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なむあみだぶつ
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2008/10/1
当本堂は修復(正確には“修築”というらしい)事業である。当初は予算の心配もあって出来るだけ現状を保持するという方向性であったが、紆余曲折の末、ほとんどが新材という事態と相成った。ありがたい限りである。
しかし、写真のように古材を残す部分がある。これについては建設委員の間でも意見が分かれた。

「ここまで来たんだから、これも入れ替えよう」
「いや、これは荷柱だから難しい・・・」
「先祖の形を残すのはよいことではないか・・・」等々。
・・・横で聞いていた私は、ある古典の一節を思い返したのであった。
それは・・・『徒然草』第82章である。
前略・・・物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれと言ひしも、いみじく覚えしなり。 すべて、何も皆、事のとゝのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるゝにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。
これはワビサビに通じる、日本人の美学といってもよかろう。
何事も完璧なものはよろしくない。わざと未完の部分を残すことで、未来への発展を暗示させるのである。それは宮中であっても同じこと。書物であっても、わざと抜け落ちた箇所を残すのが粋(イキ)というものである。
う〜〜〜〜〜ん。深い。
もちろん新築(正確には改築)を望む声もあった。
しかし、古いものを残すことは新築よりも精神性が高いのである。
(新築というのは、全くの新天地で寺院を開創するをいう。)
月は満ちれば、あとは欠けていくのみ。
タイガースの虎みたいに、口を開き切っては閉じるがのみ。
物事は極みを見せれば、あとは朽ちていく(アメリカ金融問題に思う)。
寺院というところは、永遠に完成を見ない場所なのです。
だから永代にわたって護持の念を相続せねばならんのです。

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