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なむあみだぶつ
2008/8/31
浄土真宗の教義では、故人は49日の審理期間を経なくとも、臨終ののち、直ちに弥陀浄土に往生して成仏するという教えです。ただし生前に信心を得、まことの念仏を称えていたならば、という条件つき ですが。
ですから、生前に放蕩三昧で手なんか合わせたことのない人や、日頃からお寺で聴聞していると言えども、義理で参っている人、あるいは赤ん坊は成仏しないという理屈になります。
・・・このように理屈で考えてみると、浄土真宗であろうとなかろうと、宗教そのものが成立しなくなります。宗教は理屈や概念を超えた世界であるからです。
つまり、信心があろうと無かろうと、念仏をしようとしまいと、観念・理屈で以てそれらを捉えたならば、信心も念仏も絵に描いたモチ同然ということになります。
すべては阿弥陀サマが何とかしてくれはる、っちゅうことです。心配はいらんということです。信心は概念的に説くものではなく、如来のはたらきそのものであります。信心は“完全に如来さまにお任せする”ということです。難しく考える必要はないでしょう。
・・・ですが、葬儀の報を受け、喪主と葬儀社との打ちあわせの中で、信心の話なんぞしようものなら「お住っさん、後にしとくんなはれ!」で終わりです。信心ないと成仏できないのに。。。
実際問題、施主のほとんどは“宗教としての浄土真宗に関わっている”のではなく、“ウチのかかりつけの寺は●○寺で、お西さん・お東さんどっちやった?・・・葬式は何時からや?”というだけの話なのです。この両者の隔たりを何とかせねばならない、と常に思うのです。しかし・・・
これだけ情報が増え、生命がDNAの所産とし、それを科学的に操作できる御時世において果たして、命の尊さだとか、念仏を称え、阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき、還相廻向のはたらきでかえってくるのだ、といった表現で人々のハートをつかむことが出来るのだろうか?・・・極めて危ういと思います。時代風潮に矛盾しない浄土真宗の布教法を構築せねばならないのです。
ゆえに、現時点での私の結論は・・・、
一連の葬送儀礼に関しては、クドクド法話をせずに、定められた衣体を着て、大きな声で読経する、この点を重視するのみです。ええ加減な衣体・読経・作法はダメでしょう。(・・・次からお布施減らされますしぃ。)
私は坊さんとは、後ろ姿で説教するもんやと思っているんです。“親の背中を見て育つ”、とも言いますように、本当の大切なマインドはそういう伝わり方をするのではないでしょうか?

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2008/8/30
真光寺HP本編にて、伝道掲示板の法話(8・9月度)を更新しておきました。
今回で第96作目なのですが、第100作を節目に定期的な更新は休止にしようと考えています。粗末にならない内にやめておきたいのです。御愛読・御指導ありがとうございました。

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2008/8/21
お盆・靖国・GHQの宗教政策に関連しまして、日本人の死生観(しせいかん)について、さらに考究を深めたいと思います。
タイトルには【・・・死生観】と記しましたが、仏教では【生死観(しょうじかん)】と記します。この両者の橋渡しをするのが僧侶の仕事と言えましょう。浄土真宗のお経はまさにこの一点を明らかにする目的で書かれております。
さて、先月と今日の満中陰法要にて、相次いで面白い質問がありました。
【満中陰の金封の色は、黄・白ですよね?(そうです)、それで表書きは満中陰以後は「御仏前」で、それまでは「御霊前」でいいんですよね?】
・・・「???“それまで”は御霊前??」
どうやら満中陰までの故人は霊魂のままで、満中陰に無事成仏するのだ、と冠婚葬祭本で読んだらしいのです。確かにそういう説き方をする宗旨もありますが・・・。
ふと思いましたのはぁ、
「・・・そうか、一般的に人が死んだらどうなるのか、案外あいまいに受け取られているのだなあ」と。
それもそのはず、小泉首相ですら「日本人は死んだらみんな仏になる」と公言しながら、靖国神社(神の領域)に参拝していましたから・・・。仏教界はそのことの矛盾を指摘すべきだったでしょう。また、警察関係者は死体のことを「ホトケさん」とも言いますし、何が何だか分かりませんが、一介の坊さんとしてはホットケないのです。
宗派を問わず日本人の儀礼に浸透している【中陰・49日】とは、インドの輪廻転生思想にルーツを見出せます。
寿命尽きれば49日間、どこに生まれるとなくさまよう状態(中有)になり、7日ごとにイカつい審議官が登場し、故人の生前の罪状審理が為されます。49日目には「お前さんは地獄行きや」など、の判決を受けます。たいていの人は生前の行いに自信がないですから、遺族は仏前にお供え物を山積みし、善根功徳の追加(審理官にワイロを渡す)をし、少しでもいい世界への転生を祈るのです。これを「追善供養」と言います(・・・あくまで一般的な理解ですので、最後まで読んでください)。
でも皆さん、来世はどこに生まれるのだろう、と色々心配しなくていいのですヨ。みんな地獄に行きますから。それだけ悪さしてきたのですよ、我々は。⇒「地獄は一定すみかぞかし(『歎異抄』)」
でも・・・、この先が浄土真宗の領域です。【続く】

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