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なむあみだぶつ
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2009/5/29
インフルエンザ騒動に関して、一宗教者としての見解を開陳させていただきたいのです。
日本人の行動原理の一端が伺い知れたので、そのことについて。
兵庫・大阪では今、大変なことになっていまして、一番かわいそうだな、と胸を痛めたのは、関東の友人を結婚式に招いていたのに、「職場の上司に神戸行きを止められた」などの理由を付け、欠席の届けが相次いでいることです。修学旅行のキャンセルなどなど、経済損失はタイガース優勝の経済効果額を大きく下回っているのだそうです。
私はピンと来ました。
「ははぁ、これは 穢れ思想だ」、と。
日本人のDNAに浸みこんでいる穢れ思想なんだ、と。・・・葬式の帰りに塩を撒いたり、特定の人々を忌避してきた思考と同じなんだと。
話はさかのぼって25年くらい前、私のホームである河内・泉南地域では小学生のとき【デン・ギッチョ】という遊びが“流行り”ました。
クラスに一人や二人は居たであろう、ちょっと貧しく・小汚い級友に体が触れたら、その子の・・・何やろう?【穢れ菌(ギッチョ)】みたいなのを払いのけるために、友人たちにタッチして(=デン、して)、その穢れを自分にとどめないようにする遊びです。無論、友人たちは、デンされないよう(汚染されないよう)に、教室内をキャッキャツ言うて逃げ回ります。
これはさすがに先生に見つかり、学級会でこっぴどく叱られたのを覚えています。
さぁ、今回のインフル流行に派生して起こった諸問題はこの【デン・ギッチョ】と無関係だと言えるでありましょうか?
マスク姿は世界的に奇異に見られました。
日本人は近代的思考を元に生活を営んでいると思われていたであろうに、中世的・呪術的な一面もなおも有する不気味な民族と見られたのではないでしょうか?ひょっとして国益に反することになったかもしれませんが、舛添さんは責任を取ってくれるのでしょうか?
・・・いやいや、外でマスクをすることが意味がないことだと言っているのではありませんヨ。この現代において、科学的見解を上回る、脱我的・因習的・迷信的思考というウイルスが目を覚まし、人々の精神に蔓延してしまったことを驚異に思っているのです。こういう“右にならえ”的な国民性ではすぐに戦争を始めてしまってもおかしくないと思います。
エライ大層なことを言うてはるなぁ、と思って頂いて大いに歓迎です。でも「宗教者」たるもの、世間と違う視点を提供し続けることが大きな役割だと思いますので。

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2009/5/19
西本願寺では親鸞聖人を安置する御影堂(ごえいどう)が平成の大修復を終え、落慶法要を迎えるにいたりました。
御影堂には【御真影(ごしんねい)】様と称される、親鸞聖人のお木像が安置されております。阿弥陀如来の応現・活き仏としての尊崇の念を集めています。
一説にはこの御真影さまは、なんと聖人の遺骨を漆に混ぜて、木像に塗り固めてあるというではありませんか!大阪は一心寺の【骨仏(遺骨を石灰と混ぜて固めて仏像にする)】と同じようなもんだ!
いずれも、骨を礼拝対象に仕立てしまうという発想は、いい意味でも、悪い意味でも「天才的」ですネ。
いくら高邁な教義を持ち出してみても、阿弥陀さんを拝めといっても、結局のところは本山では阿弥陀堂よりも御影堂が巨大で、行事はすべて御影堂中心。一般門信徒宅でも、ご本尊は遺骨や過去帳の“背景に過ぎない”ようです。
ピュア?な20代の頃の私は、こういう「現場での矛盾」を常に頭に抱え、真宗史と真宗教義学を手がかりにした連立方程式の解を求めるべく、模索をしておりましたが、そういう「合理的アプローチ」が全く意味を為さないことに気が付いて以降、ワタクシは研究の世界を捨てました。
机上の学問が全くの骨折り損だったとは思っていませんが、門信徒を抱える「寺院」という世界を統率していくにあたっての、大きな踏ん切りであったと思っています。

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2009/5/10
粉っぽい記事が続いていますので、少しうるおっていただきましょう。
5月ともなると、境内では草抜きやら枝物の剪定作業、消毒などが続きます。こういうお寺での仕事を【作務(さむ)】といいます。そうです、作務衣(さむえ)のサムです。
“草葉の陰”にホトケがいましたので、撮影しておきました。
釋カラー です。
釋尼クローバー です。
★葬儀のアイサツで
「故人も草葉の陰で喜んでおります・・・」
って言わないでください。連れ合いがバッタやコオロギになったなんて、あんまりでしょう?

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