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なむあみだぶつ
2009/4/28
最近、納骨やら墓地建立の時期、先祖代々のお骨・墓石をどのように整理したらよいのか、という質問が矢鱈と多いのです・・・。
これらの件に関しては地域性やら世代間での感覚のズレがあって、また“浄土真宗ではこうしないといけない、”みたいなルールも、有って無きようなものであり、画一的な回答に窮すことがしばしばなんですね。
信心の問題や、社会との関わりを模索することも寺院・僧侶の役割としては大切ではありますが、経験上95%以上の門信徒は故人のお墓・遺骨のことが第一の懸案ですし、そういう問題をクリアした上ではじめて、自身のいのちの問題として仏法に親しむことができるのだと思います。
「門信徒のお寺離れが止まらない」
という現場の窮状をよく耳にしますが、何のことはありません、世間のニーズと、お寺サンのサプライが噛み合っていないからでしょう。お寺サンが権威を笠に着てピントのずれた事を言い、門信徒の心の奥に耳を傾けてこなかったからではないでしょうか?
我々は明確に、地域性や世代間のギャップを上手く埋めつつ、改めてお墓やお骨のことに関して積極的に語り始めてもよいのではないか、と。
以降、不定期に大阪でのお墓事情を紹介しつつ、諸問題を皆さんと考えていきたいと思います。ちょっとコワイ画像を貼るかもしれませんので、あまり深夜に見ないで下さいね。

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2009/4/21
出ました、ゾロ目。
何かイイ事ありそうな予感?!
小市民ですなあ。


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2009/4/13
桜は散りゆく様を愛でる花ではないでしょうか?
古来より、日本人は桜を【盛り】の象徴としてではなく、仏教的な【無常】観をあらわす花として理解してきたように思えるのです。「遠山の金さん」や「豊臣秀吉」は桜が好きだったようですが、盛者必衰(=諸行無常)の武士の生き様を投影していたのかもしれません。

桜ってこんなにもたくさんの色がついているんですね!

岸和田市 久米田寺境内にて(ニコンD700 AF-Sニッコール17〜35mmF2.8D)
そんなわけで迷信めいたことを申すようですが、私、個人的には桜は【忌み木】だと思っております。ピンクから白へのグラデ−ションが死に顔を連想するのです。コイツは民家の庭に植える木ではないゾ、と。(★忌み木:いみき・・・武士の家におけるツバキのように、植樹がタブーとされる樹木)
浄土真宗では迷信に振り回されない、という強い信条があるのですが、参拝に訪れる人の心を悲しませることなく、生きる希望を抱いて帰っていただくために、おのおのの樹木のいわれや性質、世間での評価を知っておくことが大切だと思います。
迷信を否定するのが真宗の坊さんの仕事ではないんです。迷信に恐れをいだく人々の心に寄り添う、っちゅうことが大切なのですヨ!!

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2009/4/10
何かを作っている最中に、壊れてしまったり、まったく用を為さない形になってしまうことを俗に【お釈迦になる】といいますよね?
今日はこの語源についてのお話。
@ある鋳物職人が、阿弥陀如来像を鋳造しようとしていて、何を間違ったのか途中でお釈迦様の像になってしまったから。
A江戸の鋳物職人が仏像を鋳造しようとしていたときに、火が強すぎてグニャグニャになった。
これには説明を要するでしょう。・・・つまり、
「火が強かった!(ので、仏像が溶けてしまった)」
を、江戸の言葉(“ひ”と“し”の音を混同する)では、
「しがつよかった」となり、
それが、
「しがつようかだ」
「4月8日だ!」
「花まつりだ!」
「お釈迦になった!」
ということらしい(あくまで俗説)です。
お釈迦さまにとっては失礼な表現ですが、俗語から仏教に興味を抱いて下さるのならば、お釈迦様も笑って許してくださるでしょう!?
≪こぼれ話≫
・・・所詮、仏像は仏像です。仏像そのものを仏さまと勘違いをなさらぬようにお願いいたします。仏像とは、目に見えない仏さまの慈悲や智慧といった徳を、柔和な顔などの目に見える形で“象徴”されているものです。

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