2009/8/20
祖父が戦中に使っていた【行李】(こうり;旅などに用いる荷物を入れるふた付きの箱)です。
さすがミリタリー(軍)仕様、ビクともしていません。

かつてはこの行李の上を弾薬が飛び交っていたのでしょうか・・・。
軒下に仮置きしていたらいつの間にか、寝床にされてしまいました。
この行李は以前にクルマのトランクの中で荷物入れに用いていたものです。また戦地に持っていくことの無いことを念じて・・・。

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2009/8/14
お盆のお参りもあと少しです。
忙しい、忙しいとブーブー言いつつも、行けば普段はめったに会えない当家の家族方と談笑するのも貴重なご縁です。
また高級なお菓子や畑の野菜なども頂けて、坊サン稼業は食うには困りませぬ。そのお返しにといっては何ですが、坊サンたるもの、世間のヒトビトに「心の糧(かて)」を提供するモンだと思って「説法獅子吼」の毎日です。
ところで以前にお盆のちょうちんや灯篭に、長い房が垂れ下がっていることについて触れましたよね?
「お盆」の語源についての話なのですが、お盆とは茶器を載せるあのお盆とは関係がありませんで、サンスクリット語の【ウラバンナ】が漢語になり【盂蘭盆(ウラボン)】となり、日本語と成って【(お)盆】と略された語であります。
この【ウラバンナ】という言葉がちょっと恐ろしげな意味がありまして、訳せば「逆さ吊り」という意味になります。
お釈迦サマの高弟の目連(もくれん)の母が、生前の行いが悪かったがために「餓鬼道」という苦しみの世界に堕ちていることを知って、その解決法をお釈迦サマに問い尋ねたというところから始まります。「餓鬼道」とは尽きぬ欲望、嫉妬に苦しむ世界です。
目連は亡き母のどのような姿を見たのであるか、・・・それは何と足を上にして縛られ長い髪が垂れ下がって苦悶の表情を浮かべる母の姿なのでありました。・・・その垂れ下った髪を表現するのが、灯篭の長い房だという・・・説です。あくまで説。
盆灯篭の房を見て思うのは、この逆さ吊りになっているのは、実は苦しみあえぐ亡き父母ではなくて、ひょっとしたらこの私の姿なのではないだろうか?と思うことであります。
つまり、@正しいことをしていると思っていても実際は誤っている、A相手を思いやるつもりが実は傷付けている、B結果を先に求めて過程・努力をないがしろにしている・・・。等々。
私たちの生活態度・言動は実に「ウラバンナ(逆さま)」なのではないか、と。
せめてお盆くらいは、日頃の激務に体をいやしつつ、心をリセットして心静かに手を合わせて、仏の智慧を基準点にして逆さまな自分を元に戻す、というふうに理解をしたいのです。
では故人に何をすれば喜んでもらえるのか、それはお寺サンが喜びそうなお供え物をし、子孫が健康で感謝の心を忘れずに、仲良く謙虚な生き方をしてくれることだそうです。私、真光寺秘伝の霊界通信術を用いて聞いてきました
。

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2009/8/5
裁判員制度が始まりました。たまたま8月の掲示伝道句がこうなったわけですが、道行く人は関連づけて考えて下さるでしょうか?

制度に賛成するも反対するも、周知徹底が不十分だったと思っています。
だいたい裁判員なんか、法学部の学生をはじめとする、法曹界に興味のある人間が応募・抽選・審査されて就けばいいだけの話ではないでしょうか?・・・全く迷惑千万な話です
。
私は、裁判とは“高度な専門領域”だと認識しています。その意味で、病院での医者の診断をそこいらの素人を交えて、
「この患者(被告)さんの薬の量(量刑)はどうしましょうかね?」
といっているのとまったく同じに聞こえマス・・・。
裁判を行う側の立場の人間は、どこかで自分の判断が善・公正であるという認識がないと出来ません。しかし、その認識に対する根拠は何処に拠って立つのでしょうか?生身の人間ですから、その日の体調によって判断が揺らぐこともありえましょう。
法律を扱うプロでさえ判決を下すのに苦悩を抱えているのに、市民を巻き込んで意見を聞こう、なんてプロ意識の欠如に他ならないのあります。法務省はよっぽど予算が余っているんでしょうねぇ。
親鸞聖人は『正像末和讃』において、
是非しらず邪正もわかぬ このみ(身)なり
小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
と、人間の不確かさを見抜いておられます。人を裁く前に自分を裁くことができますか?如来の前では人間なんてみんな地獄行きの罪業を背負っているのです。その自覚が無いところから、社会に積極的に関わろうなんて100年早いと思います。それが浄土真宗的なスタンスではないでしょうか?
ということで、市民が法律の運用に関わる必要はまだ無いと思います。
裁判官に市民感覚を身に付けて頂く事が優先事項です。・・・望むは裁判官に宗教的感覚を教養レベルでいいから身に付けてもらうことです。善・悪の問題はそもそも宗教の領域です。この宗教的な部分をないがしろにしてきた所こそ、日本の近代化の負の一面であり、現代の諸問題の根源があるように思えます。

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