思います。こういう段階が一番楽しいものではないでしょうか?

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2008/5/22
毎月21日午後1時〜2時30分は、真光寺門信徒会の【聞法の集い】を開催しております。5月21日は親鸞聖人降誕会の日ですので、それに合わせています。
「門信徒会」とは信徒さんを中心とした教化団体のことで、40年前に宗派が≪あなたのお寺を強くしよう≫とのスローガンのもと組織された、要は寺院の近代化・寺院護持運営の強化を試みた運動のこと。ウチはこの門信徒会運動の原初の理念を継承していると思います。
門信徒会は当初より、男女や年齢の区別は問うていません。聞法の志ある人は資格不問なのです。だから【聞法の集い】と称しているのです。

んで、仮本堂ですが、こんな感じで進めています。
法話・学習資料・茶菓や軽食・おみやげなどを準備して、法話・学習・漫談・仏事作法指南・演芸会などなどの活動をしております。

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2008/5/15
浄土真宗の本尊には形像(絵像・木像)と、名号の2種あることを御紹介してきましたが、今日では【形像は名号を具現化したもの】という程度の説明がなされておりますが、一般の方向けにはこの位の説明に留めておかれた方がよいでしょう。すでに継続してこのシリーズを読まれている方は、一般ではない?!方々ですので、引き続き親鸞聖人の思想の奥深さを一緒に味わいたいと思います。
今日では形像本尊はごく当然の礼拝対象として理解されておりますが、初期真宗において形像本尊は特別のメッセージを持ったものでした。そのメッセージを親鸞聖人はアンチテーゼとして浄土教思想の真髄に迫っていかれたのです。
形像の阿弥陀如来(その姿を「来迎印」という)は平安時代に【来迎思想のシンボル】として受け止められていました。
往生極楽のこゝろざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち 来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。『西方指南抄』巻上本
とあります。一見、(臨終)来迎の何が悪いのだと思われましょうが、元気な時は好き放題に栄華を誇り、死ぬ間際に回心して臨終来迎を待つ。こういう悠長で横着な考えを真っ向から否定したのが親鸞聖人です。いつ死ぬか分からない無常の生なんだから、普段(平生)にこそ、救いが決定されねばならないではないか。切迫した生死の闇を救う本願に出会うことを喜ぶことを信心というのだ、と。
これについて『末灯鈔』第1通には、
真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり、来迎の儀則をまたず。
とあります。今も昔も、人生を謳歌し、金ピカの阿弥陀如来が菩薩を引連れて臨終の枕元までお迎えがきたら有難いと思うでしょうよ。でも阿弥陀さんはタクシーと違いますよ!
信心が無くても、悪人でも、死に際にお迎えが来て結局誰でも往生できるのが念仏の教えではないんですヨ。「おいおいあなた方、往生でけへんよ、どないする?」って常に問いかけられるのが念仏の教えなんです。そういう問いを持つ人の資格として、善人・悪人、僧侶・在家は問わないと言っているだけです。
真宗では後に立像の「来迎印」を持つ阿弥陀如来像を、形はそのままにして「摂取不捨印」として真宗的に消化するが、実際の念仏者がどのような意識で念仏しているのかについては知る由はない。自分が第十八願の境位にいると称している者でさえも、形像本尊を拝して諸々の善を行じては来迎を期待する者もいるかもしれない。
又は仏像をみて浄土往生を願う「観仏」の行につながる場合もある。さらには金箔など造形技術が進むと、芸術として、すなわち【礼拝対象ではなく、鑑賞対象】として阿弥陀如来をモノ扱いする場合もある。
たいして名号本尊には、来迎思想や観仏との誤解は一切ないピュアな本尊なのである。名号本尊はそれまでのスタンダードであった来迎思想との「訣別」であり、第18願思想への昇華なのである(来迎思想は第19願)。
このように聖人の不来迎思想は形や色(観仏の対象)にとらわれることなく、また芸術的美の世界にとどまることなく、宗教の本質(阿弥陀仏の本願)そのものを認識することが肝要であるとの立場を表明するものである。阿弥陀仏の本願を信知するには、名号そのものを礼拝の対象とするのが最上策であると結論付けたのではあるまいか??

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